ジョーカー
アリロスト歴1916年 7月
鼻血を流した後、俺はデイジーに低姿勢で胸に触れた事を謝り、鼻血で赤く染まったシャツとトラウザーを着替えにマイケルの部屋から逃走した。
マイケルの部屋から、落としたトレイの片付け来たトマスとロビンやサニーたちの漏れる笑い声を、俺は聞こえなかったことにした。
その後、当たり前のようにジェロームには揶揄われた。
マイケルは真剣に俺の鼻血を心配してくれたけど、出来ればジェロームのように笑い飛ばして欲しかった。
なんだか俺の心が痛いんだ、マイケル。
そんな少し荒んだサマーバケーションを過ごす中、俺は艶の或る重厚なオークの扉を開いてジェロームの部屋へと入って行った。
淡い金糸の髪を緩く纏めて左肩に掛けて、臙脂色のベロアの生地が張られたアームチェアーに深く腰を掛け、白いコットンシャツにベージュのトラウザーを穿いた長い脚を組み、微かにカカオの香りがする煙草を燻らせていた。
相変わらず良い歳をしているのに美しいジェロームが其処に居た。
「やあー、鼻血小僧のジョアン、今日は大丈夫かい?」
「お早う御座います、ジェローム。そう毎日毎日、俺の鼻血の心配をしなくても。」
「ふふっ、だって俺は鼻血とか出した事が無いから、トマスからの報告が新鮮でさ。やっぱりジョアンも彼女を作らないと駄目だね。デイジーみたいな子がジョアンの好みなの?」
「そんな、彼女とか俺にはまだ早いです。好みとかそう言うのでは無いですよ、ジェローム。」
俺は、ジェロームが右手で指し示すままに緋色のバロアの生地を張った猫足のアームチェアーに腰を掛けつつ、問い掛けに答えた。
うん、俺には彼女と言うか恋人を持つには、未だ未だ早い。
少なくとも自分の仕事を持つまでは、ジェロームやマイケルそして皆の思い出だけしか持たない俺に他の誰かと生きる未来が見えて来ない。
「そう?まあジョアンの夏休み中に一度はナディアにまた行こう。」
「でも、その、あのー。」
「適当に抜いて於かないとデイジーを見てまた鼻血を出すよ。ジョアンも服を血塗れにするのは嫌だろ。」
「そうですけど、、罪の意識が、どうしても、ですね。それにデイジーを見たから鼻血が出た訳じゃあ、、。」
「まあ、良いんじゃない。そう言う意識がある方が健全な気もするし。そう言うのもジョアンらしさだと思うしな。つうかウィルっ!こっそりジョアンの背後に立つな。」
「ふっ、お早う、ジョアン、ジェローム。ジョアンは鼻血を出したんだって?」
「は、はい、もう大丈夫です。済みません。そしてウィリアム、おはようございます。」
「たくっ、ウィルはウロチョロと。で、お早う。」
「そう言えばジェロームは本邸の報告を聞いたかい?議会でフーリー党のグスラン首相が挙国一致内閣を宣言したそうだよ。まあプロセン連合王国が事前に宣戦布告無しで、フロラルス国境を超えて侵攻したから焦ったのかもね。ルドア帝国も南下だけじゃ無いかも知れないと考えて。」
「はぁー、そうなると近隣の国々もルドア側に就くかグレタリアン側に就くかで騒がしくなるね。」
「ジェローム、其処はモスニアに就くかが、正しいよ。グレタリアンは、ヨーアン諸国から嫌われているからね。」
「ふふっ、違いない。しかし思想とは厄介だよなー。ルドア帝国の現状は、権力者側の専制主義と、啓蒙思想に目覚めて熟した知識層の社会主義と、富を蓄財した資本家の自由主義、とが内部で争っている状況だろ?俺の友人が言っていたけど、一度芽吹いた知識は押え付けても消えないらしい。そうなると落としどころが分らなく成って政治が迷走する。まあ、トリガーは長引いた不況だけど、皇帝や枢密院も、結局は外へ膨張政策を執るしか手段が無かったのだろうな。」
