12
ベルナールがアンナカメリアに疑惑を持つ理由は、昨今の国際情勢にある。
ここ一、二年、ハイグラムの私掠船の動きが活発化しているのだ。
しかも、標的はランドル・ボーランの商船のみに特化しており、ベルナール達も海路を渡る時に護衛船を複数付けていたにも関わらず襲撃された。
隣国にノルゼンや、ユゼナといった国があるボーランはともかく、大陸の西の端にあるランドルは貿易が経済的な打撃を受けている。
何度か外交を通じて抗議をしているが、ハイグラムは『民間の摩擦は民間で解決するべき』と、意に介さない姿勢を示しているのだ。
既に軍の一部では、開戦を望む過激派が声を上げていると言う。
その筆頭がアンナカメリアの父であるエストレイア将軍と噂されているのだ。
ハイグラム皇国で第三王子であるベルナールを殺害させ、それを理由に戦を仕掛ける。有り得ないとは言い切れない。
海軍の質はランドルの方が高い。勝負を仕掛けても、今なら勝てる算段はついている。
王位継承権を持つといっても、兄の王太子には既に王子が生まれており、ベルナールの命は国の経済と比べればとても安い。
そして、アンナカメリアもその作戦に参加する理由は十分にあるのだ。
あの夜、ナーシャに口付けをした瞬間に生まれた理由。
彼女は、ベルナールを許しはしないだろう。
アンナカメリアは温室に居るらしい。
使用人の案内で向かうと、晩秋の夜だというのに温室の中はまだ夏の温かさを備えていた。
テーブルの側に花が咲いている鉢を置き、片肘をついてじっとそれを見つめている。
温室を甘い匂いで充満させるほどの香りが強い、白い花は、今までベルナールが見たことがない花だ。
深緑のガウンを羽織り、長い黒髪を三つ編みにしている姿も、ぼんやりと虚ろな目で花を見ている翠の瞳も、姿勢を崩し気だるげにしているアンナカメリアも、ベルナールは初めて目にした姿で、どう声をかけていいのか分からなかった。使用人が居てくれたことに感謝するほか無い。
城や学園で見ていた姿はいつも張り詰めた弓の弦のようだと思っていた。それが緩むのは、茶会で本の感想を語り合う時ぐらいだった。
柔らかく微笑み、蕩けさせた翠の目よりも、生気溢れた蒼い瞳を選んだのはベルナール自身だ。その選択に後悔はない。
使用人に声を掛けられ、ようやく顔を上げてベルナールの姿を視認する。その瞳の中に、何の感情も浮かんでいない事に、内心落胆しようとも。
使用人が温室の扉の前まで離れた所でベルナールは口を開いた。
「ずっとここにいたのか?」
「ええ、この花は夜にしか咲かないという花ですの。何回かに分けて開花するのですけど、全て見逃しておりまして、今夜咲くのが最後の蕾だったのです。折角温室で育てているのに花を見ないなんて勿体ないですから」
かすかに笑ってここにいた事情を説明するので、ベルナールは「そうか」としか答えられなかった。
「それで殿下、お話とは?」
「あぁ……」
話を振られ、ベルナールは歯切れの悪い返事をする。
ナーシャが怒りを込めながら、一人で聞きに行けと言った、ベルナールの抱える疑惑。
アンナカメリアを前にして、どう伝えればいいのか戸ったが、意を決して口にする。
「お前は、何故俺達に協力する?」
「殿下は、どんな答えが聞きたいのですか?」
即座に返ってきた問いかけ。その瞳の奥には、どんな言葉も届かないという諦めと悲しみの色が宿っていた。
「『私はただ殿下のお役に立ちたかったのです』? それとも『素直に私を信じてくれれば良いものを』ですか? 私としては、殿下に疑われているのが心外だと申し上げますわ」
貴方が私を全く信用されていないだなんて、知りたくもなかった。
微かな声が、ベルナールの耳に届き、ベルナールの胸を痛ませる。
「本当は、貴方がたと顔を合わせないまま、穏便に出来ればと思っておりましたのよ」
貴方が無事にノルゼンに着けば、私の役目は終わりますから、とアンナカメリアは目を伏せて呟いた。
「役目とは、なんだ? 誰かに指示をされてお前は動いているのか?」
いいえ、言葉の綾です、と早口に言う。逆にその言動がベルナールを疑わせた。
行き先はハイグラムではなく、ノルゼンであるのは確定か。そしてノルゼンで、何かを仕掛けられる可能性あると言うのだろうか。
アンナカメリアが目を伏せた先には甘い香りを漂わせている大ぶりの白い花。この花に何か意味があるとでも言うのだろうか。
アンナカメリアはベルナールの視線の先からベルナールの考えを読み取ったようで「あくまでも、私自身の意思です」と答える。
「だったら、何故俺達をノルゼンに送り届ける」
「貴方がたの目的はノルゼンに行く事でしょう? 私はそのお手伝いをするまでのことしか出来ませんから」
話をはぐらかされている気がしてならない。
「お前、何を企んでる?」
「企むだなんてそんな。私はただ純粋に貴方がたの事を思っているのです」
