じゃんけんぽん!
そこでアストンは、ためらうように言葉を切った。白い頬に、わずかに赤みが差している。
「なんですの? どうぞおっしゃって」
イヴリンが優しく促すと、彼はつっかえながら言った。
「もし、僕が外に出れるようになったら……先生と街に行って、気球に……乗ってみたいです」
「まぁ」
そのささやかな希望に、イヴリンは思わず微笑んだ。
アストン君からしたら――いえ、私からしても、憧れの気球、ですもの。
「素敵ですわ! 私も気球に乗ったこと、ありませんのよ。初めてどうしで、いつか一緒に乗りましょうね」
すると、少し緊張していた彼の表情が、ふっと嬉し気にゆるんだ。
「本当、ですか。嬉しいです。これで……もっと、もっと頑張れます。でも……」
しかし、アストンの目がすこし陰った。純粋だけど――どこか責めるような目の色だ。
「先生……昨日の夜、エヴァンと二人で抜け出したんですか?」
イヴリンはうなずいた。
「ええ。エヴァン様から聞きました? あのメイドのこと……」
「はい。でもそれなら……」
アストンが言葉を途切れさせたので、イヴリンは彼が聞きたいであろうとこを説明した。
「エヴァン様とも相談して、メイドは今までどおり泳がせて、利用することにしましたわ」
「はい。聞きました。カメリアがメイドを通じて、外の勢力ともつながっていることも……でも、僕が言いたいのは、ええと、その……」
彼がとても言いづらそうに黙ってしまったので、イヴリンは優しく背中をおした。
「なんでしょう? なんでも言ってくださいな」
「その、僕はエヴァンのように強くないし、外に出たこともないし……足手まといになることも、わかっているのです、が……」
ひたむきな目で、アストンはイヴリンを見上げた。
「僕も……先生と一緒に行きたかった、です」
イヴリンは驚いた。
「でもアストン君、あなたが部屋を出るのは、まだ……」
「わかっています……でも、エヴァンより先に僕に伝えてほしかった。それに、先生一人で行こうとするなんて、危ないじゃないですか」
あら、そんなこと。以外なところを気にしますのね。
それにしても、頑なに部屋を出ようとしなかったアストン様なのに……。
その優しさにちょっとじーんときたイヴリンだったが、微笑んで首を振った。
「いいんですのよ。私は一人でいろいろするのは慣れているんですの。それにですね、エヴァン様に伝えたわけではなくて、彼が勝手についてきたんですのよ。まぁ結果的には良かったですけれども……」
「でも先生……危ない事をするときは、僕にも言ってくれませんか。僕だけ何の役にも立てず、蚊帳の外なのはいやです。それに、もし先生に何かあったら、僕は……もう、」
そういって、アストンはイヴリンの手をふと握った。
――訓練以外で握るのは、初めてだ。
「生きていられません」
まっすぐなアメジストの目が、切実な光をたたえて、イヴリンを見上げる。
イヴリンは思わず、言葉に詰まった。
ま、まぁ……人間の男の子に、こんな目で見られるのは……さすがに、ドキリとしてしまいますわね。
「あ……りがとうございます、アストン君」
思わず、教師の顔の奥の奥にある――ただの19歳の女の子である自分が、ふと出そうになってしまう。
ちょっとはにかんでしまいますわ……。
「こんな風に、だれかに真剣に心配してもらうなんて、初めてです」
揺らめくイヴリンに、ここぞとばかりにアストンが迫る。
「先生、約束してください。危険な時には、僕にも伝えると」
「え、ええ、お約束は……しますわ、でも」
けれど、イヴリンは家庭教師。アストンたちを導くためにここにいるのだ。ときめくためではない。イヴリンは一瞬はがれそうになった教師の顔を、再び強固にかためた。
