めろりんきゅ~
イヴリンの後ろから、深い声が響いた。青年がはっとおびえたように手を隠し、イヴリンの腕を離した。
「!! も、申し訳ありません。まさかお連れ様とは知らず」
ぺこぺこ頭を下げ、青年は逃げるようにイヴリンの前から去ってしまった。
「あら……」
イヴリンは後ろを振り向いた。そこには、口ひげを生やした、背の高い紳士が立っていた。彼は険しい目で青年の後ろ姿を追っていた。
「あれはおそらく黒縄……こんなところにまで」
黒縄。アラステアが説明してくれた、オルギアス発の黒魔術。
その魔術が、こんなところで使われているなんて――。
あとで、アラステア様に報告の必要があるわね。
とイヴリンが思ったその時、紳士がイヴリンにふりむいた。
「危ないところでしたね。お怪我はありませんか」
穏やかなその口調に、イヴリンは首を振った。
「あ、ありがとうございます」
「それならよかった。失礼ながら――ご自身で切り抜けられるお力がある方かと、お見受けしましたので」
「あら、まぁ、そんな」
こんな初対面の紳士に、そんなことを見抜かれてしまうとは。
私もまだまだ、ですわね……。イヴリンは微笑んだ。
「お褒めいただいて恐縮ですわ。でも、助けていただけるのはありがたいものです」
そう。助けてもらえることなんてめったいない人生だったからこそ、こうしてふいに差し伸べられる手はありがたいものだ。
こんな世の中だが、たまには良い人もいる。それは希望だ。
イヴリンは最上礼を取った。
「感謝いたします――親切なお方」
紳士は笑みを深めた。上品で、けれども親しみを感じさせる、洗練された笑みだった。その余裕あるたたずまいに、イヴリンは思わず目を見張った。
あら……、なかなかの紳士だわ。それに、銀灰色の夜会服が良く似合うこと。
「怖い思いをなさいましたね。何か私にお助けできることはありますか」
素敵。ダンディだわ。ただ立っているだけで、内面の知性が香ってくるみたい。
あの強欲で冷たい父親とは大違い。大人の男性とはこうであってほしい――。
しかしイヴリンは、内心の感嘆を抑えて、余裕の笑顔でこたえた。
「ありがとうございます。そのお気持ちだけ、受け取らせていただきますわ」
イヴリンが気丈に応えると、紳士の表情がじゃっかん笑み崩れた。
「ふふ、むしろこちらがお礼を申し上げたいくらいだ。ある意味で、先ほどの青年にも」
「あら?」
首をかしげるイヴリンに、紳士はお茶目に言った。
「だって、あなたに話しかける口実ができましたから。お嬢さん」
そして紳士はじっとイヴリンを見た。なんだか――なんだか、もじもじしてしまうような、優しいまなざしだった。
なんでかしら? 初対面なのに、こんなのお世辞のはずなのに、なんだかまるで――。
「あら、そんな……」
「ところで、お連れの方の具合がよろしくないとか? その方は平気ですか」
イヴリンははっとした。
「そうですわ。私飲み物をいただきに来たのです」
イヴリンはそばを通りかかった給仕をちらりと見た。が――彼のトレイに乗っているのは、シャンパングラスであった。
ノンアルコールのものはないかしら……。
すると紳士は、少し遠くにいる別の給仕を呼び寄せた。青と紫が混ざり合わさる背の高いグラスを取ってイヴリンに差し出す。
「それならば、こちらの飲み物をお持ちになっては? 青いハーブティーにレモンの果汁を合わせた飲み物です。すっきりしますよ」
イヴリンは目を輝かせた。
「まあ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「あなたの分と、お連れ様の分。私も一緒にお持ちしましょう」
紳士はイヴリンを一人ではいかせず、グラスをもって一緒に来てくれた。
「感謝申し上げますわ。実は、こういった場所は初めてで、助かりましたわ」
すると彼は、社交辞令かもしれないが驚いた顔をしてみせた。
「おや、そうなのですか。でもたしかに、そのはずですね」
彼は微笑みながらイヴリンを見下ろした。
「こんな美しいお嬢さんがいらっしゃれば、私は絶対覚えているはずですから」
この言葉に、さすがのイヴリンも笑顔がこわばりそうになった。
緊張や不快感ではなく――羞恥心、から。
育ちのせいで、怒鳴られたりけなされたりするのは慣れっこであったが、まっこうから褒められる事にまったく耐性がなかったのである。
にわかに頬が赤くなるのを感じて、イヴリンは自分で自分がさらに恥ずかしくなった。
い、いやですわ、私ったらもう。こんな方からしたらただのお世辞なのに――いちいち褒められて過剰反応、してしまうなんてっ……!
