5:襲撃者
■コウモリ
人間ほどの大きさのコウモリを見て、頭が真っ白になった。
――でっ、でかい!
考えるより先に、体が勝手に動き出していた。
階段を上ることも忘れ、甲川の遊歩道を下流に向かって全力疾走する。
「なんで…… なんであんな化け物みたいなコウモリが……っ!」
走りながら振り向くと、コウモリは明らかにおれを追ってきている!
スマホを握りしめた手に汗が滲む。
羽音はどんどん近づき、背後で空気を震わせる。
「うわぁっ!」
足がもつれ、遊歩道で派手に転んだ。
普段、ろくに運動をしていないからしかたないのだが。
手から離れたカバンが、遊歩道を滑っていく。
ヤバい――
起き上がろうとした瞬間、背中に何かがドンッと飛び乗ってきた。
「ああああああぁ!」
恐怖で叫び声しか出ない。
重い。
そして、妙に冷たい。
それでも、おれの背中に跨って腰を下ろしている感触で、これは人間だと理解した。
なぜ?
おれは身をよじって、なんとか仰向けになる。
そして、視界に入ったのは――
素っ裸のガタイのいい男が、おれの上に跨っていた。
「……っ」
言葉を失った。
うつむいた男の顔は、川沿いに設置された街灯の光で、逆光になってよく見えない。
全身の皮膚がボロボロで、あちこちに血のようなものがこびりついていた。
どう見ても尋常じゃない。
「あっ、あのう」
重いので退いていただけませんか……
そんな言葉が喉元まで出かかったとき、男がゆっくりと顔を上げた。
「えっ……?」
逆光で見えにくいが、街灯の光がその表情をわずかに照らし出す。
裂けるように大きく開いた口。
そこから覗く、鋭い牙。
真っ赤に光る、異常な眼。
それは人ではない明らかに異質の存在だ。
おれはガタガタと震え出した。
「うあぁぁ」
叫びたくても、恐ろしくてまともに声が出ない。
「グウウウウウ」
男は低く唸り、牙をむき出しにして、両手を広げて動き出した。
死の舞でも踊るような奇妙な動き。
赤い目玉がグルグル回っているのが、余計に恐怖を掻き立てる。
「シャァァッ!」
男は蛇のような声を上げたかと思うと、おれの首筋めがけて、牙を突き立てるようにのしかかってきた。
「うわぁ、うわぁ、あああああ!!」
おれは無我夢中で、男の顔と肩を両手で押し返す。
だが、男の力が強すぎて、びくともしない。
スマホを握り締めた左手で、顔を抑えているせいで滑りそうだ。
男の目の前で、スマホケースに取り付けた厄除けのお守りがプラプラと揺れた。
抵抗虚しく、男の牙がゆっくりと首に近づいてきた。
ダメだ――噛まれる……!
そう思ったとき、
シュゥゥゥ……!
という音とともに、男の体が仰け反った。
「……っ!?」
何が起こったのか分からないが、男は顔を押さえている。
√ #∥!∋#&〇∬‰
そのとき突然、おれの頭に、またしてもあの訳の分からない言葉が流れ込んできた。
――なぜか意味が分かる。
『逃げろ!』
それと同時に、黒い塊が猛スピードで男に激突した!
