第9話
残る百名山はたったひとつ。100座目の撮影に向けて、高田家で打ち合わせをすることになっていた。
凛の体調が悪かっただとかで時間が空いたのもあり、その間で由衣は演出コンテまで書いてきた。
だが、テーブルについた由衣が感じたのは、違和感だった。
凛がまとう空気が重い。コーヒーカップを難しい顔で見つめている。
変だな、わたし、なんかしたっけ?
由衣がコンテをテーブルに広げようとすると、凛は小さく手のひらを掲げて制した。
「話があるの」
凛はタブレットを由衣の前に差し出した。画面にはメモアプリが開かれていて、ずらりと文字が並んでいる。
この動画で、わたしの「百名山ぜんぶ登る」は一区切りとなります。
そして、この動画をもってわたしはYouTuberを引退します。
正直に話さなくてはならないことがあります。
最後の五つの山は、わたし自身が登ったものではありません。
嘘をついていました。
わたしが、事故で歩けなくなったためです。
山を登ることができなくなったわたしのために、映像制作に協力してくれる親切な方がいて、力を借りてフェイクの動画を作成していました。
本当にごめんなさい。
お休みしたとき「登りきった姿を見たい」と言ってくださった方々がたくさんいらっしゃいましたよね。
わたしは、やりきったことにしてやめたかったのです。
この場所を、きらきらした場所のままにしたかった。
かわいそうだと思われるのが嫌だった。
だけどそれは、欺瞞でした。
単に、本当のことを言う勇気がなかったのだと思います。
お願いがあります。映像制作に協力してくださった人は、わたしが無理やり頼み込んだ人です。悪くありません。探らないでください。万が一どなたか分かったとしても、絶対に責めたりしないようお願いします。
裏切ってしまったこと、心から謝罪します。
最後の五つの山を歩いたのはわたしではありませんでしたが、その登山も含めて全部の『登山』が楽しかったです。
アカウントは削除します。今までありがとうございました。
「これを、動画の最後に読みあげます」
由衣はタブレットから顔を上げて、目を瞬かせた。
「ええと、嘘をバラすってこと? マジ? やめようよ。炎上するかもじゃん。あ、炎上してももうアカウントないのか。でも、高田もわたしも、ほら、会社員だしさ。うん、どっちかっていうと反対だな、わたし。凛ちゃん考え直そ?」
「由衣さんには、本当に申し訳ないと思っています。そして、本当に感謝しています。ありがとうございました」
「いやいや、なにいい感じにまとめてんの、ちょっと待って」
「もう決めたんです、由衣さんにも兄にも迷惑かけません。映像に撮影者の痕跡がないのはよく確認しましたから」
「正直に言えばいいってもんじゃないよね? ほら、幸せな嘘ってあるじゃん?」
「最初に、『正直に言わないの?』って言ったの由衣さんじゃないですか」
「そんなの言ったっけ。まあそれは置いといてさ、考え直そうよ」
「どうしてそんな反対するんですか? これはわたしの問題ですよ。兄は賛成してくれましたよ」
由衣は、凛の隣に座る高田の顔を見た。彼は眉間に深い皺を刻んでいる。いままで見たことのない顔だった。
「反対するの当たり前じゃん! だって、」
あれ? その後の言葉が、出てこなかった。なんでダメなんだっけ? なんでわたしこんなにイラついているんだっけ?
「とにかく、ありえないって。反対。さんざん手伝わせたじゃん! あー、登山靴だって買ったのに!」
何が登山靴だ。自分でもわけわからなかった。めちゃくちゃなことを言ってる自覚はあった。
「だからすみませんでした、もういいんです。疲れちゃったんです」
「……」
「最後の動画、今まで登った百名山を振り返るシークエンスを自分でつくろうと思ったんです。それで、由衣さんが作ってくれた動画も見返しました。何度観ても素敵でした。行った気分になれて。
で、観終わるたび、歩けない自分に戻ってきて。絶望がやってきて。現実とのギャップがすごくって。虚しくなって。
嘘がまばゆいほど、真っ暗な現実に裏切られ続けるんです。
嘘も本当も、全部まばゆいものなくさないと、たまらなくなって。
わかりますかね?? この気持ち」
「わかる、んー、わかる! わかるよ。うん。でもさ、つらくてもいいことある? と思うんだよね、なんか、えーと例えば」
あまりシビアなシーンにぶつかったことがないまま、ぬるっと生きてきた由衣は頭が回らなかった。
凛の目が険しくなった。
「……あなたに本当にわかるんですか? 嘘ばっかついて」
「は?」
「嘘つきのくせに、嘘に向き合うこともできてなくて」
「なんつった今」
由衣は、がたんと立ち上がった。
見下ろされる形になった凛は、歯痒そうに睨み返す。二人の視線の間に割って入る高田が「まあまあ」と声を上げた。だが二人の勢いは止まらない。
「嘘つきに嘘つきって言って何が悪いんですか、嘘つき! おかしいでしょ由衣さん、承認欲求の奴隷じゃん! よく平気ですね、嘘つき続けて!」
「そのわたしに頼ってフェイク動画上げたあんたも嘘つきじゃん!」
「だーかーら! 嘘つきをやめたいっつってんだよ!」
そのとき、ぽとり、と水が床に落ちる音がした。