10
アルダが退出し、残された二人は途方に暮れていた。アンナカメリアだって途方にくれたい気分だった。
なんせ、もう二度とお会いすることがないと言い切った相手とまた顔を会わすなんて。
その機会を操作したのはアンナカメリアだから、文句が言いたくても自業自得でどこにもぶつけられやしない。
応接室の中、一人掛けのソファに座ったままのアンナカメリアと、ソファの後ろに立ったままの二人。
どう会話をしていいのか分からない中、恐る恐るナーシャが尋ねてくる。
「あの、エストレイア嬢……よろしかったのですか。私達の為にあんな大金を……」
「アクセサリを一つ仕立てた程度の金額です。我が家では私以上に剣や銃といったものにお金を使われる方達がいるから気になさらないで」
なんでも無いことのような顔をしているが、本当は全くもって宜しくない。
正直、かなり痛い出費となり、次兄の雷が落ちるのも必至だが、それを今、口にするのは野暮というものだろう。
「それよりも、貴方がた。いくらしばらく奴隷の身分だったとしても、いつまで汚い成りでいらっしゃるおつもり? まず身なりを整えて下さいませ。詳しいお話は後で聞きますわ。ああ、殿方のお髭はそのままでよろしいわ」
使用人の誰がこの奴隷を王子だと気付くか解らない。用心の為に、名前を呼ばずにいれば、ベルナールは少し眉尻を下げたが、アンナカメリアは気付かないふりをする。
髭を加味すれば多少の人相は変わるに違いない。ここにいるのはベルナール殿下のそっくりさんなのだと言い切れる、と思いたい。
ナーシャの方はジャンカルロの顔と同じだが、彼の顔は領の外に出ない屋敷の人間には割れていないから、多分大丈夫だろう。
そもそも性別が違う時点で気付かれないはず、だ。
使用人に客室まで案内させ、何故買った奴隷を客人としてもてなすのか、という視線を浴びつつ、応接室でアルダとの約束の学園への紹介状を書きながら、二人を待つ。
着替えに関しては寸法が解らないと買えないランドルの服は用意できなかったので、カリファの店から民族衣装を購入した。それを着るように言伝をしておく。
戸惑いながら現れた二人に、サジェの服は似合っていた。
ベルナールはアッシュブロンドの伸びた髪を後ろでひと纏めにし、顎髭もそのままと伝えて居たはずなのに、整えられている。ベルナールが本来持つ凛々しさに野性的な魅力も加味され、実年齢よりも年を重ねているように見えた。そこに紺色の踝まであるコートの様な詰め襟の服を纏い、以前よりも痩せた体を首まで閉めたボタンが引き締めている。
ナーシャの方は鎖骨まで伸びた髪をハーフアップにさせ、マニラが着ているものに似た緑のサリーのような物を着せた。首元には鎖骨まで覆われた鉱石のネックレス。
基本は中東系というよりもインドの衣装に近いサジェの民族衣装は、光沢がある布地をふんだんに使う。それが二人の髪艶と相まって一層輝かせていた。
応接室でアンナカメリアと一緒にアルダの対応をしていた使用人達は、小汚い奴隷達の見違えた様子に驚きを隠せなかった。息を呑む気配を背後から感じ、そうだろう、そうだろう、とアンナカメリアが自慢気になるもの仕方ないだろう。
何といっても、原作の主人公達だ、纏うオーラが違う。ただのモブが見れば目がつぶれてしまうかもしれない。
「アンナ……」
「はい」
二人が揃うまで応接室にいたアンナカメリアに、何と声を掛ければいいのか、分からないという顔をしながらベルナールは名前を呼んだ。
聞きたい事は色々とあるだろう。
しかし何から尋ねればいいのか解らず、口の中で渋滞を起こしている様で、結局ベルナールの瞳はアンナカメリアを見つめ続けていたが、口は開いたり閉じたりを繰り返しているだけだった。
こんな人だったか、とアンナカメリアは記憶を思い返す。記憶の中のベルナールはもっと尊大な態度で人を威圧していた記憶……というよりも、自分の思った事をはっきりと伝える人だったと思う。
ボーランから乗っていた船を襲撃され、自分を救うために軍が海賊を追い、その間に色々な人の死を見た事で己の無力さを知ったのだろう。
そしてとどめは自分を買い取ったアンナカメリアの態度。名前も呼ばず、小汚い格好でいるなと叱ったのが、彼の混乱に拍車をかけてしまったか。
確かに、以前のアンナカメリアであれば、ベルナールを前にしたら、愛の籠もった眼差しで微笑むぐらいはしただろう。
よくぞご無事で、と目を潤ませ、けれど泣き顔は見せたくなくて、一歩引いた所で頭を垂れていたはずだ。
恋愛事に関して言えば、案外男の方が感傷的だとはよく言ったものだ。自分から振った女に何時までも好かれていると思う方が烏滸がましい。
