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時は金なり。
前世で教師が再三言っていた言葉だ。
だからその時間をいかに後悔しないように使うかを選択できるようにする為に、学生は勉強をしなくてはならない、とも言っていたのを思い出す。
その場しのぎの生き方をしていると、いずれは明日の事も考えられなくなる、若いうちは何とかなるが、年を取れば不慮の事故が自分の身に降りかかっても自己責任で処理せねばならず、どうしようも無くなるのだからと言っていた。
その言葉を今アンナカメリアは、嫌という程実感している。
結局死ぬまで、いや、死んでからも学習していなかった、と痛切に思う。先生ごめんなさい。
学園からイグレシアス領までは、馬車で約一日かかる。
余裕を持って、元から日程は二泊三日で組まれてあったが、それはイグレシアス領の手前で宿を取り、葬儀が終わってすぐに引き返すという予定が前提にあった。
全て、ヘンドリックを見捨てられなかったアンナカメリアが悪い。
明日の早朝にイグレシアス家を出て、御者と馬に頑張って貰えば、夜には学園に戻れるかもしれないが、その翌日には卒業式だ。
泊まってしまった時間をリカバリするには、どんな過酷な状況でも、二、三時間寝れば回復する十代の体を信じる他ない。
卒業後は領地に籠もりながら、周辺国の情報をできる限り収集する計画となっている。
まぁ、ヘンドリックと接触しない、という既に崩壊しているザル計画を一度立てている身なので、これも計画通りに進まないと思った方が良いだろう。
ナーシャ達が、ボーランからノルゼンまで行くにはアルプス級の山脈を踏破する陸路と、海賊が蔓延る海域を抜ける海路がある。
ノルゼンまで二ヶ月かかる陸路を取るか、リスクは高いが三週間で行ける海路を取るか、となれば、彼らが海路を取るのも無理はない。
そして彼らは、アンナカメリアの前世が好きだったキャラ、エディ率いるハイグラム皇国の公認私掠船団に船を襲撃される。
エディは海賊諸島と呼ばれる島々のいくつかの根城を転々としながら、ハイグラム皇国への帰路を辿るが、その最中に王子奪還の密命を受けた、ランドル海軍に追い詰められていく。
最終的にベルナールが海軍の船に顔を出し、王家宛ての手紙を准将に託してその場を引いてもらうのだが、エディはハイグラムに着くとベルナールとナーシャを奴隷商人に売ってしまう。
そこで異教徒の国であるサジェの商人の息子アルダ・シレールに二人が買われるまでが二部の内容だ。
ざっくりだが、これが上中下、三巻分のあらすじとなっている。
それまでにアンナカメリアが防げるフラグはあるのか、落ち着いて考えていきたい。
ヘンドリックもどこでナーシャ達へ手出しするのか。
原作ではアンナカメリアがナーシャ達の行動を予測し、ヘンドリック側が伝手を使ってエディと接触。ボーランからノルゼン行きの船を襲撃させる、という手筈だったが、今のアンナカメリアはヘンドリックに協力するつもりはない。
あえて、別の情報を与えようか。エディとの接触を断てば、海賊達がナーシャ達の乗る船を襲う可能性も低くなる。
そして、父に相談してなんとかランドル・ボーラン共同の海軍演習を海賊諸島で行って貰い、エディを先に捉えるとか……とまで考えて、流石に無理だろうと思い直した。
所詮は小娘の案だ。
国軍を動かす為にはそれなりの理由と、資金と、人脈が必要となる。
何も持っていないアンナカメリアが、出来ることといえば、ベルナールとの婚約破棄ぐらいか。
婚約破棄をされた娘にまともな嫁ぎ先がある筈がない。父は己の部下の下級貴族の将校か、上級貴族といえども年が随分と上の貴族と婚約させるだろう。
