素直ないい子は好きですわ
バルコニーで髪を切ったあとは、イヴリンは、どんな家庭教師でも行う、お決まりの授業を行った。すなわち簡単な読み取りや計算などである。
が――
「あら、アストン君、勉強の基礎はほぼ完ぺきにできておりますわ」
ちょっと出した問題も、書き取りも、アストンは完璧にこなした。
「はい。ずっと一人で、することもなかったので……」
ちょっとはにかみながらも、アストンは褒められて嬉しそうであった。
「えらいですわ。優秀ですわね!」
しかしそういうと、アストンは苦笑してうつむいた。
「いえ……僕なんて。エヴァンやライアスに比べれば、落ちこぼれです」
「まぁ、ぜんっぜんそんなこと、ありませんことよ」
そう。私にとっては、素直なあなたが一番の優等生ですわよ――というのを、ぐッとこらえる。
「そんな……いいんです。わかっています。僕はこの年になって、魔力のコントロールもろくにできない有様ですから」
そういって手のひらを見つめるアストンに、イヴリンは考えた。
アストンの力は、非常にエネルギーが高く、コントロールが難しいものだ。だが。
「ですが、コントロールがちっとも効かない、というわけではございませんわよね?」
「どうでしょう。他人に触れられても出してしまう時点で……コントロールは不可と言っていいと思います」
悔し気に彼はつぶやいた。
「ずっと練習してきました。この力を封じ込めないか、って……でも、あまりに強くて、僕の練習だけでは」
「なるほど……実は私、昨晩から考えていたんですけれども」
イヴリンは請け負った。
「そのお困りごと、私と一緒に訓練すれば、なんとかなるかもしれませんわ」
「え?」
「私はすでに、あなたの力を『手なずけて』います。つまり、私のみに対してはコントロールが効くのです。だから今の状況から、私の力を少しづつ抜いて行って、ご自身の力でコントロールできるように練習していくのです。いかがですか?」
「そ、そんな方法があるの……?」
「ええ。やってみないとわかりませんが、試してみる価値はありますわ」
アストンの紫の目が、ぱっと輝いた。
◆
なんてことだ……アストンまで、手なずけられてしまうとは。
エヴァンはギリギリと歯ぎしりをしたい気持ちであった。
――あの家庭教師に、この家が乗っ取られつつある。
「ねえ兄さん。もういい? 僕も行っていい……?」
「ダメだ。俺のそばを離れるな!」
「そんなぁ……」
内心あの家庭教師と遊びたくて仕方ないライアスを、エヴァンのもとにとどめているのも、そろそろ限界がきそうだ。
くそ。くそ。悪態ばかりが頭の中をこだまする。
アラステア先生は、あんな女をよこして――それで終わりにするつもりか。
それで自分は、新しく生まれたマシューに魔術の手ほどきでもする予定なのか。
自分たちは、アラステアからも、父親からも忘れ去られて――。
エヴァンは唇をぎゅっと噛んだ。
恨むな。怒るな。期待をするから、失望するのだ。
どんな大人も、自分たちのおかれた境遇をわかってはくれないし、当然助けもしてくれない。
むしろ、自分たちの足元を掬ってくるような――敵だらけだ。
だから、自分の身は自分で守らないといけないのだ。
「いいかライアス。あのイヴリンとかいう女は、最初はお前にいい顔をするかもしれない。けど……大人なんて誰も信用できない。きっと最後は手の平を返すんだ」
「そ、そんなの」
「いいや、疑ってかかったほうがいい。もしあの家庭教師があの女の差し金だったらどうするんだ。親切な顔をしてくる大人ほど、信用しないほうがいい。それはもう、俺たちはよくわかってることだろ」
エヴァンの顔は、真剣だった。
「油断をさせて、あとから裏切って、俺たちの何もかもを奪おうって魂胆かもしれないぞ。だから、あの家庭教師とは関わるな。もう、アラステア先生だって、信用できないからな」
「で、でもアラステア先生は……僕たちのこと、一番に考えてくれるって」
エヴァンの声が、低くなる。
「先生だって……あの女とお父様が結婚するのを、止めてくれなかったじゃないか」
するとライアスも思い当たることがあり、唇を引き結んだ。
そして、とうとううなずいた。
「……うん」
「よし、そうとわかったら俺と協力してあいつを追い出すんだ。アストンも、こっちに引き戻すように計画を立てるぞ」
◆
「……いいんですか、先生。僕とこんなに……一緒にいてもらって」
午後のお茶を共にしながら、アストンはおずおずと向かいに座るイヴリンを見上げた。
……こうして誰かと、それも女の人と長い時間共に過ごすなんて、アストンには初めての経験であった。
緊張、する。
ロシュフォール先生はまるで、絵画の中の貴婦人のように美しかったし――そばによるとなんだか良い匂いがするうえ、その自信あふれる柔らかな微笑みを向けられると、なんだかこう、無意識に、自分を預け、従いたくなってしまうような何かがあった。
これが、『テイミング』能力の力、なのだろうか。それとも彼女の性格によるものなのだろうか……。
考えあぐねたけど、わからない。アストンには、家族以外の対人経験が圧倒的に不足していた。
「いいんですわ。他のお二人は、まだ授業をお受けになるおつもりがないようですし……」
ライアスは昨日は乗り気だった。今日は十中八九、エヴァンに止められでもしているのだろう。
「先ほども申しましたが、待ちますわ」
その言葉に、アストンは少し言いづらそうに言った。
「エヴァンがあなたを避けるのは……たぶん、先生がそのものが嫌いなわけではなくって……」
口ごもるアストンの続きを、イヴリンは察して言った。
「この家に踏み込んでくる『家庭教師』なら、誰でも敵認定、ということかしら?」
「はい、そ、その通りです」
「やはりですか……」
「で、でも、エヴァンもあれで、根っから悪い人ではないんです。僕より年下だけど、優秀だし、頼れるところもあるし……。もっと前は、ここまで尖ってはいなかったのですが……」
「そうなんですの? いつから、あんなにトゲトゲしいエヴァン様になってしまったのかしら?」
アストンはちょっと真顔に戻って、切り出した。
「陛下が去年、再婚なさったのは、ご存じですね?」
すると、イヴリンの顔が引き締まった。
「こんなことを……ぼ、僕の口から言うのは引けますが、その、再婚相手の方と、エヴァンたちはいろいろあって……」
「いろいろ?」
イヴリンが聞き返したその時、扉の向こうから、大きな声がした。ライアスだ。
「アストン兄さん、エヴァン兄さんが呼んでるよーっ、外!」
それだけ言って、彼は逃げるように走っていった。
「ちょっと、ライアス君、一緒にリンゴを取る予定は~?」
イヴリンは立ち上がって叫んだが、すでに廊下の奥へライアスは消えていた。
アストンはふうと息をついて立ち上がった。
「僕、バルコニーに出ますね。エヴァンと話をつけます。先生はお部屋に戻って、ゆっくりしていてください」
「あら、外にエヴァン様が?」
「外というか、彼の部屋のバルコニーです。僕たちはそうやって話す事が多くて。ライアスに呼びにこさせたのは、きっと先生が中にいて気まずかったからでしょう」