アストンの時もそうだったが、これは自分の弱い部分だ。イヴリンはこの時明確に、自分の弱点を理解した。
「お、お上手ですのね」
「ふふ、本心からの言葉ですよ」
そういう笑顔は、まるで子どもを甘やかす大人のもので、ちょっと悔しい。悔しいけれど――どこか寄りかかりたくなってしまうような、大人の男性にしか醸し出せない色香が漂っていた。
ふいに胸がきゅんと甘く鳴りそうになってしまって、イヴリンは慌ててバルコニーへと視線を戻した。
あ、危ない、危ないですわ! 本当に……こんなんじゃ、アストン君やエヴァン様の心配性を笑えないじゃないの。
「い、いけませんわ。私のような若輩者を、おからかいにならないでくださいまし」
気を引き締めてバルコニーに戻る。
「お飲み物をお持ちしましたわ――あれ?」
人気のないバルコニーを、イヴリンは見まわしたが、誰もいない。
「おかしいですわ。ここでお待ちになってと伝えましたのに……」
自分がもたもたしすぎてしまったせいだ。焦りからきょろきょろするイヴリンに、紳士は言った。
「もしかしたら、あなたを探しているのかもしれませんな。一緒に探してまわりましょうか」
さすがに悪いと思い、イヴリンは首を振った。それにアストンの事は、極力他人には知られたくない。
「いいえ、もう大丈夫ですわ。ここまで助けてくださって、ありがとうございました」
するとイヴリンの思いを察したのか、紳士はそれ以上は無理強いはせず、一歩引いた。「わかりました。ですがまた困った事があれば私をお探しなさい。力になりますよ」
引き際も大人である。イヴリンはほっとして頭を下げた。
「ご親切に感謝いたしますわ。どうぞ夜会をお楽しみになってくださいまし」
「ええ、あなたも。ミス・ロシュフォール」
――え? なぜ、私の名前を? 名乗っていませんよね……?
イヴリンが固まったその時、アラステアとアストンがバルコニーに入ってきた。
「先生……ッ」
「待たせてしまいましたね、ミス・ロシュフォール。って、おや……?」
イヴリンと紳士を見て、アラステアはくすりと笑った。
「おやおや、私が引き合わせる前に、もうご挨拶を澄ませていましたか、イゴール」
イヴリンはアラステアと目の前の紳士を交互に見た。
「アラステア様のご紹介したい方って、もしかして……」
すると目の前の紳士は、ちょっと申し訳ない笑顔を浮かべて一礼した。
「そうです。イゴール・バイロウと申します。今日はレイがあなたを紹介してくれる予定、だったのです」
「あ……そ、そうだったのですね。なんて偶然でしょう。お知り合いになれて光栄ですわ」
でもなんで、アラステア様は私をこの方に紹介したかったのかしら? イヴリンはそこがもうひとつ理解できなかった。
すると二人の間に、アラステアと、そして黙り込んだアストンが入ってきた。
「ええ、イゴール。彼女はいかがですか」
アラステアの意味深な発言に、イゴールはにこりと微笑んだ。
「聞かなくてもわかるでしょう。素敵なレディです。可能性を感じる」
イゴールは首をかしげるイヴリンに、黙り込むアストン、そしてなぜかどや顔のアラステアを一人づつ見たあと、うなずいた。
「旧友の頼み、引き受けましょう。では皆さま、良い夜を。そうだ」
去りがけに、イゴールはアストンに持っていたグラスを渡し、何かをささやいた。
「人込みにはどうぞ気を付けてお楽しみを。――の御令息」




