16
大部屋から二階に上がり、個室に通される。
部屋の半分を占めるテーブルと、椅子が数個。
オフィスの会議室のような簡素な部屋に、広がっているのは長兄が見せてくれたものよりも大きい地図だ。ランドルとボーランの海域で数カ所、赤のバツ印が記されている。
そこに更に赤ペンで資料を見ながらバツ印を付ける作業に没頭している明るい茶髪の女性がいた。
平民の男性服を着た女性はイグレシアス伯が入室すると、顔を上げて、彼に挨拶をする前に、アンナカメリアの顔を見て眉をしかめる。
「閣下、そのお嬢さんは……」
「噂のエストレイア嬢だ」
「ああ、例の」
例の、とは。
通された部屋が尋問室でなかったことに安堵するが、ここでどんな話をされていたのか。非常に気になるところだが、余り聞きたくない気もする。
「我々が追うことが出来なかった殿下の足取りを掴み、一度ランドルの地を踏ませた実績を持つお嬢さんだ」
そうイグレシアス伯は言うが、絶対にそんな事思われていないはずだ。
「そのお嬢さんが、何故此方に?」
眉間に寄せられた皺はそのままに、ほつれた髪をかき上げながら彼女は尋ねた。不機嫌な彼女の様子を気にすることなく、イグレシアス伯は「ダリエル、海賊の本拠地の目星はついたかい?」と尋ねる。
ダリエルと呼ばれた女性は、質問に質問で返されたのが不愉快なのか、質問の意図が掴めないのか、余計に眉間の皺を深くしながら答えた。
「襲撃地点から、ハイグラム東の近海ではないかと思われます」
まるで上司と部下の会話とは思えない程の刺々しい空気が部屋を包んでいた。
にこやかなのはイグレシアス伯だけで、ダリエルと呼ばれた女性は不機嫌極まりない。
寝不足と疲労がたたっているのが、状況が把握できていないアンナカメリアにも伺えた。
この女性はきっと、この部屋に籠って今まで海賊の出現地点から、本拠地を探り出せといった無茶ぶりをイグレシアス伯から命令されていたのだろう。
不機嫌な様子のダリエルを放置して、イグレシアス伯は「さて、アンナカメリア嬢」とアンナカメリアに話しかけてくる。
「君がサジェの商人から見せてもらったという地図にはどの辺に島があった?」
イグレシアス伯に地図の前まで誘導され、逃げ道を断たれる。テーブルの向かいに立つ、ダリエルの視線が怖い。
「えっと……こ、この辺りです」
ハイグラムの南東の辺を指さす。アンナカメリアが示したというのに、さも自分の手柄のようにイグレシアス伯はダリエルに告げた。
「ダリエル、おそらくここが海賊の本拠地だろう」
「は!?」
ダリエルが大きな声を上げるのも無理はない。しかし、いきなり怒鳴られる事に慣れていないアンナカメリアの肩はびくついてしまう。
「こら、ダリエル。ご令嬢相手に大声を出すとは。エストレイア嬢が怯えているじゃないか」
イグレシアス伯の手が自然とアンナカメリアの肩に回っていた。
宥めるように肩をさするその手つきは、純粋にアンナカメリアを慰める意思しか感じられず、不快に思わなかった。
イグレシアス伯はそういう行為がスマートにできる、というのを実感できる一瞬だった。
この人はその手練手管でどれだけの女性を落としてきたのだろうかと思ってしまう。
「閣下、それはどういう事ですか。地図にない島? 確かにそこに本拠地があるとするなら、理屈は通りますが」
「ダリエル、君が『理屈は通る』と言うなら、これは確定と考えていいだろうな。問題は、アンナカメリア嬢がどうしてこの島の存在を知ったのか、その理由をでっちあげなければならない、という事だ」
「え?」
先程アンナカメリアが考えた言い訳を論破し続けたイグレシアス伯がそれを言うのか。
驚きの顔を上げたアンナカメリアに、イグレシアス伯はウインクを投げつけた。父と同年代のオジサマだと言うのに、やけにウインクが似合う顔だ。
イグレシアス伯は思ったよりも愉快な人だという事実について行けない。ついでに言うと、議題の方向転換にもついていけない。
「閣下、待って下さい。そのお嬢さんがサジェの商人から仕入れた情報ということで説明は十分なのでは?」
ダリエルも同じ事を思ってくれたようだ。
「それが許せない立場なんだよ。このお嬢さんは」
イグレシアス伯はアンナカメリアの置かれている状況を大まかにダリエルに説明する。一通りの話を聞いたダリエルは顎に手を当てふむ、とひと息ついた。
気付けば眉間の皺も無くなっている。険しい顔をしなければ、切れ長の目元が涼やかな、美しい女性であるという事に気が付いた。
その美人さんから、思わぬ提案が齎される。