けれど、少なくとも王家に縛られている今よりは、自由になれる。
そしてもしかしたら、エディのライバルである准将と婚約できるかもしれないと気が付いた。
名前は忘れたが、本能で船を操り戦うエディとは対称的に、理論に基づいて船を配置し海を支配する彼のキャラクター性も結構際立っていた。
原作キャラとお近付きになれるチャンスの可能性にテンションも上がる。
いや、原作キャラといえば、アンナカメリアもヘンドリックも、原作のキャラクターなのだが、本来なら会う可能性がなかった者との未来があると思うと、ミーハーな心が浮つくのも仕方がないだろう。
ともすれば、彼の中にあるエディ像というものがその口から聞けるかも知れないのだ。一応原作で心情を吐露していたはずだが、そこは全く覚えていない。
覚えていないものは即ち、新たな供給と同じ。
新鮮な気持ちで触れられる物語の側面を、当事者の口から聞けるとなると、それは考えるだけでも興奮してしまうではないか。
初見当時はまだ腐っていなかったので、この男同士の燃えたぎる感情に、感化される思いを何といえばいいのか分からなかったが、腐った過去を思い出した今なら、はっきりと『エモい』と言える。
嗚呼、准将にお会いしたい。出来れば婚約に持っていきたい。
そんな浮ついたアンナカメリアに侍女の声が水を差してきた。
「お嬢様、ヘンドリック様から、言伝を預かっております」
エストレイア家から連れてきた侍女のマリアが紙片を差し出してくる。
『お時間を頂けるのなら、サンルームにお越しくださいませんか』
その滑らかな筆跡を見て、一気に気持ちが萎んだ。
招待されたのなら、出向くのが客としての礼儀だ。早朝に発つとはいえ、まだ寝るには早い。少しぐらい話をしても良いだろう。
まだ化粧は落としていない。今の服装は、踝まであるワンピースに袖のゆったりしたダークレッドのガウンを羽織り、腰はゆるく帯で締められている。髪もうなじの所でひとまとめにしており、人に見られても恥ずかしくない最低限の様相は保たれている。
「サンルームへ行きます。案内はここの使用人にしてもらうわ。あなたはもうお休みなさい」
「かしこまりました」
頭を下げて見送るメアリを背に、サンルームへ行くと、ヘンドリックは揺り椅子に座り、カンテラの明かりに照らされながらハーブティーを飲んでいた。
ゆったりとしたコットンシャツはルームウェアだろうか、首元を緩めて、まだ細い首元が覗いている。膝には麻のブランケットを被り、実にリラックスしている様子だ。
田舎のお爺ちゃんのようなその姿勢に、この少年がいくつだったのか分からなくなる。ギャップが激しいどころではない。
アンナカメリアが到着したのを確認すると、テーブルを挟んだ反対側の揺り椅子に座るように指示される。
大人しく座ると、この椅子が思ったより座り心地が良いことに驚いた。使用人が薄いブランケットを持ってきたので有り難く使わせてもらう。
「何か飲まれますか?」
「貴方と同じもので結構です」
この香りはリンデンとカモミールのブレンドだろう。安眠効果のあるお茶を飲みながら、夜の庭をガラス越しに楽しむのは実に風流だ。
言葉もなく、ただガラス越しの景色を楽しむ。
まるで老後の夫婦の様な時間の過ごし方だが、このまったりした空気は悪くないと思えた。
隣にいるのがヘンドリックだと分かっているのに、彼のリラックスしている様子に引きずられる様に、アンナカメリアも頭を空っぽにして夜の景色を楽しんでいた。
しかし、ただ夜の庭を一緒に見る為だけにアンナカメリアをここに呼び出したのではないだろう。
「明日は何時に出立なされるのですか」
不意にヘンドリックが尋ねてきた。
