カカオの香り
アリロスト歴1911年 9月
何時もの様に磨かれたオークの扉を開いて俺が室内に入ると、カラーを立てた白いシャツに美しい彩色を施したシルクのタイを結び、ブラウンのウェストコートに質の良い薄茶色のウールのジャケットを羽織り、少し濃い茶のトラウザーを穿いたウィリアム・ベラルド伯爵が楽し気に微笑んで、ジェロームの斜め左向いの猫足のアームチェアーに長い足を組んで座っていた。
短い金色の髪を右から分けて流し、目尻に皴を刻み知的な深緑の瞳を細めて、ジェロームが作った煙草を人差し指と親指で掴み、形の良い唇で旨そうに煙を吸い込んでいた。
「おはようございます、ジェローム、お久しぶりです、ベラルド伯爵。」
「お早う、ジョアン。コイツの事はウィルで十分だよ、犯罪者なんだし。」
「元気だったみたいだね、ジョアン。犯罪者とは酷い言い方だね。ジョアンが誤解したら如何するんだい?ホント、口が悪かったんだねジェロームって。」
「ハンっ、うっさいよ。俺ってウィルの事を許してねーし。兄のメッセンジャーだから、部屋に招いているだけなんだからな。ジョアンは其処に座りなよ。」
「はい。済みません。」
俺はジェロームに答えてから、マホガニーで造られた楕円のテーブルを挟み、ジェロームの右向かいに或る濃い緋色のベルベットを張ったアームチェアーへと静かに腰を降ろした。
ウィリアム・ベラルド伯爵はジェロームと友人だと自己紹介の挨拶で俺に告げた人だった。
エイム公爵のタウンハウスに招かれた時に、「便利に使って遣れ」と、エイム公爵は俺に言ったけど、可成り年上で伯爵さまなんて目上の人を使える筈なんて無くて、初対面で緊張したのを覚えている。
背が高くて紳士で男らしいウィリアム・ベラルド伯爵は、55歳に成った今でも社交界で貴婦人に人気が在るとサマンサ夫人は俺に話してくれた。
仕事の関係で良くエイム公爵を訪ねるらしくバカンスシーズンにエイム公爵のタウンハウスを訪ねると良く会うように成った。
元々エイム公爵と会うのに毎回緊張していた俺だけど、ウィリアム・ベラルド伯爵がタウンハウスに居て呉れると空気が和らいで幾分か過ごし易くなって、ついつい彼と話すようになってしまった。
エイム公爵みたいに怖くないし、ジェロームみたいに俺に無茶な事を言わないし暴力的じゃ無いし、口調も優しくて態度も紳士なウィリアム・ベラルド伯爵は、俺の中では尊敬出来る大人の1人だ。
「それで此の内戦にグレタリアンは参戦するの?ウィル。」
「参戦はしないけど武器は渡すだろ。南部はグレタリアンの人間が多く住んでるし、僕のように鉱山を持ってる人間もいるしね。セインの兄上も持って居たよね?其処ら辺の回答を北部から貰って無いしね。ソレも在って様子見かな?」
「つうかウィル、元々は全部グレタリアン人じゃん。今は国を捨てて逃げて来たヨーアン諸国の人も多いけどさー。」
「まあ、南部の綿花はグレタリアンに必要だから内密で応援はするだろうし。」
「結局、北部は作ってる工場製品の為に保護貿易を強化したくて、南部はグレタリアンとの商売の為に自由貿易を続けたいってのと、やっぱり綿花プラテーションには奴隷が不可欠って奴の戦いだろ?」
「そうなるね。」
「其処まで考え方に違いが在れば、俺なら国を分けるけどな。」
「流石にソレは出来ないよジェローム。出来て100年の若い国だよ、此処で分裂などしたら其処こそヨーアン諸国に良い様にされるだけだろう。それに今、プリメラ人奴隷制度を自国で採用している国はないからね。そろそろ奴隷制度は廃止の時期だと思うよ。それも有るから表立ってグレタリアンは南部を手助け出来ないんだよ。」
「でもさー、元は1600年頃からカメリア大陸にグレタリアンを始めヨーアンの大国がプリメラ大陸から送り込んで来たんだよなー。奴隷解放は当たり前だけど遣り方を間違えたら酷い事態に成りそうだな。北部政府は確りとしたロードマップを作っているのかね。」
「如何だろうな。ライナ州にあった砦で、もう南部からの攻撃が始まったしな。こんなに早く戦闘になるとは北部側も考えてなかったと思うよ。」
