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顔が蒼白を通り越して土気色になっているのではないだろうか。
馬車に酔っているのではないが、気分が悪い。
人を人と思わぬ男とその息子、娘を信じきれていないと思われる父と、同じ空間にいるのがアンナカメリアには耐えられなかった。
あの場にいたダリエルも同席しようかと申し出てくれたが、昨日は新聞社に泊まった女性をそのまま城へ連れて行く無礼は出来ないとイグレシアス伯が一刀両断し、結局女性はアンナカメリア一人だけ。
辛い。空気が重い。
「アンナカメリア嬢、緊張しているのかい? 無理もない今から我々が赴くのは国の重鎮達が待ち受ける御前会議だ。そこで君はハイグラムのスパイではない事を証明しなければならないのだから」
突然、イグレシアス伯の呑気な声だが、内容は全く呑気でない台詞が響く。
城に召喚されたと言うことが、どういう事かは分かっていた筈だが、第三者から言葉にされると余計に気分が重たくなった。
しかも、イグレシアス伯はそんなアンナカメリアの反応を楽しんでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「落ち着きなさい。どちらにせよ、殿下との婚約解消の為に会議は必要だ。お前はスパイの疑いが有ろうと無かろうと、召喚命令が下されていた筈だ」
娘を慰めるような父の声が聞こえた。イグレシアス伯の言葉で情緒が不安定になっていたが、父の言葉で落ち着きを取り戻す。先程よりは若干声の温度が柔らかくなっていることに気が付いた。
「お父様は私がやましいことは何もしていないと信じてくださいますか」
「信じるか、信じないかと問われれば『信じたいと思っている』と答えるのが妥当だろう。今のお前の証言には一貫性がない。けれどお前は俺の娘だ。親というものは、どれだけ子供が愚かな事をしようが見捨てられないものだということを覚えておいてくれ」
その台詞は、イグレシアス親子を前にして発言すべきものではないだろうとは想像できる。しかし、父にそう言われて安堵している自分がいた。
「イグレシアス伯の提案には乗らせてもらう。後はお前次第だということを肝に命じるように」
「ありがとうございます、お父様」
ちらりとイグレシアス父子の方に視線を向ければ、彼らはエストレイア親子の芝居を見ているかのような目でこちらを見ていた。
羨望や憧憬といった感情は一切その瞳に籠っておらず、それ程にイグレシアス父子の確執は根深いものなのだ、と申し訳ない気持ちになってくる。
血の繋がった他人、という認識なのだろうか。その生活が当たり前となっているから、普通の親子関係がどういうものなのか、と実感できないのかもしれない。
「アンナカメリア嬢、君が心配せずとも、私に任せておけばよろしい。君の有利になるように、議会を動かして見せるとも。君の悪い噂を広めた者にはそれ相応の報いを受けてもらわねば」
イグレシアス伯は人好きのする穏やかな笑顔を保ちながら、相変わらず物騒なことを口にする。
その笑顔が作り固められたものだと知らなければ、頼もしい相手としてイグレシアス伯に全面の信頼を寄せていただろう。顔を引きつらせるアンナカメリアに対して、蕩けそうな笑顔を浮かべるイグレシアス伯。
「イグレシアス伯、貴殿が娘に手を出そうものなら……覚悟は出来ているのでしょうな」
「流石に親子ほど年の離れたお嬢さんに手を出そうとは思いません。これは長年でついた癖だとお思い下さい」
「笑顔が得意なのは、ヘンドリック様もですね」
アンナカメリアがヘンドリックに水を向けると、ヘンドリックはいつもの張り付いた笑みを浮かべた。
笑顔の質は違えども、同じ反応をする点は、二人が血の繋がっている親子なのだと嫌でも実感させてくれる。
ただでさえ似ている親子だというのに、最低限の交流しかなくとも、仕草は遺伝するのだろう。
「アン、不安になることはない。イグレシアス伯は信用に値する人物であるのは確かだ」
父はイグレシアス伯の仕事に絶対的な信頼を寄せているようだ。父が寄せる信頼の幅とアンナカメリアの抱く不信感と、大きな差を感じて項垂れた。
ダリエルと二人で聞いたあの人でなしの台詞から、信用ならないと考えてしまうのも無理はないだろう。
女性をただの道具と割り切った行動。
血を分けた息子を息子と思わない思想。
ヘンドリックも得体のしれない子供だと恐れていたが、それ以上の思考の持ち主であるイグレシアス伯に比べれば可愛いものだと言い切れる。
少なくとも、アンナカメリアの常識の範囲から、逸脱……していない、はずだ。多分。
「アンナカメリア嬢」
ヘンドリックに名前を呼ばれ、顔を上げればヘンドリックは苦笑していた。
貼り付けた笑顔以外の笑い方もできたのだ、と驚くアンナカメリアに「貴女が父を信用できないのは理解できます」と同意の言葉が耳に届く。
「しかし父は、貴女を決して悪いようには致しません。父は恩を感じた方には手厚いのです。仕事の腕も間違いない、そこは信頼なさって大丈夫ですよ」
