地下世界のハードボイルド
一
秋の彼岸が過ぎたというのに、日本に接近しつつある台風のもたらす湿った空気の影響で京都は季節外れの蒸し暑さだった。京阪電車を祇園四条駅で降りた私は額と首筋の汗をハンカチでぬぐいながら四条大橋を渡った。薄手のスーツとワイシャツの下に着ているランニングシャツが汗でベッタリと背中に貼りつく。依頼主に初めて会うときはスーツを着てネクタイを締めるというルールを自分に課したことを私は後悔していた。
電話をかけてきた依頼主は女性だった。彼女は西木屋町でバーを経営していて、そこに午後三時に来てほしいと言った。彼女の店は「地獄」という名前で西木屋町通りを四条から少し上がったところにあると言う。西木屋町というのは京都で一番の繁華街である河原町通りと、江戸時代に掘られた細い運河の高瀬川の間にはさまれた狭い通りだ。いかにも街の裏通りという感じで、特に四条と三条に挟まれた界隈は呑み屋が多く集まっている。
「通りにスタンド看板を出しているからすぐわかるわ。店は地下にあるの。階段を降りてちょうだい」依頼主は電話でそう言っていた。
西木屋町通りは頼りなく細い通りで、四条から北に行くと、小学校の敷地にぶち当たっていったん途切れてしまう。「地獄」の看板はその少し手前に立っていた。年代物の三階建てのビルの前に立てた、両面同じ柄のA型スタンド看板には赤い鬼が描かれている。そのイラストには見覚えがあった。昆虫の触角のようにピョンと飛び出した角、真ん丸の目、あばら骨の浮いた胸、座り込んで右手を差し出しているポーズ…どこかひょうきんな鬼の姿は比叡山延暦寺の魔除けの護符に描かれている角大師の像にそっくりだ。バーの看板に使ったりして延暦寺から文句が来ないのだろうか。
両面の赤鬼の下に大きく黒字で「BAR地獄」とあり、その横には斜め下向きの矢印とともに「地獄はココ」と書かれている。矢印の示す先には地下に降りる階段があった。
私は狭く急な階段を降りていった。仕事でなければ「地獄」なんて名前の地下のバーに寄ってみようとは思わないだろう。階段の踏み板は小さく、靴の先が階段からはみ出ている。私は足をすべらせて転げ落ちないように注意しながらゆっくりと降りていった。
階段を半分以上降りたところで下から音楽が聞こえてきた。心地良いピアノの旋律、高音の男性ボーカル…聞き覚えのある曲だ。確かこれは、レオン・ラッセルの「ア・ソング・フォー・ユー」、地獄の釜の音にしてはやさしすぎる曲だ。こんな明るい時間からバーは営業しているのだろうか?
階段を降りきって、私は上の看板と同じ赤鬼の絵がペンキで下手くそに描かれた木製のドアを引いて開けた。
幅が狭く、奥が深い細長い空間。長いバーカウンターの前には十席ほどの丸椅子が余裕を持って等間隔に置かれている。壁には、入り口近くから一番奥までビッシリとレコードジャケットが飾られている。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド…六十年代、七十年代のロックの名盤ばかりだ。それらと相対するようにカウンターの反対側にはスコッチウィスキーやバーボン、ブランデー、ジン、ウォッカ、テキーラなど洋酒の瓶が並んでいる。そして、その奥に置かれたオーディオセットの前に中年女性がタバコをふかしながら座っている。どうやらその女性がこのバーの主で、電話をかけてきた依頼人らしい。客は誰もいない。レオン・ラッセルのレコードは自分が聴くためにかけているのだろう。
「月山です」私は女性に向かってヒョイと頭を下げた。
「探偵さん?」女性は目を閉じて音楽に聴き入っていたようで、私の声を聞いて目を開いた。「早く着いたわね」
女性は小太りの体にハワイみやげのような青地に白い花柄のムームーを着ていた。アフロヘアが崩れてきたような髪型で前髪に紫のメッシュが入っている。年齢は判別し難い。適度に老けてはいるが、普通の主婦のように所帯じみた歳の取り方はしていない。生活感というものが全く感じられない。会ったことはないが、女流作家とか女性実業家というのはこういう感じなのではないかと思った。マダムという敬称がピッタリくる女性だ。
「電話をした加賀美静香です。まあ、座ってくださいな」
私は奥から三番目のイスに腰掛け、マダムに名刺を渡した。
「月山光司さん、素敵なお名前ね。伏見で探偵事務所をやっているのね」
「事務所と言えるほどの代物じゃありません。玉突き屋の二階に間借りしている部屋が自宅兼事務所です」
「あなたも京都の人じゃないのね」
「横須賀の出身です」
「あら、そうなの。私は横浜の上大岡よ。お互い、京急沿線ね」マダムはうれしそうに言った。「何か飲む?」
「仕事中は酒を飲まないことにしているので」
「お酒を出すつもりはないわよ。コーヒーか紅茶、それともオレンジジュースにしましょうか?」
「それなら、アイスコーヒーにしてもらえますか。今日は暑くて汗をかいたので」
