ミルク髭
アリロスト歴1911年 9月
俺の拾い主ジェロームの朝は遅い。
俺が屋敷の周囲を走り、シャワーを浴びた後に独りでランチルームで用意されている朝食を取り、クロードから剣で謎の訓練を受け、一息吐いてから初めて出迎えられた部屋へ入ると、ゆったりとしたウィングチェアーに腰を掛け、テーブルの上に広げられた刻み煙草を優雅にブレンドしている青いガウンを羽織ったジェロームが居る。
部屋の壁際に或る柱時計は、既に朝の10時を回っていた。
「おはようございます。ジェローム。」
「うん、おはよ、コレを紙に巻いてしまうからジョアンは座って待っていてよ。」
「は、はい。」
ジェロームは、透明なコーンプラスチック製の薄い袋から一掴みづつ刻み煙草を取り出して、テーブルの上で広げた新聞紙に4つの小山を作り、少しずつ混ぜ合わせて気に入った香りを作るのだ。
この時だけはキリリとした表情で、刻み煙草のブレンド作業に余念がないジェロームだ。
何でもジェローム愛飲していた『ハートのジャック』って言う煙草を作っていた会社が3年前、大手煙草会社に吸収されて『ハートのジャック』は生産中止に成ったらしい。
其処で時間を持て余している暇な拾い主ジェロームは、、、あっ、凝り性なジェロームは、無ければ自分で作れば良いと思い立ち、ハートのジャックを生産していた元経営者を脅して仕入れ先を聞き出し、あっ、説得して尋ね、そして仕入れ先から煙草の葉を刻んで卸している業者を脅し、あっ、丁寧に話し合い契約して、態々あんな遠い南カメリアから微々たる個人消費量の刻み煙草を北カメリアに或るアカディアまで配送させて、整った顔で優雅に刻み煙草のブレンドを愉しむジェロームなのだ。
「ホントはカレ産の細巻の葉巻でも良いんだけどね、ふふっ。」
拘りの紙で巻いた自作の煙草を吹かして綺麗な微笑を浮かべて俺にジェロームは話した。
俺はグレタリアンでエイム公爵から圧を掛けられた『ハートのジャック』の元煙草製造業者と、南カメリアでジェローム一味に物理的な説得を受けた卸売業者たちへ、非道なエイム兄弟の赦しを願った。
一日の消費量20本を巻き終え、細かな細工を施された銀色のシガレットケースへジェローム手製の煙草を綺麗に並べ入れ、クロードがテーブルを片付けている間に手を洗いに行き、暫くするとオークの扉を開いてジェロームが部屋へ戻って来た。
ウィングチェアーに腰を掛けると、ジェロームの左肩で緩く纏めていた淡い金糸の髪が揺れて、胸元に掛かった。
ソレを煩そうに白く細い右手で払い、ジェロームは足を組んで優雅に座り、左斜め前に座っていた俺を見て、クロードに砂糖ミルクを持って来る様にと告げた。
うわぁっ、また甘過ぎる砂糖ミルクだ、、。
俺は紅茶が飲みたいよ。
クロードがマホガニーのテーブルに色彩豊かに風景を描いた珈琲カップとソーサラーを置いき、ソレをジェロームが美しい仕草で取り、珈琲カップに口を付けた。
「ジョアン、今日はアカディア州都ポスアードの街へジョアンの冬用の衣服を買いに行くよ。帰りはデルラの集落に或る教会に案内しよう。ジョアンは新教徒で良かったんだよね?」
「えっ、有難う御座います。でもミューレン爺に手紙を書けば俺の衣服は送って貰えますよ。」
「あのミューレン爺に其処まで手間を掛けさせなくて良いさ。でも用事が無くても手紙は書いて遣りなよ。寂しがってるだろし、序にルスラン達にもな。俺も書くし。」
「はっ、はい。」
そう言うと、ジェロームは銀色のシガレットケースから煙草を取り出し、陶器の燐寸入れから一本を細い指で掴み、可愛い栗鼠の置物の尻尾に塗られた油薬で擦って火を点け煙草へ点した。
俺はミューレン爺の白髪の混じった頑固そうな髭面と禿げ上がった頭の懐かしい容姿を想い出した。
ロンドに或るミューレン爺の煙草屋を俺が発ってから随分と時が経ったような気がした。
2ヶ月という時間は長いのか短いのか良く判らないけど。
本当は一度ミューレン爺へ手紙を書こうとしたけど、何を書いて良いのか分からなくて一時間悩んだ結果、断念してペンを置いた。
俺はペイジボーイとしてジェロームに雇われた筈なのだけど、遣るべき仕事が無いのだ。
ジェロームに用がある時以外は、朝の10時過ぎにあの部屋へ行き、俺は砂糖ミルクを飲まされて、ジェロームが尋ねる事に答えて、夕刻まで時を過ごし、そしてその後晩餐をジェロームと共に食べて、自分の部屋へ戻り眠るのだ。
それにクロードとトマスがいつもジェロームの近くに居て何でもテキパキと熟してしまう。
でもって、ジェロームは俺に寮兄フランク・ネルソンの事を何やら楽し気に聞いて来るのだ。
なんか此処に来てから、フランクともう一人の友人と監督生の先輩の話しか、ジェロームに聞かれていないような気がする。
はぁー、分ってるよ。
ジェロームは俺の恋人が友人か先輩かを知りたがってるんだよね?
