第4話
三つのコーヒーカップから、湯気がたちのぼる。凛と名乗る子は車椅子に乗ったまま、由衣と高田はウッドチェアに座ってリビングのテーブルを囲んでいた
「ああもう、お兄ちゃん、なんでちゃんと説明してないの? あらためまして、凛といいます」
高田はヘラヘラ笑っている。
「はじめまして、由衣と言います」
由衣は、凛の顔にどこか見覚えがある気がした。つい立場を忘れてじっと見てしまう。高田が口を開いた。
「わりい、妹に話した。その上で頼みがある。聞いてやってくれ」
途端に、由衣の居心地が悪くなる。口のなかが渇く感じがする。
「これを見てください」
そう言って凛はタブレットを差し出した。画面には、YouTubeの画面が表示されている。
一瞬、自分のアカウントを突きつけられたのかと錯覚して、由衣はビビった。
だが、きちんと見るとサムネイルの中にいたのは、見晴らしの良い山でバケツハットを被り晴々と笑う女の子だった。その顔は目の前に座る女性が少し日に焼けた顔だった。
アカウント名に見覚えがあった。
RINの山々ばなし
チャンネル登録者数18.2万人
「あ、見たことある……RINって、じゃあ」
「はい、登山系YouTuberをしている、RINです」
そう言って凛ははにかんだ。由衣の視線が、タブレットと目の前の顔とを往復する。
彼女は本物のインフルエンサーだ。自分が情けなくなって、由衣は思わず縮こまった。
「ええと、なんでそんな人気YouTuberがわたしなんかに。聞いてるんですよね? わたしのこと」
「はい、見せてもらいました、インスタもTikTokもYouTubeも――すごいですね!」
「は、はあ」
「こんなにすごい技術もってるなんて。全部本物っぽい。AIとデザインと編集のスキルを使ってるんですよね?」
「ええ、まあ」
いまいち話が見えない。由衣は混乱した。凛は再びタブレットを操作し、動画一覧をスクロールした。
「ここを見てください」
そこには、「百名山ぜんぶ登る」という見出しで再生リストがまとめられていた。並ぶサムネイルを指差しながら凛が言う。
「百名山、って知ってますか?」
「はい、なんとなく」
「日本の景観の美しい山を100座ですね。座、というのは山の数え方です。それらをすべて登る挑戦をしてたんです」
由衣は無意識のうちに凛の車椅子を見やった。
「……すごいですね」
「95座」
「え?」
「わたしが登った百名山の数です。あと5つ……だったんです」
凛の隣に座る高田が、唇をぎゅっと結んだ。
「……」
由衣は言葉を失って、「百名山ぜんぶ登る」の再生リストの日付を追いかけた。ほぼ一週間ずつ刻まれていた動画が、ある日を境に止まっている。
高田が静かに口を開く。
「交通事故に遭ったんだ。酔っ払いが運転する乗用車にはねられて、複雑骨折で……」
凛の手が、ふとももに当たる場所を軽く撫でていた。
「……そんな」
サムネイルの中の凛は、まるで未来に起こることなど知らずに笑っていた。
「凛はもう歩けない」
高田の端的な言葉に、凛は動揺した様子を見せなかった。それが、兄妹の通り過ぎてきた時間の重さをうかがわせた。
「お願いです。あと、五座だけ。残りの百名山を登る映像を、あなたのフェイク動画の技術で作ってほしいんです」
「え……?」
「――そして、やり切ったことにして、事情を探られず明るく引退したい」
リビングに、由衣が唾を飲み込む音が響いた。
「ああ、そういうことかあ……でも、あの、わたしがいうのもなんだけど……正直に報告して、やめるって方向は、ないんですか?」
「きらきらした場所に、深刻なものをシミみたいに残したくない」
凛の言葉に、由衣は胸がぎゅっとなった。
「かわいそう、ってみんなに思われるのは嫌なんです。
そろそろ視聴者の人たちが心配してます。何かあったんじゃないかって調べようとしてる人もいて」
高田は駅まで送ってくれた。オレンジ色に染まりつつある空の方へ二人は歩いた。
由衣は、高田の腕を拳で軽く叩く。
「そういう話なら先に言っておいてよ!」
「俺から言ったら断られる気がしてな」
「断わるのアリだったんだ……。てっきりガチで脅されてるのかと」
高田は苦笑いして首を振ったあと、一転して真剣な目つきで由衣を見た。
「俺からも頼む。何度もアカウントを見返して悩んでる凛の顔を見るのが、つらくてな」
「……わたしが、凛さんのために残り五つの山を『登る』フェイク動画をつくる。そうすると内緒のまま気持ちよく引退できる、ってことだよね」
「ああ」
「ほんとにいいのかな? 凛さん」
「本人がそう願ってる。それに、そういう場所を『リアル』で汚したくないって気持ち、お前はよく知ってるだろ」
「うん、まあ……」
そのとき、由衣は初めて会った凛を妙に近しく感じた理由を実感した。
一人、人並みを縫うように電車へ乗り込む。座る席を見つけると早速スマホを開く。YouTubeを開くと再生数やいいね数が、いい感じに伸びていた。
けれど、なんだかコメントまで確認する気にはなれず、親指でアプリを弾いて画面の外へ飛ばした。
もやもやする。断ってもよさそうな空気感だったけど……。
由衣は後頭部をぐしゃぐしゃとかいた。窓の向こうで、夕陽を背景に紺色に染まったビルの群れが過ぎ去っていく。
メッセージアプリを起動して、高田にメッセージを打つ。
「やるよ」
すぐ、変なクマが『ありがとう』と言っているスタンプが返ってきた。