男は後方に吹き飛び、転がる。
おれは起き上がり、川下へ向かって全力で走った。
背後で「キンッ、キンッ」と金属のぶつかる音が響く。
何が起こっているか気になったが、逃げることが最優先だ。
振り向く余裕はない。
必死で遊歩道を駆け抜け、近くの階段を見つけると、おれは川から上がり這々の体で家へと逃げ帰った。
家の前に辿り着いたときには、息も絶え絶えだった。
「はぁ…… はぁ…… っ」
慌ててキーチェーンにぶら下げた鍵を取り出し、玄関のドアを開けようとしたとき、違和感に気づいた。
手に持っていたスマホにぶら下がった、お守りが揺れている。
「……ん?」
視線を落とし、そして思わず目を見開いた。
「なんで…… 焦げてるんだ?」
お守りの表面が、まるで焼け焦げたように黒く変色していた。
さらに、焦げ跡の一部には、何かがこびりついている。
よく見ると、それは――
「……皮膚?」
冷たい戦慄が背筋を走った。
それは、まるで黒く焦げた肉片のようだった。
――――――――――――
■吸血鬼
玄関のドアを乱暴に閉め、鍵をかけると同時に自分の部屋へ駆け込んだ。
そして、ベッドに飛び込み、頭を抱えて体を丸めた。
「さっきのは、一体何だったんだ……」
いや、わかっている。
おれは知っている。
あれは…… 吸血鬼だ。
コウモリ、鋭い二本の牙、異常な動きで首に噛みつこうとしてきた。
中学のとき、クラスメイトのまちゃみが吸血鬼や狼男について語っていたことを思い出す。
だが、あれは映画や物語の中の話、現実には存在しないはずの存在。
しかし、あの異形は作り物なんかじゃない。
氷のように冷たい肌。
全身にこびりついた血。
狂ったような仕草。
おれに噛みつこうとしていた牙。
全身がガタガタと震えた。
化け猫だけでも訳が分からないのに、今度は吸血鬼。
しかも、化け猫なんかよりもよっぽどヤバい。
唇を噛み、必死に恐怖を押し殺していたが、ドアを叩く音で我に返った。
「たっくん、どうしたの!?」
「琢磨、鍵を開けて!」
ドアの向こうで、姉ちゃんと心優がおれを呼んでいる。
ドアノブをガチャガチャと回そうとする音がして、部屋に飛び込んだとき鍵を閉めたことを思い出した。
このままだとドアを壊されそうだったので、のろのろと体を起こし、ドアの鍵を外した。
そして、ゆっくりと扉を開けると……
二人の表情が、凍りついた。
姉ちゃんは口元を両手で押さえ、目を大きく見開いている。
「たっくんどうしたの、その学生服!」
心優の驚いた声に、おれはようやく自分の服に目を落とした。
「ひっ!」
思わず息を呑む。
学生服の肩や胸の部分が、爪で切り裂かれたようにズタズタだった
「たっくん、怪我はないの!?」
心優が焦ったように、おれの上着を脱がせようとする。
「ちょ、やめろって!」
おれは抵抗したが、
「じっとして!」
心優の迫力に押され、観念するしかなかった。
「ななちゃん!」
心優が大声で姉ちゃんを呼ぶ。
姉ちゃんはビクリと震えて我に返ると、おれの体をペタペタと触って確認しはじめた。
「誰がこんなひどいことをしたの?」
心優が強い口調で問いかける。
おれは、さっきの出来事……
知らない裸の男に押し倒されたことを話した。
それを聞いた二人の顔が一気に青ざめる。
「たっくん、大丈夫なの!? 痛いところは!? あと、その…… 変なことされてないよね!?」
心優は矢継ぎ早に質問してくる。
そして、最後の一言のあと、急にモジモジしだした。
……絶対、変な想像してるだろ。
「何もされてないよ。ただ、そいつに噛みつかれそうになっただけだ」
そう言うと、二人の表情はさらに不安げになった。
□
怪我がないとわかると、おれは姉ちゃんに風呂場まで連れて行かれた。
「お風呂に入ったら、すぐに寝なさい」
そう言い残し、姉ちゃんは風呂場の外へ出て行った。
湯船に浸かると、少しだけ気分が落ち着いてきた。
さっきは二人に警察へ連れて行かれそうになったが、全力で拒否した。
警察に行っても、吸血鬼に襲われたなんて信じてもらえない。
いや、むしろ頭のおかしいやつ扱いされるのがオチだろう。
風呂から上がると、心配してくれる姉ちゃんと心優の声を無視して、ベッドに潜り込んだ。
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――誰だ?
今、確かに聞こえた。
だが、それは人間の言葉ではない。
それでも、おれにははっきりと意味が分かった。
『助けて』
おれはゴクリと唾を飲み込む。
布団を頭まで被り、震えながら目を閉じた。
頭の中で、助けて――
その声が繰り返し響く。
耳を塞いでも、消えない。
昨日から不可解なことばかりが起きている。
これは、何かの悪い冗談なのか?
おれは恐怖に怯えながら、いつの間にか深い眠りに落ちていった。