意外にもジェロームは下世話だった、なんか俺はガッカリだよ。
フランク・ネルソンはキャメル色の髪に琥珀を嵌め込んだような瞳が印象的な同級生で、同じクリケットチームに所属していた。
俺より背が少し低いけど良い打者でチームの皆からも期待が高い。
俺はまあボチボチだけど。
明るいムードメーカーだけど意外にデリケートで、試合が始める前にフランクが酷く緊張するのを知って、俺は態と脇腹を突いてビックリさせたら、それ以来懐いて来るようになった。
俺が初めて行く寄宿学校へ通うのを恐れて、緊張して居るのを知ったミューレン爺が俺の脇腹を突いて驚かせた事が在ったのを想い出して、フランクへ試しただけだったのだけど。
ミューレン爺が言うには、怯えで心が縮こまっている時は身体を吃驚させると心の縮みが解消されるって教えてくれたのだ。
昔、戦場に行った時に先輩から教えられたとミューレン爺は言っていた。
それにフランクは俺を「ルーニー」ってあだ名で呼ばずに、ちゃんと初めから「ジョアン」と名前を呼んでくれていたし。
そして、ジョーン・パリス監督生のお陰で、俺は名前を揶揄われるくらいで寄宿学校に居る時、虐められなかったのだと思う。
部屋を与えられたジョーン先輩を含む計3人の監督生に、お茶を入れたり靴を磨いたり掃除をしたり、面倒と言えば面倒だったけど、ルールと言われたら仕方が無いし、まあお世話係は俺だけじゃ無かったから何とかなった。
なんで俺を選んで呉れたのか今でも謎だけど、ジョーン・パリス先輩のお気に入りファグと言う事で、酷い目に遇わなかったのはラッキーという以外にない。
スポーツしか取り柄の無いやんちゃな野郎ばっかが、ぐっちゃり集団生活してるから、バトル上等って脳筋たちが生徒内パワーバランスのヒエラルキー上位に居るんだよ。
やんちゃ野郎のストレス解消法なんて碌な物じゃ無いのは当たり前。
如何にそれらを潜り抜けるかがサイレント・マジョリティーなモノたちの腕の見せ所な訳で。
つうか、ジェロームって俺より厳しいパブリック・スクール卒業生じゃん。
なら知ってるだろうに。
サクッとジェロームは飛び級してるらしいけど。
俺の同級生でモテてる子が居たけど、あの頃ってメタモルフォーゼの時期なんだよね。
俺もそうだけど13歳~18歳って体格も顔付も変わるんだよ。
で、入学当初は可愛い子ちゃんでも、3年経つと声も変わるし風貌も変わるんだよな。
卒業した今では体格も立派な青年に進化したので、大人に成った先輩たちはちゃんと責任を取って、その子を婿だか嫁だかに貰って上げて欲しいと願ってみる。
そして俺は男でも女でも未だ恋人を作るとか無理なのだ。
先ずはジェロームが話してくれた俺が俺であると言う自信を持ってからだと思う。
こんな不安定な状況で恋人なんて。
そう思っても俺って恋人って、どんなものかも分からないんだけどね。
ふと視線を上げて前を見れば綺麗に微笑むジェロームが、耳に馴染む低い声で俺に話し掛けた。
「折角の砂糖ミルクが冷えてしまったね。クロード、暖かい砂糖ミルクをジョアンに、もう一杯持ってきてあげて。」
「いえ、俺は此れが好きなので。」
そう言って冷えた砂糖ミルクを俺は一気に飲み干し、慌てて立ち上がって部屋を後にした。
冷たい砂糖ミルクなら俺もなんとか一気に飲み干せたけど、暖かい甘過ぎる砂糖ミルクをもう一杯とか持って来られたら、、、考えただけでその甘さに背筋が震えた。
野良猫ジョアンがミルク髭を付けて慌てて部屋から逃げてしまった。
クロードが微かな溜息を吐いて、空に成ったジョアンのマグカップを片付けて行く。
はいはい。
悪かったよ。
拾ったばかりのジョアンを一年近く面倒見ていたクロードは、ジョアンを揶揄い過ぎる俺に少しご機嫌斜めのようだ。
ジョアンに対して俺が遣り過ぎだとクロードは思って呆れているんだよ。
分ってんだけどジョアンは、もう少し俺と近しい間柄に成っても良くね?って思うんだ。
デルラに或る此の屋敷へ来てもう2ヶ月経つんだしさ。
そして俺は兄のメッセンジャーに成っていたウィルこと怪盗バートから届いた手紙に、改めて目を通し始めた。
俺がアカディアのデルラへ越して2年後1907年にグレタリアンと北カメリア間で海底ケーブルが繋がり電信の遣り取りが行われる様になった。
折角、俺はグレタリアンと物理的に距離を取った心算だったのに、鬱陶しい速さでグレタリアンの情報が近付いて来やがることに当初は苛立ったものだ。