「マジか。攻撃が在ったのは知らなかった。10日前にジョアンの衣服をポスアード街へ買いに行っていて良かったよ。そう言えばウィルは帰国するならナユカ国から出るんだろ?」
「うーん、まっ、暫くはコッチに居るよ。エイム公爵からジェロームとジョアンを守れって指示もあったし。俺の部下も連れてきているし後で紹介するよ。でも護衛と言っても、本邸には結構な人数が居たな。エイム公爵に言われて連れて来たけど、あの人数が居たら僕が連れて来る必要は無かった気がするなあ。」
「昔から兄は俺に対してお大袈裟なんだよ。」
「うん、相変わらずの過保護ぶりに僕も呆れた。ジェロームはエイム公爵に愛されているね。決して羨ましくはないけど、ふふふっ。」
「ウィルは煩い、一言多いぞ。」
そう言って、ジェロームは綺麗に整った顔の眉根を寄せて、1つ息を吐いてから珈琲カップに口を付けた。
ジェロームの顰めた表情を見てウィリアム・ベラルド伯爵は楽しそうに笑って、クロードが淹れた珈琲を飲んで居た。
飛び切り美しいジェロームが乱暴な口調で突っ込み、そして男らしく何処か色気の或るウィリアムベラルド伯爵は笑顔を浮かべて、時折、2人は俺の分からない話を交えて、気楽な調子で言葉を投げ合って行った。
その光景は何処か暖かくて、2人が居る空間はとても特別な場所に思えた。
そんな2人に声を掛けられ僕もギコチ無く、その会話に混じったりしたけれど、その特別な空気が壊れる気がして、少し申し訳ない気分にもなった。
微かにカカオの香りが混じったジェロームとウィリアムが座って吐き出す紫煙は、大きなフロラルス式窓から入って来る秋の初めの日差しに透けて、室内に濃く漂う様が見えた。
俺はゆっくりと空間に気儘な一筆書きを描く紫煙を見詰めていると、深緑の目を細めて微笑んでいたウィリアムと視線が合った。
「でもジェロームも良いのか?子供のジョアンが居る所でこんなに煙草を吸って。」
「あっ、大丈夫です。俺はジェロームの作る煙草の匂いは好きなので。何時か自分でお金を稼げるように成ったら、ジェロームから買いたいです。それに子供と言っても18歳ですので、一応は成人してますよ、俺。」
「ふふっ、俺の煙草は高いよ?って言いたい所だけど、税金の問題が有るから俺は煙草を売れないんだよね。販売業者としての許可も得て無いし。なので大人に成ったなと思ったら、ジョアンへ俺がプレゼントするよ。でも俺から見たら未だ未だジョアンは子供からな。」
「ふっ、おおー、ジェロームが、そんな真面目な事を考えて居るとは。」
「あのさウィル、俺ってウィルと違ってヤードに協力して来た人間なんだよ。ウィルみたいな悪い中年男と一緒にしないで欲しいよな。はあー、ウィルの嫁が可哀想だよ。」
「そうだった、忘れてたよ、一応ジェロームは正義の味方だったな。でも悪いなジェローム。妻のクラリスは、それなりに幸せみたいだよ。何と言ってもウチのセドリックにエイム公爵の長女エミリア嬢が嫁いでくれるから、クラリスも鼻が高いみたいだ。エミリアを連れて彼方此方のパーティーを回って挨拶しているようだ。」
「其処だよ、兄も何を考えてウィルみたいな悪党と縁を繋いだのか。俺は今度、兄に会ったら文句を言って遣る。」
「ジェロームみたいなお子ちゃまには判らない事情もあるんだよ。それにエイム夫人からは僕達夫婦は感謝されたよ。中々エミリア嬢に良い嫁ぎ先が見つからなかったとか。」
「まあね、家格的に合う所は婚姻して居るし、賢き義姉エリスの立場としては、長女を嫡男へと嫁がせたいし。」
「うん、97年のポーラン戦争の時、嫡男を亡くした家が多くて慌てて次男たちを家に呼び戻し婚姻させた子作りさせたけど。まあ、如何考えても今23歳のエミリア嬢との婚姻は無理だからね。出来ないことも無いけど。」
「うーん、エミリアの夫に13歳以下は無理か。兄の性格だと貴族以外は認めないし。可笑しな男女の比率に成ったな。」
「恐らく次のヨーアン諸国同士の戦いでは公然とは言わないけど、嫡子を出さない貴族家が多いと思うよ。グレタリアンの呪いで侯爵以上の家は男子が少ないだろ?」
