第5話
凛たちに会った日は、なんとなくセンチメンタルで自己陶酔気味だった由衣だったが、いざ約束の登山当日を迎えると、ダルくて仕方がなかった。
(百名山って、そもそも素人が登れるもんなの?)
頭の片隅でぼやき、あくびを噛み殺す。ナイロンジャケットに袖を通しバッグパックを背負いながら、由衣は、自分がクズ寄りのクズだったと思い出していた。
メイクが終わらないのに連発する高田からの着信を無視していたら、マンションのインターホンが鳴った。
由衣は今日、高田とともに合成用の背景素材を撮影するために登山に行くことになっていた。
高田の運転するレンタカーで爆睡して、気づけば登山口の駐車場だった。目が覚めたとき、高田がゆさゆさと肩を揺さぶっていた。
ぴたっとしたマウンテンパーカを着た高田はやたら爽やかだった。
高田の隣で山道を歩き始める。由衣は、土の上を歩くのが思い出せないくらい久しぶりだと気づいた。思った以上に凹凸が大きい。湿った土と硬い石のコントラストが靴底から伝わってくる。
木漏れ日がきらきらしてラメみたい。登山道に沿って川が流れててなんかスピリチュアルな感じ。癒される。これがマイナスイオンってやつか? 趣味にする人たちがいるってことがわかる、山登りって悪くないんじゃないか?
そんなふうに思う由衣の余裕はすぐになくなった。
山道の脇から飛び出す枝のせいで、まっすぐに歩けない。葉が頬を打つ。小さなアブが顔の前に飛んできては何度も手で払う。手をぶんぶん振るほど、弄ばれるように羽音がつきまとう。
「はああ」思わずため息をつくと、高田が呆れたようにこちらを見る。
「しゃんとしろよ。お前が『監督』なんだから」
彼はカメラを由衣に掲げて見せた。レンズの縁が、きらりと太陽を反射して光った。
「分かってるよ、『カメラマン』」
歩き方にも気をつけなければならない。動画に凛の身体を合成する際、ベースとなるのは自分の骨格と動きなのだ。
高田と確認しつつ、ときどき純粋な風景ショットを入れたり、光源を計算してしゃべる用のカットを撮ったりする。高田は撮影に付き添っていたし、由衣も過去動画を研究していたので、撮影作業はなんとか問題なさそうだった。
三合目辺りから由衣の足取りがすっかり重くなった。日差しは木々にさえぎられているはずなのに、汗があごを伝う。Tシャツがべたべた背中にはりつく。息が上がる。
きつい。いたい。つらい。
はじめは割と優しく弱音に相槌を打っていた高田は、飽きて受け流している。
天然の階段のような段差は、一段ごとが縦に離れている。デスクワークで退化した脚に乳酸が蓄積していく気がする。
高田との距離が開いてきた。元体育会系な上に、妹の活動を長く支えてきただけあって、高田は山を歩くのに慣れていた。
「ま、待って」
「……」
「つか待てって、高田!」
「……情けねえな。まだ全然だけど、休むか」
「うん……」
憎まれ口をきく元気もなく、由衣はそこにあった切り株に腰を下ろす。水筒を傾けると、冷たい水が喉を通っていった。身体のすみずみまで潤いが行き渡るのがわかる。
見上げれば、葉のあいだから空がのぞいている。吸い込まれそうに青い。
(なんで貴重な日曜にこんなことを……。六本木にオープンしたカフェ行くはずだったのに)
こんな空を背景にカフェのテラス席で撮影したら映えただなろうなー、と思った。
ぼんやりしていると、高田がパックに入った小さく艶やかな黒い何かを、由衣の手のひらに落とした。
「これ何?」
「糖分を効率的にとれる。山登りの鉄板だ」
それは羊羹だった。
はああ? ファッション・インフルエンサーが、ここではおばあちゃんかよ。
心の中で悪態をつきながら、ぴりりと包装を剥がす。由衣にとって、群馬の山と六本木ははるか遠くに隔てられていた。
羊羹は美味かった。