「夜開け過ぎに出ます。夜には学園に着くと思いますので」
「学園に、ですか」
「ええ、明後日が卒業式ですから」
ヘンドリックの眉が下がった。迷惑をかける気ではなかったのが、その表情から伺いしれる。
「それは……引き止めて申し訳ありませんでした」
「いえ、泊まると決めたのは私ですもの」
そこからまた沈黙。
ハーブティーも飲みきってしまった。
座り心地のいい椅子に腰掛けている筈なのに、尻の座りが悪い気持ちになってくる。
何か会話を、と考えていると、先程と同じ様に唐突にヘンドリックが口を開いた。
「貴方をここに呼んだのは、御礼をしたかったからなのです」
「御礼?」
思い当たる節がなく、問い返すと「手鏡の」と簡素な答えが返ってくる。
「ああ……よいと申しましたのに」
「そういう訳にはいきませんから」
そう言って、テーブルの上に置かれたのは、椿を模したデザインの飾り櫛だった。見事な細工に思わず感嘆の声が出る。
手鏡の代償としては過分なものだ。けれど、自分の名前にもなっている椿のアクセサリーを断れる筈もない。
「ありがとうございます」
顔を綻ばせて感謝の言葉を述べると、例の目を細めて口の両端を上げる、張り付いた笑みを返された。
もしかして、このプレゼントを引き合いに、情報をねだられるのか。
アンナカメリアから引き出せる情報と言えば、ナーシャ達の消息しかない。ヘンドリックはナーシャの命を狙っているのだから、どんな情報でも欲しい筈だ。
にんまりと笑ったままの口が開いた。
「卒業後はどうされるのですか」
予測していたものとは別の質問に、アンナカメリアは拍子抜けして、思わず当初の計画を漏らしてしまう。
「領地に籠もり、殿下のご帰還を待とうと考えております……」
あ、と思った時にはもう遅い。
張り付いた笑顔の仮面は剥がれ、カンテラに照らされたダークブルーの瞳がアンナカメリアの意図を探る様に見つめてくる。
「殿下のことは、もういいとおっしゃったのに? 貴女の言動は矛盾していますね」
「しかし現状を考えると、それしかありませんわ」
今、アンナカメリアに言えるのはそれだけだ。
婚約破棄をした後、父の部下と婚約するのを狙っているとは、何故か言えない。
言ったら最後、余計に話がこじれそうな気がしていたのだが。
ヘンドリックは、おもむろに揺り椅子から立ち上がり、アンナカメリアの前に跪いた。
何をするつもりなのだろう、と警戒している彼女に、それ以上に拗れそうな話を持ち出してきたのだ。
「エストレイア嬢、もし宜しければ、僕と婚約していただけませんか?」
「……何故?」
心の底から出た、何故、だった。
いやもう本当に、何故、という言葉しか出てこない。
意味が分からない。
ヘンドリックがアンナカメリアと婚約して得るメリットなんて、アンナカメリアの行動を監視して、ナーシャ達の行方を探すぐらいではないか?
原作でもタッグを組んでいた悪役二人であるが、ナーシャの殺害を目標として手を組んでいた者達のはずだ。最終的にヘンドリックはアンナカメリアがベルナールの手によって討たれる前にアンナカメリアを見捨てていたが。
混乱するアンナカメリアにヘンドリックは更に爆弾を落としてくる。
「貴女の事が好きになりました」
その瞬間、アンナカメリアの脳内では派手な爆発音が響き、心象風景は焼け野原と化した。
前世では軽率に『村が焼けた』『公式から爆撃を食らった』などと呟いてはTLの阿鼻叫喚を、にやにやしながら眺めていたものだが、単独爆撃は誰も共に叫んでくれない。
発狂するアンナカメリアの姿を愉悦の籠もった笑みで見ながら、声をかけてくれる仲間もいないのだ。
内心の叫びもおくびに出さず、目を見開くに留める。
本当に……何時、何処で、フラグは立った?
