28:逃げ場なき選択
■上司の正体(POV:郷原)
小埠頭のタイヤ倉庫。
夕暮れの港に汽笛が響く。
郷原は倉庫の脇に設置された古びたベンチに腰を下ろし、煙草をくゆらせていた。
「くっそ……」
朝の出来事を思い出すたび、苛立ちがこみ上げる。
□
出勤前のことだ。
ベンチに座って川田が持ってきた儲け話の詳細を聞いていたとき、公園の奥、遊具のそばで動く人影が目に入った。
ひとりの男がキックボクシングのトレーニングをしている。
そのそばには、こちらに背を向けて座る女の姿。
(けっ、こんな朝っぱらから女連れでトレーニングかよ)
くだらねえと思いつつも、郷原の目はその男の動きに引きつけられた。
派手な技を繰り出してはいるが、動き自体は悪くない。
最後に回し蹴りを決めて、動きを止めた。
そして、男がこちらを向いたとき、郷原は眉をひそめた。
(……吉野? それじゃ、あの女は神木か)
あいつと一緒にいる女なんて、神木以外に考えられない。
郷原はしばらく考えた末、立ち上がってふたりのほうへ向かった。
最初に郷原に気付いたのは、神木の膝の上にいた気味の悪い黒猫だった。
黒猫は射抜くような視線を郷原達に向けてきた。
(神木の飼い猫か?)
神木が楽しそうに話しかけている吉野を、郷原は睨みつけた。
(神木はどうしてあんな腰抜けがいいんだ)
苛立ちが込み上げる中、郷原は吉野に声をかけた。
「やぁ、吉野くん。なにしてるの?」
□
「郷原くん、辛そうだけど大丈夫かい?」
目を瞑って今朝のことを思い出していた郷原は、不意にかけられた声に顔を上げた。
目の前には、田川が立っていた。
いつものように、にこやかな笑みを浮かべて。
「はぁ、大丈夫っす。ちょっと滑って背中を打っただけだから」
(相変わらずお節介なおっさんだ)
「その様子だと、告白は失敗だったようだね」
「はぁ? なに言ってんだおっさん」
郷原は不機嫌そうに睨みつける。
だが田川は、まるで天気の話でもするように、淡々と続ける。
「おまけにその子の彼氏とケンカをして、怪我をしたようだけど大丈夫かい?」
「くっ」
郷原はカッとなって立ち上がった。
だが田川は穏やかな笑みを崩さない。
「あの女の子、可愛い子だったね。郷原くんは、ああいうのが好みなんだね」
(今朝のこと、見てたのか)
郷原の眉間に皺が寄る。
「おっさん、何が言いたいんだ」
低い声で詰め寄るが、田川はその穏やかな笑みを崩さない。
その態度に、郷原は妙な違和感を覚えた。
(おれのことが怖くないのか?)
「せっかく強いところ見せようとしたのに、あんな負け方したんじゃね」
「あぁ? 上司だからってあんまり舐めた口きいてんじゃねえぞ、こらっ」
郷原は田川の胸ぐらを掴み、右腕を振り上げた。
「郷原くん、強くなりたくないかい?」
「はぁ? 俺はこの辺りじゃ最強なんだよ。今朝のはちょっと油断しただけだ」
(そうだ。今朝はちょっと運が悪かっただけだ)
郷原は振り上げた右腕を――
(なんだ? 腕が動かねぇ)
腕だけではなく、体がしびれて動けない。
「お前が望むなら、力を与えてやるぞ」
「ひっ……」
さっきまでの穏やかな雰囲気は消え、田川の声には異様な力が宿っていた。
しかし、郷原を本当に怯えさせたのはその声の変化ではなかった。
暗くなった夕闇の中で、田川の瞳が、血のように赤く光っている。
「どうだ、郷原。わしと契約を結ばないか? お前が望むなら、今よりもずっと強くしてやるぞ」
一瞬、恐怖で思考が止まった。
だがすぐに冷静さを取り戻す。
中学の頃から、郷原はどんな不良にも怯まず、勝ち続けてきた。
それは喧嘩のセンスや恵まれた体格だけでなく、カッとなってもすぐに冷静さを取り戻すことが出来たからだ。
(こいつは何ものなんだ?)
今の田川を見て、勝てる相手ではないと本能的に悟る。
「あんたこそ、何が望みなんだ」
郷原は、真っ赤に光るその瞳を睨み返した。
「ほぉう、わしの目を見てもそんな態度をとれるとは、なかなか肝が据わっとるな」
田川は口の片端を持ち上げて笑う。
だが、その笑みがさらに郷原の心臓を跳ねさせた。
(くっ!?)
郷原は息が止まりそうになった。
田川の唇の隙間から、異常に発達した犬歯、いや——牙が覗いていた。
(人間じゃない、こいつは化物だ)
冷静を装いながら、郷原は低く尋ねた。
「そんな力をタダでくれるってわけでもないんだろ」
郷原はバカではない。
大きな対価を支払わなければならないことは、考えるまでもなかった。
「わしと契約を結べば、お前に力を与えてやる」
「契約ってのは?」
「下僕の契約だ。わしの言うことに従うだけでいい」
(下僕だぁ? 俺に召使になれって言ってるのか)
「断れば?」
怯えていることを悟られないように、郷原は強い口調で尋ねた。
「全身の血を抜かれて死ぬだけだ」
(あぁ、やっぱりそうか。この化け物は数週間前からニュースになっている連続猟奇殺人の犯人か。というか、選択肢は一つしかないじゃないか)
郷原は大きく息を吸った。
「なればいいんだろ。その下僕に」
田川は満足そうに微笑み、赤い瞳を細めた。
「いい判断だ」
★やブックマークで応援していただけると励みになります。