「いいわよ」
冷蔵庫からアイスコーヒーの入ったボトルを出してグラスに注いでいるマダムの背中に声をかけた。「あの、どうして私に連絡をくださったのですか。ホームページを見られましたか?」
「ヨガ仲間の大河原さんから推薦してもらったの。すごく優秀な探偵さんだって」
「大河原?」私はしばらく記憶のページを繰った。「ああ、迷子の子猫を探していた桂のおばあさんですね」
「いくら探しても見つからなかったのに、あなたに頼んだら次の日に見つけてくれたって喜んでいたわ。何か秘訣でもあるの?」
「何もありません。勘ですね。子どもの頃から、友達の失くしたものを探し当てたりするのが得意で」
「鋭い霊感の持ち主なのね。頼もしいわ」
「それだけで探偵をやっているようなものです」
「ペット探しが得意なのね」
「ペットだけじゃなく行方不明の人を探すこともありますし、浮気調査なんかもやります」
「探偵業って儲かるの?」マダムは私の前にアイスコーヒーをドンと置いた。
私は首を横に振った。「食うや食わずの生活ですよ。ヒマな時は玉突き屋の手伝いをやってるんで、それで家賃をタダにしてもらってるんで何とかやってます。あと、商店街の店に頼まれてパソコンでチラシを作ったりとか、何でもやらないと食っていけません」
マダムは「ストローが見当たらない」と言ったが、私はいらないと言って、グラスに口をつけてグイッとアイスコーヒーを飲んだ。
「ずいぶんたくさんレコードをお持ちですね」私は後ろの壁に並んだジャケットを見回し、それからカウンターの向こうに並べられた背の低い木製のレコードラックを見て言った。
「ロックを聴くのだけが楽しみで生きてきたからね。でもCDになってからはつまらないわ。ジャケットが小さくなっただけじゃなくて、音楽がスケールダウンしたような気がするわ。あなたもロックはよく聴くの?」
「ええ。小学生の頃から、ビートルズ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルとかよく聴いてましたよ」
「へえ、若いのにそんな古いロックを聴くのね」
「割と童顔なんで若く見られますが、そんなに若くありませんよ。それに歳の離れた兄貴がロック好きでレコードをたくさん買っていたんで、その兄貴の影響ですね」
マダムは後ろのラックからレコードを一枚抜き取って私に見せた。「トム・ニュートはご存知かしら?」
私はレコードジャケットをしげしげと見た。ロンドンの中心部、ピカデリーサーカスに立ち夜空をにらむオレンジ色の髪の美青年。顔には歌舞伎役者のような隈取が施されている。ジャケットには日本のレコード会社がつけた帯が付いたままになっている。帯に曰く『金星からやってきた貴公子 トム・ニュート』。私はそのジャケットに見覚えがあったし、ニュートの名も知っていた。きらびやかな衣裳をまとい、艶やかなビジュアルを重視したグラムロックというムーブメントに乗って登場した美形のロックシンガー。その出自は明らかにされていなかった。金星から来たなどと名乗っていたが、顔立ちはどことなく東洋的であり、中央アジアの出身だとか、英国人と日本人のハーフではないかと噂されていた。ニュートの作る歌は単純なラブソングではなく哲学的で、単に「戦争はやめよう」とか叫ぶのではなく社会の矛盾を嘆き精神的な平和を希求するようなものが多かった。音楽的にも、古典的なロックンロールにジャズやクラシック、レゲエや現代音楽、アジア・アフリカの民俗音楽などを取り入れた先進的なアルバムを立て続けに発表し、映画にも何本か出演したが、その後、アルバムは寡作になり、ライブ活動を停止し、プッツリと名前を聞かなくなった。
「知ってますよ、トム・ニュート。レコードは買ったことがないけど、何曲か好きな曲があって、友達からCDを借りて録音したことがあったな」
「ニュートがデビューした時、私はロンドンにいてね。グラフィックデザインを勉強するという名目で行ったんだけど、毎日遊び歩いてて、しょっちゅうロックのコンサートに出かけてたの。たまたまニュートのライブを観に行ったんだけど、一発で彼に魅了されたわ。まさに一目惚れってやつね」マダムの瞳が少女のように輝いた。「それで、私は彼のあとを追っかけてグルーピーになったのよ」
「トム・ニュートと親密な仲になったということですか?」
「当時、ニュートは自分はバイセクシュアルだなんて公言してたけど、それは世間の注目を集めるための嘘よ。彼は全然女好きでね。毎晩とっかえひっかえで、私もその中の一人だったの。夢のような日々だったわ。ニュートがアメリカに拠点を移してロンドンを出ていった時、私は夢からさめて帰国したの。それから東京でしばらく結婚生活を送ってたんだけど、うまくいかなくて、こっちの方に流れてきて、あれこれやっているうちにこの『地獄』に落ち着いたってわけよ」