「ジェロームは社会主義が嫌いかい?」
「嫌いと言うよりは多民族国家の大国に不向きだと思うだけさ。エーデン王国やデサーク王国規模の国なら良いと思うけどな。ウィルは啓蒙主義大好きマンだから、人間の理性や知性を信じたいんだろうけどさ。」
「ソレが有るから、僕らは頑張れるんだろ?」
「ふっ、まあ、そうだなウィル。そういやシャルルってフロラルスの元外務官が来たけど、アレってウィルの案件だろ?フロラルスへの侵攻に対してもウィルは、そこまで怒って無いし。」
「まーね。シャルル・ペリールは、ヤリ手の外務卿タレンの血縁らしくてモスニアでも重宝されていたんだけど、何を想ったのか数名の仲間とフロラルスの愛国活動を始めてね。その仲間を洗い出す為にフロラルスから敢えて放逐したんだ。まあ都合が悪くなるとサクっと掌を返すから奴だから、今回グレタリアンへ脱出が出来た事で、僕らの意図は察して居ると思うよ。自分から売る真似はしないが、仲間達に探られていると言う注意喚起は敢えてしないだろう。ペリール伯爵は人の良さそうな紳士に見えて中々の狸だからね。」
「ふふっ、そうなんだ、ウィル。俺には、ちっとも人が良さそうには見えなかったけどね。まっ、ウィルが把握して居るなら良いや。」
それからウィリアムは、ジェロームにシャルル・ペリールの略歴や故タレン外務卿の逸話を話していた。
故タレン外務卿は作家でもあり、フロラルス王国の遺跡専門のトレジャー・ハンターだったそうだ。
『それって墓泥棒だろっ!!、ウィル。』
そう言う身も蓋もない突っ込みを、ジェロームはウィリアムにしていた。
ウィリアムは、グレタリアン貴族なのに、グレタリアン帝国よりフロラルス王国が好きだと言う変わり者だった。
よく考えたら、このロッジにはジェロームを筆頭に、余りグレタリアンの事を考えている人って居なかった。
俺が寄宿学生の頃、ミューレン爺やルスランの為に頑張ってグレタリアン人に成ろうとしていたと行為は、何だったのだろうと、遂、思ってしまう。
まあ、今は北カメリアの国籍を取得して居ているので、俺もカメリア人なのかな?
でも、此処アカディアに来て良かったと俺も思って居るんだよね。
大学でも色々な国の人が居て、親の代からとか、祖父の代とかソレ以前とかの移民で来た子孫たちが居て、ロンドでは無かった自由な空気が溢れていて、俺の色素の薄い髪や瞳や肌色に対しても違和感なく受け入れて呉れているんだ。
後は素直に会話して居てもオッケーだと言うのが嬉しい。
一々ジョークで答えなくて良いって言うのが、こんなに楽なモノだとは思わなかったよ。
グレタリアン・ジョークって案外とブラックで、故人の送別会で、どれ程故人が最低の人間なのかを語って、別の席では同じ故人をどれ程素晴らしい人かを語ると言う、俺には真似の出来ないソレが、粋なジョークとして人々に語られる。
ロンドに居る頃、俺は、大人に成ったらそんなジョーカーに成らないといけないのか?と戦々恐々としたモノだった。
そんな感慨に俺が耽って居ると何時の間にかウィリアムが俺の隣に在ったモスグリーンのベロアの生地を張った猫足のアームチェアーに腰を掛けて、クロードが淹れてくれていたベージュ地に水色で描いた猫のマグカップをそっと俺に差し出して呉れた。
ウィリアムは深緑の瞳を細めて優し気な笑みを浮かべて俺を見ていた。
どうしてかウィリアムは、時々俺を包み込むような視線を投げかけて来るので、俺は背中がムズムズとして来るのを感じるのだ。
此れが父親の眼差しと言うモノだろうか?
ふと視線を感じて、左前に顔を移すとジェロームは整った顔の唇の右端を微かに上げて、綺麗な笑みを浮かべて、人差し指と中指で挟んだ煙草を燻らし、ウィルを眺め始めた。




