アパート
かつて通った古アパートが取り壊されると聞き、昔、足繁く通った電車道を辿った。
駅に降り立つと、駅近くだけは華やいではいるものの、少し奥へ入った古い街並みはすでに人通りが絶えていた。ここから先は忘れかけた記憶を蘇らせるかのように、馴染みの、しかし寂れた街並みが続く。あの角を曲がれば、確か直ぐに駐車場と古アパートがあるはず。
確かに駐車場の跡と古アパートはあった。2階の奥が彼女の部屋だった。立て看板には建築計画の知らせが掲示されていた。もう誰も残っていないように見えた。
もう、夕方が近い。ふと振り返ると、あの部屋に灯りが小さく灯っている。そうか、まだギリギリまで住んでいる人はいたのだ。あの部屋に住んでいる人なら、彼女の連絡先を知っているかもしれない。
そう思い、階段を上がっていく。途中のステップが欠如している。まだ人が住んでいるのだから、しっかり管理しないと危ないじゃないか。そう思いながら、奥の部屋の呼び鈴を鳴らす。
「はーい」
くぐもった女の声。あれ、聞いたことのある声。そう気づいた時にはドアが開いていた。
「あ、嬉しい。来てくれたのね」
まさかここに戻ってきていたなんて知らなかった。私は思わず、大きな声で返事をしていた。
「なんだあ、なぜ連絡してくれなかったんだい? ここにまた来ていたなら、連絡の一つぐらい………」
「ごめんね。あなたに連絡する手段がなかったのよ」
変なことを言うなあ。私はそう思いながら、靴を脱いで部屋に上がっていた。畳が妙に湿っぽい。
「来ることはわかっていたのよ」
これも変な言い方だ。連絡できないのに、なぜ私がくることをわかっていたのか。そう思いながらも、目の前に並べられていく夕餉と魚の塩焼き、お浸しが香りよい。ご飯は私の好みの山盛り。驚いたことにをたしの最近の好みのジャコのふりかけまで用意されている。
「ここに帰ってきていたのかい? いつから住んでいたんだよ?」
「そうね。あなたがあまりに私を求め続けていると聞いたから、私も我慢できなくて、ここに帰ってきて、ちょっとここを借りたのよ」
「それならちょうど良い。妻に死なれて娘も独立して、私は独り身になってしまったんだ。私の家へ来ないか?」
「一人なの? 嬉しい」
「じゃあ、こんばん、私の家に来てくれないか」
「え、今から?」
「そうだよ、私は君の仮住まいを見ることができた。だから、今度は僕の仮庵を見てほしい」
「仮庵? そこで一人で住んでいるのかしら?」
アパートを出ると、駅への道。ふと気がつくと、私の右手には泥の付いた川魚と雑草、左手には草のみの山盛りが握られていた。
「どこかで転んだかな?」
彼女を連れて自宅近くに来ると、彼女は妙なことを言い出した。
「本当に、一人で住んでいるの?」
「そうだよ」
「でも、あの住まいには誰かいるわ」
「え? そうかい? じゃあ、様子を見に行ってみるよ」
いつものとおり、誰もいない。しかも、いつもの何かが感じられなくなっている。
しばらくして私が合図をすると、彼女も安心したのか、私の家へ入ってきた。
「さあ、久しぶりに飲もう」
しばらく昔話をしていると、彼女は突然びくりとした。顔色はアパートの時から青白いのだが、今は土気色になっている。
「あの、本当に一人で住んでいるのかしら」
そう言われれば、誰かが家に入ってくる気配があった。
娘が里帰りがてら、帰ってきたらしい。
「おう、ちょうどいい、紹介するよ。私の友人の…」
あれ………。
先ほどまで彼女が座っていたところには、色褪せた汚れたTシャツがあった。
娘は不思議に思うことなくTシャツを指さして答えた。
「へぇ、そのシャツのキャラクターは三十年前の映画のよ」
そうだ、妻と結婚する前に、友人の彼女と見に行った映画館でお揃いで買い求めたものじゃないか。
そのTシャツ相手に、私はお酒と肴を用意していたなんて。
「お父さん、何をしていたの? あれ、擦れて薄くなっているけど、このTシャツに、何か呪文のような印が付けられているわ」
「印?」
それは印ではなく、ルーンのような文字列だった。
「これは血じゃないの?」
「え?」
「でも、もうひと擦りで消えてしまうわね」
娘はそう言うと、擦ってそれらを消してしまった。
そうか、彼女は消える前に、僕に会いに来てくれたのか。