「じゃぁ、何か隠している事でもあるのか」
「いいえ、特には」
淡々とした質疑応答の繰り返し。
その間、アンナカメリアの目はずっと伏せられたままだ。
「だったら、何故。お前は俺を許していないだろうに」
そう言った瞬間、アンナカメリアの瞳と視線が交わった。
「自惚れるのも大概になさいませ。私はもう、貴方の事を愛しておりませんわ」
はっきりと言われた事実に、ベルナールの方が傷ついた。眉間は寄り、口元が堅くなるのを自覚する。それを見たアンナカメリアの顔が、泣くのを堪えるように歪んだ。
「何故、貴方の方が傷ついた顔をなさいますの。あの日、私がどれだけ泣いたのか、知りもしない貴方が」
そうだ。アンナカメリアを見捨て、ナーシャを連れ出したのはベルナールの方だ。
だから、恨んでいるものだと、思っていた。
憎まれているものだと思っていた。
強く愛されているのを知っていたから、今でもそうなのだと自惚れていた。
「そんな顔、やめて下さいまし。貴方には相応しくありませんわ」
アンナカメリアはそう言って、目を潤ませたまま、身を乗り出してベルナールの頬に手をやり、口元を無理やり微笑みの形にさせる。
「そう、こんな形が貴方には似合っておりますわよ」
アンナカメリアに頬を触れられたのは、これが初めてだった。暖かい温室の中で、細いたおやかな手は想像通り冷えていた。
「こうやって、触れられる時が来るなんて、思ってもいませんでした。貴方に触れる勇気が持てるのは、エスコートの時だけで、それすら緊張していたなんて、貴方は知りもしなかったでしょう」
思わずこぼれたアンナカメリアの声に、ベルナールがどれだけ彼女を顧みていなかったか、気付かされる。
「悪かった」
心の底からの謝罪を口にすれば、ゆっくりと手が離れていった。
「もう終わった事です。それに貴方にはナーシャさんがいらっしゃるんですもの」
意味が分からず視線で問えば、「殿下は、この世界が物語によって運命付けられていると言えば、信じられますか」と静かな声が問い返される。
「物語だと」
「ええ、この物語の主役はナーシャさん。ナーシャさんを心身共に支え、側で生きる運命にあるのが貴方だとしたら」
「……運命の恋人、とでも言うつもりか?」
まるでロマンス小説だ。そう言えば昔、アンナカメリアのお気に入りとして、何冊か読まされた事があったのを思い出す。
あの小説の中の主役達は、甘い生活を送っていたが、ベルナールとナーシャの間にそんな甘さは存在しないと思うのだが、アンナカメリアは肯定する。
「現に貴方は私との婚約よりも、ナーシャさんとの旅を選ばれた。その時に私悟りました。この物語の中で私はただの脇役にすぎないと」
困ったように笑顔を見せるその目には、もう涙は浮かんでいなかった。
「……」
「ですが、脇役にも矜持があります。私は私なりにこの物語を最後まで見届けるつもりです。貴方がたが、ノルゼンに行き、ランドルに帰還するまでの物語を」
「人生と物語は違う」
物語に終わりはあるが、人生は死ぬまで続く。それを解っていて彼女はこの世界を物語だと言うのか。
思わず咎める声が出たが、彼女もその点は理解しているようだ。
「ええ、解っております。この物語は『貴方がたが、ランドルに帰還するまで』の物語なのです。それが終われば、私はまた私の人生を歩むことができる。結婚した旦那様と恋をして、貴方も羨むような幸せを築き上げますわ」
「その為に、協力してくれると言うのか」
「ええ、私、非効率が嫌いですの。だから、早くノルゼンに貴方がたを送り出そうという魂胆でした」
その笑顔に、本当に裏がなかったのだとと実感する。
あれこれ疑って、ナーシャに怒られるのも当然の結果だった。
「ナーシャが正しかったな……余計な事ばかり考えすぎていた」
独白を聞きつけ、まぁとアンナカメリアが声を上げる。
「ナーシャさんは信じて下さっていたというのね。殿下は薄情な方と気付けて本当にようございました。貴方と結婚すれば私はさぞかし苦労したでしょう。殿下にはナーシャさんが本当にお似合いだわ」
冗談めかして、そう言った彼女の言葉に声を上げて笑う。
「違いない。全てのジャックにはジルがいるというやつだ」
「ご自分でおっしゃる方を初めて見ました」
距離が離れたからこそ築かれる友情もあるのだろう。初めての軽口の応酬は悪くないものだった。
飲み物もなく、暫く語り合ううちに、気付いた時には、花が萎れかけていた。
「もう、花見の時間もおしまいですわね」
名残惜しいというように、萎みはじめた花を見ながら、彼女はそう呟いた後ベルナールの方を向く。
「殿下、おやすみなさいませ。良き夢を」
そう言った、彼女の顔は親愛の温かみに溢れていた。
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