レオン・ラッセルのレコードが終わり、マダムは次にニュートのレコードを出してきて針を落とした。初期のアルバムらしい。知らない曲だ。アコースティック・ギターを弾きながら青臭い歌詞を叫んでいる。若い頃の歌なのだろうが、声は特に若いという感じはしない…と言うか、ニュートは年齢のわからない人で、デビュー時の写真と十年後の写真を見比べても、どっちが年上だかわからなかったことを覚えている。私の兄はあまりニュートが好きじゃなかったようで「巧妙に整形してるんじゃないか」などと言っていた。
私は腕時計に目をやった。ここに着いてから早くも三十分経過している。
「では、そろそろ仕事の話に入りましょうか。人探しのご依頼だそうですが」
「もう入っているわ。私の探してほしい人は、ニュートよ」
「は?」
「トム・ニュートを探してほしいの」
テレビの人探し番組ではあるまいし、街のしがない探偵に世界的大スターを探せとは前代未聞の依頼だ。
「あの…、私も行方不明者を探した経験はありますが、認知症の高齢者とか家出少女とかで、世界のどこにいるかわからない有名人を探せとおっしゃっても…」
マダムは足元に置いてあった手提げの紙袋をカウンターの上にドンと置いた。そこには紙の束がぎっしり詰められていた。ネット上の情報をプリントアウトしたものや雑誌や新聞の切り抜きを台紙に貼り付けたものだ。
「かなり前から、ニュートは京都に住んでいるという噂があるわ」
「ああ、私もそういう噂聞いたことがあります。お屋敷が東山の方にあるらしいとか。祇園祭を見物している写真を雑誌で見たこともあります」
マダムは紙袋の中からバラバラと紙を取り出して私に見せた。「こまめにチェックして、ニュートに関する噂を残してあるんだけどね。山科や伏見、修学院など、いろんな所が彼の隠れ家として登場するわ。何の証拠もないけどね」
「どれも当てになりませんね。死亡説まで出ていますが、本当に京都、いや日本にいるのかどうかわからない。はたして私のような者に探せるかどうか」
「彼が生きていて、どこかよそに移ったのなら、その証拠となるものを探してくれればいいわ。亡くなっていた場合も同じ。信用に値する証しが欲しいわね。いずれの場合も百万円払います。前金として、三十万円を明日振り込むわ。そのお金は結果がどうあれ返してもらう必要はない」
私は黙って聞いていた。ずいぶん気前のいい話だ。街のしがない探偵が大スターを探し出せる可能性は極めて低い。どうせ成功しないだろうと、宝くじを買うように思っているのだろうか。
「そして、もし、ニュートが今も京都にいて、私が彼と再会できる機会を与えてくれたら、喜んで一千万円のボーナスを出すわよ。いえ、それじゃ不十分だわね。このバーの権利を譲るわ」
「どうして、そこまで?」
マダムはふぅっとため息をついて天井を見た。
「私には何もないわ。親もなくして、離婚して子供はいない。ひとりぼっちよ。生きがいになるような趣味もない。あるのは過去の思い出だけよ。このままひとり寂しく朽ちていくだけ。振り返ってみると、トム・ニュートこそ私の青春の輝き、人生の光そのもの。できれば死ぬ前にニュートにもう一度会ってみたいの。そうしたら思い残すことは何もない。遠い外国に彼がいるなら、あきらめもするけど、もし本当に同じ街にいるならあきらめきれないわ。協力していただけるかしら」
マダムの熱い思いが真夏の日差しのように私の皮膚にジリジリと伝わってきた。
「わかりました。どれだけお役に立てるかわかりませんが、全力でやってみます」
「うれしいわ。ありがとう」
私はアイスコーヒーを最後の一滴まで飲み干し、空のグラスをカウンターの上に置いた。
「この資料を持っていってくれていいわよ」マダムは紙の束を袋に戻しながら言った。
「いえ、多すぎる情報は混乱させられるだけです。自分でもネットでいろいろ調べられますから」
私は立ち上がった。マダムは私の頭のてっぺんから足元までスーッと視線を走らせた。
「均整の取れた、いい体つきをしているわね。何かスポーツをしているの?」
「十代の頃は中国拳法を習ったりしていましたがね。今は何もやっていません」
私は礼を言って出口に向かった。「それじゃ、何か見つかりましたら、随時報告を入れます」
「お願いね。難しい仕事だとは思うけれど」
「何とか、私の霊感が働いてくれるよう望むだけです。ほかに武器はありませんから」
「霊感が強いあなたなら、幽霊を見たことがあるかしら?」
「はっきりと幽霊の姿を見たことはありませんが、何か目に見えないものがここにいるなと感じたことはあります。子供の頃から何度かそういう経験をしました」
「うらやましいわ。私はそういう経験が全くないの」
「うらやましい、ですか?」
「幽霊がいるということは、自分が死んでも完全なゼロにならないということでしょう。だから、私は幽霊を見たくて仕方ないの。死んで自分が無になってしまうのが一番怖いから」