父親が恩を感じているということを知っているということは、ヘンドリックはナーシャが異母姉であることを知っている、ということだ。
それでも、父親の仕事の腕は認めている。
その言葉の重みを噛みしめる。
「……分かりました。私も覚悟を決めましょう。イグレシアス伯、宜しくお願いします」
イグレシアス伯に向けて頭を下げるアンナカメリアと、自らの息子の顔を交互に見比べた後、イグレシアス伯は晴れやかな笑顔を浮かべながら「ああ、期待に恥じない働きをしよう」と力強く宣言した。
そうこうしている間に、馬車は城へと到着する。
御前会議と称した、アンナカメリアの弾劾裁判の会場へと一行は向かって行った。
御前会議はその名の通り、国王陛下の前で行われる会議である。
上級貴族のみ参加を許されており、右派、左派に席を分けて議論を交わし、国王が最終的な決断を下す。
貴族たちは左右の用意された椅子にそれぞれ支持する側に座る。どれだけ多数の議席を取っていたとしても、相手の論が秀でていれば覆ることがある。
審査員が国王の弁論大会、と考えればいいだろう。
しかし今回は、アンナカメリアを容疑者とした弾劾裁判の体をしているのだ。
国王を正面から見上げる位置に用意された被告台に立たされる。左右の席にはそれぞれの貴族たちが座っている。
「これのどこが会議と呼べるのだ。まるで娘を罪人に仕立てる裁判ではないか!」
父の怒りも尤もだ。アンナカメリアの背後には近衛兵が立っており、少しでも不審な動きをすれば取り押さえられるようになっている。
「エストレイア侯爵、ご令嬢にはとある容疑がかけられていることはご存知の事でしょう」
大砲の音もかくやというほどの父の怒声にも平然と構えるのはアンナカメリアから見て左の席に座る貴族達だ。
顔を見れば文官の貴族であることがうかがい知れる。逆に右側の席は武官貴族、または文官といえども鉄鋼業や交易を担当する『父と親しい間柄』の貴族である。
文官と武官の水面下で派閥争いがあるのは肌で感じていたが、アンナカメリアの件でそれが表面化したかのように、見事に左右に分かれていた。
「オーガス侯爵、彼女は昨夜エストレイア領から、王都に到着したばかりなのです。疲労が溜まっており、ここに向かうまでも体調が思わしくない様子でした。せめて椅子を用意することは出来ませんでしょうか」
イグレシアス伯の訴えにより、アンナカメリアにも椅子が用意されたが、晒し者であることは変わりない。
「アンナカメリア嬢、兎に角話を私に合わせて下さい」
アンナカメリアに椅子に座らせる際、イグレシアス伯はそう耳打ちして、右側の最前列に父と並んで座った。
そういえば、ここに来てからヘンドリックの姿が消えたようだが、彼はどうしているのだろう。
「イグレシアス伯、ヘンドリック様はどちらにいらっしゃるのでしょう?」
「姿が見えないと不安ですか? 大丈夫ですよ。愚息も必要に応じれば、参りますので」
ここに来てからの仕事とは、不安が募るが、イグレシアス伯の仕事の腕を信頼すると決めたばかりだ。
ここは彼に任せても問題ないのだろう。
アンナカメリアとイグレシアス伯の声を聞きつけ「ここは子供の遊び場ではない。子供が入場できるはずがないだろう」とお叱りの言葉が飛んだ。
「愚息は私の助手として、呼んであります。宰相閣下にも許可は得ていますので」
誰が飛ばしたのか分からないヤジをさらりとイグレシアス伯は躱す。
まだ会議の開始時間までには余裕があるというのに、文官の方々は下手をすると武官よりも血気盛んであるかもしれない。
「ヒステリーかよ」
ぼそりと呟かれた背後からの声。
近衛兵も味方であることがうかがい知れ、くすりと笑い声が漏れた。
「何を笑っている、小娘が」
気に食わなかったのか、怒りの声が飛ぶ。しかし、それに怯える前に父の声が飛んだ。
「俺の娘を侮辱してただで済むなと思うなよ」
父の声をこれ程心強く感じたことが今まであっただろうか。
今、アンナカメリアは殿下の婚約者という肩書だけではなく、エストレイア大将の娘という看板を背負っている。
何もやましいことなどしてはいないのだ。
下らない誹謗中傷に負けていられない、とばかりに改めて背筋を張り、正面を向いた。
開会の鐘が響きわたり、会議室で起きていたざわめきがなりを潜めた。
全員が立ち上がり叩頭する中、国王が入室し、玉座に座る。
「全員、面を上げよ。これより、御前会議を行う」
宰相が国王の代わりに会議の開始を告げた。
「本日の議題は第三王子ベルナール殿下の婚約解消の是非を問う。忌憚なき意見を王は求めていらっしゃる」
宰相がそう言うが早いか、アンナカメリアは発言の許可を求める。許可が認められると、左右の席に並ぶ面々の顔を一人一人確認しながら「お集まりの皆様。まず、最初に言いたい事がございます」と前置きし、すうと大きな息を吸ってから肺の中にある空気全てを使って主張した。
「私は、清廉潔白でございますわ。ハイグラムと内通しているという噂が有りますが、誰が言い始めたのでしょう。これは後程、名誉毀損で訴えさせていただきますので、宜しくお願い致しますわ」