「そうだね。でも兄は嫡男フレデリックを出すみたいだぜ。誇り高き人だし、貴族である義務って言ってたな。そういやウィルの所と同じ年か。」
「うん、そう。学校も所属連隊も違うから今回互いの家で食事会をする迄はセドリックと話した事が無かったそうだ。」
「ふふっ、フレデリックは兄に似て社交が苦手だしな。セドリックは出兵させるの?ウイル。」
「一応ね、そういやジェローム、ジョアンを来年には士官学校へ行かせて置けよ。恐らくフーリー党に成ったら階級の売官制度は無くなる。そうなって苦労するのはジョアンだぞ。」
「イ・ヤ・ダっ!今、ジョアンを軍学校へ行かせたら、バンエル王国を巡った戦争に参戦させられる可能性が高いんだぞ。プリメラ大陸やイラドの闘いなら未だしも。兄もソレを考えてジョアンを北カメリアに送って来たんだから。」
「あ、あのジェローム。俺はやっぱり軍学校へ行きたいです。それにエイム公爵の嫡男やウィリアム・ベラルド伯爵のお子さんも参戦されるのですよね?なら俺も戦いに参加した方が、、、。」
「「それは貴族だからだっ!!」」
そう強い口調でジェロームとウィリアムから、同じ調子で俺の言葉は遮られてしまった。
2人の話に因れば、ヨーアン諸国は一部を除き、王侯貴族の特権はカリント教を守り、外敵と戦って教会から騎士として認めらて得られた。
そして時代が下りそれ以降は教会が王と認めた者と共に、敵と戦って来た者が王から爵位を賜って、貴族に成って来た歴史がある。
ただモスニア帝国とグレタリアン帝国は、其々の歴史の中で貴族以外が戦争へ参加する事を許した国であるらしいけど。
グレタリアンは長い内戦で貴族が減り、その不足人員を補う為に王が貴族に仕えていた騎士たちへ戦った褒賞として土地を分け与えて地主階級とし、貴族の代わりに戦うように成った。
当然だけど残った貴族も戦時は戦う義務を負っていた。
でもって俺の様に何も持たない人間は本来戦いに参加しなくて良い。
つうか、参加させて貰えない筈なのだけど、戦う人間が減ったので選挙権と引き換えに兵士の間口を広げたから、俺も軍学校へ通えるように成っていたそうだ。
俺の事を巡って、ジェロームとウィリアムは、喧々諤々な議論を始めていた。
お、俺の為に喧嘩をしないで呉れよ。
俺は2人の議論を止めて貰おうとクロードを目で探すとオークの扉を開いて、香ばしい香りを漂わせて珈琲セットを乗せたワゴンを押して来た。
しなやかな動きでマホガニーで造られた楕円のテーブルへジェロームとウィリアムそして俺の前へ白い磁器に藍の濃淡で描いた蔦植物の珈琲セットを置いて静かに後ろに下がった。
俺は、砂糖ミルクじゃなく珈琲を持って来た呉れたのが嬉して、思わずクロードを見れば、微かに微笑んで頷いて呉れた。
「まあ、ウィルが色々言っても、どの道さ、北カメリアの此の内戦が落ち着くまでは、戦闘が始まったから、今更出国は出来ないだろ?」
「そうだね。こっちも計算外だったけど、まっ、何とか成るだろう。」
「ウィルは、また何か良からぬ事を企んでいたんだろ。俺とジョアンを巻き込むなよ。」
「悪巧みでも何でもないよ、実はナユカ国へ連れて行こうと思っていた子が居てね。少し身体が弱いんで、今から何処かに動かすのも面倒だから、ジェロームの本邸に暫く滞在させて欲しいんだ。」
「面倒って、、、。ウィルって俺より酷いな。で、その子は何歳なの?」
「17歳。夜にでもゆっくり事情を話すよ。ジェローム、もう一本煙草を貰うな。」
「どうぞ。判ったよウィル。」
2人は互いに銀色のシガレットケースから煙草を取って、それぞれの整った唇で銜えた。
シャロームの淡い金糸の左肩で緩く纏めた髪にも、ウィリアムの右へ分けた艶やかな短い金色の髪にも、整った唇や指先から立ち昇って行く紫煙は、薄いヴェールと成ってゆったりとアームチェアーに座る2人を覆った。
喧嘩している様に見えて、ジェロームとウィリアムは気が合うんだろうなと思いつつ、クロードが淹れてくれた良い香りの珈琲を俺は静かに飲んで居た。
そんな事を口にしたら俺がジェロームに怒られそうだけど。
微かに薫るカカオの匂いに俺も早く大人に成って此の香りが似合うように成りたいと思った。