「ハイグラムの関係を疑われずにという事であれば、もういっそ殿下に全てを押し付ければ良いのでは? 殿下は襲撃されてから、海賊の島にも行ったということにして、それを全てお嬢さんに話した、と言うことにしましょう。お嬢さんは、殿下がハイグラムで奴隷になっているという話をサジェの商人から聞いて、身代を買い戻し、殿下に帰城されるように説得。しかし殿下はそれを聞き入れず、婚約破棄する様に城に手紙を送った……というような筋書きは如何です」
「え……許されるのですか、それは」
戸惑うアンナカメリアに、小首を傾げてダリエルは問う。
「許されるも何も。お嬢さんの言い分に反論する者は国内には居ないのでしょう?」
「そこで強固に反論する者がいるのなら、よっぽどアンナカメリア嬢を消したい者なのだろうね」
イグレシアス伯も笑ってダリエルの発言を後押しした。それでもまだ晴れない顔つきのアンナカメリアに笑いかけてくる。
「大丈夫だ。私に任せなさい。私は娘の恩人を無碍にする様な男ではないからね」
今、サラッとアンナカメリアが知ってはいけない事実を聞かされてしまったような。
「娘……?」
「おや、君は気が付いていると思っていたが、違ったか。ナーシャ・フォスターは私と愛する妻との唯一だ」
そう言われて、思い出した。
ナーシャの母とジャンカルロ、ヘンドリック兄弟の母は双子の姉妹だったのだ。現ノルゼン王が王子時代に継承争いが起こり、イグレシアス伯に支援を求め、その見返りとして妹の方の現イグレシアス夫人を娶ったが、その後、妊娠中の妹の見舞いに来た姉に、本気の恋をして、思いあまった末に姉を身籠もらせる。
そして生まれた妹の子供がジャンカルロ、姉の子供がナーシャと名付けられた。
同じ父親で母親も同じ顔であれば、その子供が同じ容姿になるのも当然と言えるだろう。
アンナカメリアの顔を見て、イグレシアス伯は笑みを深める。
「ほら、君は驚かないだろう」
「いえ、突然のことで頭が混乱しています」
「君は嘘をつくのが下手だね。アンナカメリア嬢」
にんまりと笑うその顔はヘンドリックにそっくりで、やはり親子なのだな、と実感した。
しかし、更なる疑問が浮かび上がる。
妻はイグレシアス夫人ではないのか。いくら恋をした女性でも、公には認められない存在を堂々と妻と呼ぶのはどうなのだろう。
「何故、ナーシャさんのお母様が、妻なのですか」
「女主人としての仕事もせずに、いつ死ぬか分からない息子の看病に明け暮れて、無為に過ごしていた女を、私が妻と呼べると本気でお思いかい?」
その台詞の冷たさに、言葉が出なかった。
「あれは、子を産む為に必要だっただけなのだがね。息子の身代わりにナーシャをすげ替えるなんて狂った事をよく考えたものだ」
その狂った女を放置して、この人は何をしていた、というのか。
その母親の元に残されたヘンドリックの事はどう思っていたのか。
人好きのする笑顔の筈なのに、それを見るだけでぞっとする。得体の知れない恐怖がアンナカメリアを襲った。
「ナーシャが唯一と仰るのなら、ヘンドリックは……?」
「イグレシアスの家を継ぐのはノルゼンの血を引いた者という契約を交わしたからね。そのために必要だっただけだ」
それが何か? と何て事無いように言われ、アンナカメリアは自分が考えている以上の衝撃を受けた。
ヘンドリックが両親から愛されていないと言うことは知っていた。まだ子供だと言うのに、大人と同じ仕事をしていた事も知っていた。
兄からも愛されているとは言い難いという思い出を語っていたヘンドリックの事を思うと胸が苦しくなってくる。
「衣住食は保証されているし、教育も十分にさせている。それ以上何が不足だと言うのかな。私は──」
ダンッ!!
ダリエルがイグレシアス伯の台詞を遮る様に机を叩いた。
「閣下、今すぐその口を閉じて下さい」
地を這うようなダリエルの声には怒りが滲み出ていた。
「閣下が人でなしだという事は十二分に知っておりましたが、ここまで屑だとは思っていませんでしたよ。ほら、お嬢さんが泣きそうになっていらっしゃる」
「ダリエル、それは君が大きな音を立てたからじゃないか」
ダリエルの怒りをもろともせず、肩を竦めるイグレシアス伯。そこでようやくアンナカメリアの肩に添えられていた手が離れる。
「お嬢さん、大丈夫ですか。こちらにいらっしゃい。そんな人の心が解らない屑の側にいたら、貴女が汚れてしまう」
手招きするダリエルの側に行こうとした。
何を考えているのか分からない男の人の側にいるよりは、人の優しさを持つ女の人の側にいたい。
そう思っていたアンナカメリアの考えを、塗りつぶす一言がイグレシアス伯から放たれる。
「残念だけど、私達はこれから城に行かなければならないのを覚えていらっしゃいますか? アンナカメリア嬢」
イグレシアス伯の顔は、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。