まだ会って二回目だ。好きになる要素なんてこれっぽっちも無いではないか。
「冗談も程々になさって。大体貴方、私といくつ年が離れていると思いますの」
「五歳差なんて、たいしたことではないでしょう?」
振り切る台詞を遮る様に、ヘンドリックは尋ねてくる。そこで初めてアンナカメリアはヘンドリックが五歳下ということを知った。
今、彼は十三歳だったのか。
予測とさほど変わらない年齢に、やはりという思いと、衝撃を受ける。
原作では年がそう離れていなかったように思えたのに、五歳下の少年に言いように操作され悪事を重ねたアンナカメリアの事を思うと頭を抱えたくなる。
未だに前世の記憶の価値観に縛られているというか、前世の年の半分以下の子供の手玉に取られている、という事実に更に衝撃を受ける自分がいる。
前世の十三歳なんて、まだ中学に入りたての子供で、友達と一緒にゲームをして遊んでいる。
そんな子供が兄の葬儀の準備から本番から全て滞りなく終わらせたという事実も信じがたいが、それら全てが終わり、人恋しくなったのか。
そう考えればアンナカメリアを留めようと思ったのは理解出来なくもない。
しかし、ここで誘いに乗ってしまえば事案ではないか。
「僕は本気ですよ」
身を乗り出して、告げるその声。
熱の籠もった真剣な視線に、不覚にも狼狽えてしまった。
何も言い返せないアンナカメリアに再度「本気です」とヘンドリックはたたみかけてくる。
やめて欲しい。そんな事を言うのは卑怯だ。そうやって、告白されたのも初めての経験なので、顔に血が上るのが抑えられない。
本気と言いながら、きっとヘンドリックは何かを企んでいる。アンナカメリアの感情を振り回して、混乱を誘っているのだ。
それが分かっているのに、心臓が変にうるさくて、顔は熱いままだ。
喉も渇ききっていて、先程飲みきったハーブティーの一杯がとてつもなく恋しかった。
「私はベルナール殿下の婚約者です。婚約破棄をされない限り、私はその身分から降りる気はありません」
顔を逸らして、言い逃れる。
「一度ご実家から打診されては? 行方不明の王子に何時までも縛られるおつもりですか?」
すぐにそれが否定される。
「我が家から打診してしまえば慰謝料が貰えないではないですか」
苦し紛れに言った一言が、攻勢を遮った。
「慰謝料……」
顔は見ていないから分からないが、呆気に取られているのだろう。撤退するなら今がチャンスだ。
椅子から立ち上がり、ヘンドリックを見下ろす。
「それに私、今の身分に不満はありませんのよ。腐っても王子の婚約者。突然予定を言い渡される時も有りますが、私に手を出そうとする不埒者もおりませんし、言い寄る者もおりません。意外と身軽なのです」
アンナカメリアの言い分を聞き終えたヘンドリックは、呆然としていた。それでも、咄嗟に「それでは、王家から婚約破棄をされた暁には僕の申し出を受けていただけますか」と尋ねてくる。
「王家から婚約破棄された後であればご自由に。申し出を受けるか受けまいかは家が判断致しますので、私に否やは言えませんわ」
王家からのアクションが、もし有ればの話だ。
内密にアンナカメリアの方からも、そうなる様に手回しはするが、それを今ここで口にするつもりはない。
そして上手く婚約破棄が出来たとしても、父の事だ。未だ学園に入学すらしていない子供の申し出と、適齢期に入った娘が周囲からどう見られるかを天秤にかけると、さっさと娘を片付ける方を優先するに決まっている。
そう思い込む事を、人は慢心するというのだが、アンナカメリアはその時己が慢心していることに気が付かなかった。
ついでに、ヘンドリックの瞳の中にどんな色の炎が灯されていたのかも、見ていなかった。
「わかりました。明日の出立の為に、どうぞお早めにお休み下さい」
「ええ、おやすみなさい」
挨拶と共に、サンルームを後にする。
「おやすみなさい、良い夢を」
密やかに呟かれたその声は、アンナカメリアの耳に入る事はなかった。
次の更新は明後日です。




