アップルパイ
アリロスト歴1916年 10月
私は今セーラ病院でセーラ嬢の指示通りに煮沸されたタオルやシーツ類を洗濯している。
戦場で重度の傷を負い、落命する事なくロンドまで戻った若い兵士達はセーラ病院へ運び込まれて治療を受けながら、家族たちの対応を待って居るのだ。
中には動かせない重傷者も居るので、看護婦たちがそんな家族のケアもしている状態だ。
戦場の医療テントはもっと悲惨な状況らしいのだが、此処は此処で悲惨なので戦場から引き揚げてきて話す傷痍兵の人へ、私は何とも言えない。
1884年にグレタリアンのロンドに或る下宿112Bでクロエの意識を持った侭、私はサマンサと言う女性の身体で覚醒して、32年経った今こうして戦争の影響を目の当たりにしている。
運良く私の息子たちは軍人に成れない年齢だったけど、それでも息子ニックと年齢が近い子達が手足や他の部位が治療不能な姿を見ると胸が痛くて苦しくなる。
全く何が悲しくてあんな遠いトルゴン帝国迄も戦いに行くのでしょうか。
色々な想いを馳せながら、私は籠に入れた洗濯物を一緒に手伝っているジュリア達と抱えて干場へと急いだ。
そしてルドア帝国に開戦を宣言したスチュアート4世。
今回は、そのスチュアート4世も戦場へ出ている。
痛い皇帝と思っていたけど皇族の義務は果たされるようだ。
一応は海軍の士官学校を卒業されているとセインは話していた。
世紀の大恋愛で私達市民へ話題を提供してくれていたけど思わぬ事件でハートブレイクをし、グレタリアン国民に涙と笑いを齎して呉れたエンターテナーな皇帝陛下。
現在はソコソコ浮名を流しつつ、美貌の従者キースともグレタリアン式友情を深めて話題作りを忘れないプロの、、、えーと、なんでしたっけ?
そう39歳の皇帝でした。
でも19歳の皇太子もいらっしゃるし、弟の皇子18歳もいるので、スチュアート4世に何か在っても大丈夫だと大衆紙では専らの噂。
さて、男共が居なくても社会を廻して行く労働力は必要な訳で、バタバタと即席で決めた法案で男たちが抜けた穴を女性達で埋めていくことに成りました。
流石に職人や研究職そして肉体労働は無理なので、様々な業種の事務職で女性の求人が行われ、オフィスレディが誕生して行きました。
此れってどうなるんでしょうね。
終戦に成って男達が復員すれば、オフィスレディはリストラされるの?
でも男たちが職を無くしたらロンドの治安は悪くなりそうだし、ジェロームこと緑藍に手紙で訊いてみよう。
美貌の緑藍とステディな関係のデッカイふつーなオジサンのセインは港に作られた医療キャンプで「休む間もなく働いて居る」と目の下に大きな熊を飼い、白髪混りのボサボサ頭で10日前に下宿112Bへ戻って来て、2泊3日の短期宿泊をして又、港にある医療キャンプへと帰って行った。
「この戦いが終わったらジェロームのトコロへ行くんだ。」
そんな不吉なフラグ発言を残して、馬車に乗り駅へと向かったのだけど、セインは大丈夫なのかしらん。
セインて見栄えは今3歩なんだけど、優しくて値が真面目だから手が抜けないと思うのよね。
無理して身体を壊さないようにと私は内心でそっと願った。
リンゴを市場で多く購入したのでアニタと一緒にアップルパイを焼いて、近所にある煙草屋のミューレン爺やノーマン家や近所にも秋の味覚のお裾分けをして、1階に或る談話室へと切り分けたパイを片手に扉を開けて入って行った。
四角い窓を背に夫のルスランは安楽椅子に座りロンド・ポスト紙を熱心に読んでいた。
「アップルパイを焼いたの。ルスランも食べるでしょ?」
「ああ、済まない。気付かなかった。勿論頂くよ、サマンサの作るモノは、どれもわたしの大好物だからね。」
「ふふ、有難う。またグレタリアンとルドアの戦争でルスランは悩んでいたんでしょう。」
「いや、う、うん、まあそうだ。ルドア兵がグレタリアン兵を殺すたびに、ニックやダリウス、ミッシェルが憎まれないかと思ってね。ルドア人のわたしの血を濃く受け継いでいるから心配なんだ。」
「そんな事を気にしても仕方がないわよ、ルスラン。そんな事を言ったらグレタリアンの血を引くあの子達は色々な国に憎まれるって事にも為るし。本当は従弟のミハイル皇帝を心配しているんじゃないの?ルスラン。」
「それは勿論ミハイル皇帝の心配はしているよ。でも彼が決断したことに、わたしは是非を問わないし、問うべきでは無いからね。わたしは廃嫡された人間だから最早ルドアの皇族でも無い。今はグレタリアン人でサマンサの夫だから家族と友の為に生きているんだよ。」
「そう?」
「うん。」
「私はルスランの居た立場の事は分からないし、説明されても理解はしても恐らく納得と言うか得心は出来ないと思うの。ただ言えるのはルスランが苦しむ姿を見たく無いから、本当に遣りたい事が在ったら私に教えてね。私はジェロームと違って相手の想いを読み取るなんて器用な真似は出来ないから。」
「ふふ、そうだなー。では、遣りたい事として、サマンサのアップルパイを食べても良いかい?」
「まぁ!、うふっ、勿論どうぞ。」
元々、幾度となく戦って居たグレタリアンとルドアは、敵国として互いに仮定していた。
そんな国へ亡命と言うか密入国して逃げてきたルドア帝国の元皇太子ルスランは、私に分からない覚悟も色々として来たのだろう。
私がルスランと婚姻する以前に、緑藍はルドア帝国のような広大な多民族国家は強権的でなければ国は治められないと言っていた。
ルスランが強権的に成る姿を、私は全く想像出来なくて「へー」と気のない返事で答えたっけ。
立場が人を作ると言うけれど、私は元皇太子だった優しくて少し頼りない此のルスランが大好きなのだ。
婚姻する迄はルスランが「ルドアに帰る」って言っても「いってらっしゃい」と、私は見送ろうと考えていたけど、もう今更ルスランの優しい手を手放す事は出来そうにない。
この先、ルドア帝国も此のグレタリアン帝国も、どの様に成って行くかは分からないけれど、それでも私は傍にルスランが居て呉れて、ニックやダリウスやミッシェルが元気で居られるのなら、笑顔で生きて行けると思うのだ。
そんな事を考えながら私は新しいカップを出して、温かなカモミールティーをルスランの為にへと注いでゆく。
アップルパイはリンゴの香りと酸味が心地良く広がって、私はルスランと微笑み合って秋の味覚を静かに夫婦で味わうのだった。