でも兄へ何かと依頼する事も多くて何かと便利に利用させて貰っている。
つうても、ロンドとデルラの此の屋敷を往復させている専用のメッセンジャーがいるけどね。
兄から俺へ伝える話題は機密が多いので仕方ない。
そもそも俺が此のロッジを建てたのも本邸の白い大きな屋敷は兄の配下ーズが北カメリアでの活動拠点とした物だった為だ。
そんな場所に居たら俺の気が休まらないつうの。
まあ、兄も俺がバカンス・シーズンに利用する事くらいしか考えて無かったみたいだけど。
まさか俺がとっとと探偵を辞めて、兄の用意していたアカディア州へ移住するとは思っていなかったようで、準備の良い兄としては珍しくドタバタ焦り捲くってデルラの屋敷を調えたっぽい。
幾ら見掛けが綺麗なイケジジイな兄でも、基本的に俺や俺が気にいってる人間以外には腹黒?ダーティーな酸いも辛いも知っている62歳にも成る公爵様な訳よ。
次の投資先は北カメリアだ!と金融屋に言われてこの地を手に入れたらしい。
この金融屋が案外と悪党で俺からしたら、此のジェームス・モリアーニをサクっと殺した方が世の為人の為だと思うんだけど、父親の代からエイム公爵家に資産を莫大な額へと増やして呉れて居ると兄から紹介された。
兄からジェームス・モリアーニを紹介された時に、速攻殺そうとして俺は腰に隠してあるナイフを掴もうとしたけど、兄に止められるし。
戦争の影にはジェームス・モリアーニが居ると噂されている奴なんだよ。
オーリア帝国の株価暴落の切っ掛けを作ったとも噂されている。
俺の苦手な無邪気なグレタリアン帝国覇権主義の植民地担当副大臣トリス・ローデにレンジ王国簒奪の資金も当初に融資したとか。
諸悪の根源ぽいジェームス・モリアーニが言うには、昔奪われたガロアの地を取り戻し、ガロア人の国を作る為に働いているって話だ。
彼の父と俺の父とが意気投合して、それからはモリアーニ家はエイム公爵家の増える財布に成ったらしい。
国を裏切ったり違法な事をしている訳でも無い。
まあね、貴族家の本懐は善悪では無く第一が血族の家名存続だしな。
特にエイム家は現皇帝のスチュアート家と盟約を結んでないつう思いが父も兄も在ったみたいだし。
兄を筆頭に、そう言う想いを抱いている旧い家が多いから、先々代、先代の皇帝は新たな貴族家を創設して行ったのだろう。
現皇帝スチュアート4世は、売官制で貴族家を増やしてはいないけど、帝国へ名誉や利を齎したモノへ爵位の授与を行っている。
この時代に没落もせずに俺もエンジョイ・ワッショイして居られるのはジェームス・モリアーニのお陰なんだろうけど微妙な気分だ。
そんな事を想い出したのは、兄のメッセンジャーに成っている怪盗バートことウィルの手紙を読んだからだ。
北カメリアの内情も書いてあり、如何やら内戦に成る様だと在った。
此の件にはジェームスは絡んでいないっぽい。
一応内乱の概容は、北カメリア北部と南部の揉めている争点であったプリメラ人奴隷制問題は36度以北は奴隷を認めない自由州となり、南は奴隷制継続州と成り妥協的な和解をしていた。
しかし北部へ逃げた逃亡奴隷に対して最高裁がプリメラ人奴隷の権利を認めないと言う判決を出した。
此れが妥協的和解をしていた双方を一気に騒乱へ落とし込んだ。
そして大統領選で僅差で奴隷制反対の自由党が勝利し、自由党の候補者が北カメリア連合国大統領に成った。
そのことに奴隷制継続を求めていた南部は拒絶を示し、北カメリア連合国からの脱退を表明し新たな保守党を作り、南部カメリア連盟国大統領を選出した。
恐らく内戦に成るだろうと在り、ヤバく成ったら北に或るナユカ国へ行けと、ウィルの手紙に綴られていた。
俺は暫し思案してデルラに留まることにした。
南部と離れ過ぎている事もあるけど、36度線以北に或るアカディア州にはプリメラ人奴隷が居ない所為でもある。
つうか、此処で戦闘が起きるなら北カメリア全土で起こるだろうし、何しろ本邸に行けば様々な情報が手に入って、次の行動へ移すのに俺が的確な判断を下し易くなる。
そして序に野良猫ジョアンも連れて行って社会勉強をさせるのにも良いだろうと思い付いたのだ。
何となく戦場へ行く事にロマンを感じて要るっぽいジョアンへ少し生臭い教育をしよう。
そう思い付いて俺は口の端を微かに上げて笑みを零した。
するとクロードが俺の表情を見て大きな溜息を吐いた。