「だからといって、アストン君を危険な目には合わせませんことよ。そこはわかってくださいまし。大丈夫です、たいていの事なら力技でどうにかしますから」
冗談めかして、力こぶを作るポーズをしてみせると、アストンはちょっと面食らった顔になったあと―
―少し寂し気に笑った。
「先生は……強いですね。僕も、頑張ります」
◆
その夜。コンコンと窓枠が叩かれて、寝る直前であったイヴリンは跳ね起きて窓を開けた。
「ノワール! メアリが動いたのね」
物言わぬ黒曜石の目に『YES』の信号を感じ取ったイヴリンは、彼にとっておきの干し肉を与えたあと、かねてから用意してあった非常袋を背負い、マントを羽織った。
――こんな時のために、最近、昼間はスカートの下でひそかにズボンを着用し、夜間もずっとパンツスタイルで過ごしていた。
「ノワール、あなたはエヴァンに伝令を」
再び彼を窓の外にはなって、イヴリンはアストンのいる部屋に向かった。
本当は時間が惜しかったが、ここで秘密にすれば、彼の信用を激しく損ないかねない。
「彼女に動きがあったわ。これから追います」
手短に済ませていこうとしたイヴリンを、アストンが引き留めた。
「待ってください、僕も行きます」
「いけませんわ。おっしゃいましたでしょ? 危険ですわ。それに、だれかこの事を知っている人が残っている必要がありますわ」
「エヴァンには?」
ノワールから伝えました――という前に、部屋にエヴァンが入ってきた。
「緊急だから入るぞ、アストン」
ずかずかと入り込んできて、エヴァンはイヴリンを見た。
「動いたんだな? 今すぐ追うぞ」
しかしイヴリンはエヴァンを制した。
「いいえ、今回は私だけで行かせてもらいますわ」
「なぜだ。俺も行く」
言い張るエヴァンに、イヴリンは首を振った。
「はっきり言いますわ。前回エヴァン様がいらっしゃらなければ、私はトラッシュを追っていましたわ。でも、王子様を無断で王宮の外に連れ出す事はできませんから」
そういうと、思い当たるところがあったのか、エヴァンは一瞬ひるんだ顔をした。だが――
「だからと言って、どんな危険があるかもわからない場所へ、女を一人で送り出せというのか」
イヴリンは驚いた。
「まぁ、おほほ、エヴァン様が私を心配なさって? ありがとうございます。でも大丈夫ですわ、一人でも平気です」
エヴァンはギッとイヴリンをにらんで言い返そうとしたが、そこにアストンが割って入った。
「それなら僕が一緒に行きます。僕は王子ではありませんから……!」
「それこそ危ないだろう、お前の能力のこと、忘れたのか。それに俺は身分こそ王子だが、現状連れ出しても誰も気になんてしない。わかるだろう」
イヴリンは窓の外を見た。もうメアリは王宮を出ているかもしれない。ぐずぐず押し問答している暇はない。
アストンを連れていくのは、たしかに能力面のリスクがある。うっかり他の誰かに触れて騒動にでもなったら――。
エヴァンも、仮にも王子だ。積極的に危険な目に合わせるわけにはいかない。
「いけません。お伝えはしました。だからお二人とも、ここで待機を」
イヴリンはきっぱりと言った。しかし。
「バカを言うな。ここではいそうですかと行かせるわけがないだろう。連れていくなら俺にしろ」
「嫌です……! 言ったじゃないですか、先生に何かあったら、僕は……!」
一方はしかめっ面、一方は泣きそうな顔――アストンとエヴァンが、それぞれ真逆の表情で、イヴリンの前に立ちふさがった。
ああ……そんな目で私を見ないで!
エヴァンはともかく、アストンのすがる顔は、イヴリンにかなりの打撃を与えた。
時間がない。ここは――イヴリンは苦し紛れに言った。
「もう、時間がないんですのよ! ……ああもう、それならいっそ、じゃんけんで勝ったほうにいたしましょう、うらみっこなしですよ! じゃん、けん、ぽん!」




