第10話
最初に気づいたのは高田だった。表情が硬直している。由衣は、彼の視線の先を追いかけた。
椅子の下に、小さな水たまりができていた。
凛は、顔を伏せて肩を震わせた。
「……ああ、もういや! あぁぁぁ!」
両手で顔を覆って、凛は泣き声をあげた。車椅子を伝って水滴が落ち、水たまりが大きくなった。
「……やだやだ! なんでわたしだけ!」
由衣は呆然としていた。好戦的なテンションはすっかりしぼみ、もう状況も自分の感情もまるで分からない。微かに鼻腔にアンモニアの匂いが届いた。おろおろと駆け寄ろうとするが、凛は手のひらを突き出して拒む。
いつの間にか高田がタオルを持ってきて、無表情で床に屈んでいた。淡々とフローリングを往復する手の動きに、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
「……見ないで、見ないで……」
凛は、車椅子の上で背を丸めた。小刻みに震えている。
由衣は立ち尽くしていた。何の言葉も思い浮かばなかった。
高田の背がテーブルに触れ、演出コンテの紙がぱらぱらと揺れた。
高田に「もういいから。あとは大丈夫」と言われ、由衣は押し出されるように玄関を出た。
「ごめんな」
彼の弱々しい声にうまく応えることができず、由衣は曖昧にうなずく。
家までどうやって帰ったか記憶にない。
外着のままベッドに横になって、久しぶりに自分のインフルエンサーアカウントを開いた。
タイムラインに嘘が並んでいた。たくさんのコメントと企業案件のDMも来ていた。更新が止まってるのを心配するメッセージもあった。
ぼんやりと眺めながら、凛とのやりとりが脳裏に蘇る。
ああ、むかつく。メンヘラすぎ。
けれど、落ち着いてくると、名前が分からない気持ちがわいてきた。胸の奥がむずむずするような、取り返しがつかない焦りのような。
三人でテーブルを囲んでいた光景が浮かんできた。同じ目の高さで話してると、凛が障害者だとか忘れてしまうのだ。そのせいでうっかり失礼なことも言った気がする。それでも凛はいつも笑ってくれた。その顔は山で咲いてる小さな花みたいだった。
山頂の電話で風景を「綺麗」だと言ったときは、心から綺麗だなあって思っていたのだ。伝えたいって思ったのだ。自分は嘘つきだけど、その気持ちだけは本当で、凛が信じてくれていたらと願った。
夜の街は騒がしくて、マンションの外から酔っ払いの集団が笑い合う声がした。ちかちかした赤いパトカーの光がカーテンの隙間から部屋を照らして、消えていった。
スマホをスクロールして、フォロワー欄を見つめる。ここにいる何人と、本音が言い合えるのだろう。
凛。
これっきりになるのかな。知り合ってはそれきりになった、たくさんの人たちみたいに。
ひどいこと言ったしなあ。会いたくないだろうなあ。
ぐぐっ、と喉の奥が詰まりそうになった。
そっか、わたしは。あの人たちが。
由衣は考えた。うまくまとまらなかったけど、考えた。
いっぱい考えたあと、深夜の三時にChatGPT 7oに質問文を投げかけた。
「超優秀なコンサルになったつもりで答えてください。わたしにあるものは、以下です。デザインと動画編集とAIのスキル。拡散力、SNSのフォロワーは結構いる。そこで案件受けるから、何個か企業とつながってます。あと、近くに営業もいます。出来る広告の営業。
この武器使って、以下のことやるにはどうすればいい? ――」