前世の記憶を思い出してから、私も随分と性格が変わったな、と今更ながら思う。
その性格の変化が吉と出ているのか、凶と出ているのか……多分墓穴を掘りまくっているので凶の方に極振りされているのだろうがそこは考えない様にしよう。
その後の会話が続かないので、結局アンナカメリアがソファに二人を促し、口火を切った。会話はボーラン語ではなく、ハイグラム語だ。誰が聞いているか解らないので、用心に越したことはない。
「先ずはお久しぶりです、お二方。そして……貴女の本当のお名前は?」
ナーシャの名前は原作では知っているが、この世界では今初めて知る。いきなりナーシャと呼んで怪しまれない為にも、布石はおいておいた方が良い。
アンナカメリアがハイグラム語で話し始めた事に、付いていけなかったのか、少しの間があったが、ナーシャも空気を読んでハイグラム語で返事をしてきた。
同じ学園で勉強していたというのは、こういう時に利点となる。
「お久しぶりですエストレイア嬢。私はナーシャ・フォスターと申します。あの、失礼ですが、何故貴方は私が女だと見抜いたのですか?」
上流階級の言葉を話すのに、ジャンカルロの身替わりをしていた影響か、男よりの言葉使いになっていた。
「ええ、貴女達がいなくなってから、親切にもお知らせしてくださった方がいました」
その教えてくれた人の名前を口にすると、後が恐ろしいような気がして口にはしなかった。
アンナカメリアの中でヘンドリックは、まるで名前を言ってはいけないあの人みたいな扱いになっている。五才年下の少年に何をそんなに恐れるのだか、という話だが、噂をすれば影とも言うし、口にしなくて良いのならばそれでいいではないか。
”名前を言ってはいけないあの人”に、見当が付いているのか、ナーシャはそうですか、と力弱く呟いた後、視線を落とした。
「……ジャンカルロの葬儀に行きました。彼は表向きは病死となっているそうよ」
話したい本題は別の所にあるのだが、話の流れで口にしてしまった。何となく言わなければいけないような気がしたのだ。
「病死……ですか」
「表向きはね。私も彼の遺体を見ましたが、毒殺なのか本当に病死なのかは判別が付きませんでした」
「誰かが本物のジャンカルロ・イグレシアスを殺した、と言う可能性をお前は疑っているということか」
ナーシャに対して話をしていたのに、ベルナールもハイグラム語で会話に交じってくるので少し動揺した。
「その彼を殺す理由、殿下には思いあたる節がありますか?」
「卒業間近になって、身替わり発覚を恐れたイグレシアス夫人かもしれない」
「息子の身代わりに他人の娘を身代わりにするような夫人が、息子を殺しますでしょうか」
「ジャンカルロは病弱でした。最期に会った時には、食物が喉を通らない程でしたから、病死でも違和感はありません。ただ、私が在学している間、何度か縁談の申し込みがあったらしいとはヘンドリックから聞いています」
ナーシャの中の名前を言ってはいけないあの人はヘンドリックの事ではなかったようだ。さらっと名前が出てきた上に、ナーシャはヘンドリックの事を信頼しているように見える。
「ということは、何度も縁談の話が浮上し、イグレシアス伯がジャンカルロに違和感を抱いた結果、イグレシアス夫人の企みを知って殺したという説も有り得るな」
わぁ、闇が深い。
可能性として捨てきれない所がまた恐ろしい。
「そして、悲しみにくれたイグレシアス夫人がナーシャの殺害命令を出した、と」
低い声でベルナールが呟いた。
筋は通る。彼らの中ではナーシャの命を狙うのはイグレシアス夫人として決定付けられたようだ。
少なくとも殺害命令を出した者はイグレシアス夫人ではないのだが、そこで違うと言っても何故お前が知っていると言われたら、答えられないので何も言えない。
そっち方面(犯人探し)の話はここで終わろう。
喉が渇いてきたので、侍女に紅茶を淹れさせる。
いつもならお気に入りの硝子のカップに紅茶を入れてもらうのだが、磁器のカップを指定した。
服装が変われば、人の見る目も変わる。
彼らが着替えるまでは客室を用意させることにも難色を示していた使用人達も、自然とナーシャ達の前に紅茶を差し出していた。
「そういえば、彼らから逃れる為に、ボーランへ行かれたのは解りますが、何故貴方達はサジェの商人の奴隷になっていたのですか」
一口飲んで喉を潤してそう尋ねると、ベルナールが噎せた。咳き込むベルナールの背中を「なんであんたが咳き込んでるんですか」と苦笑しながら、さするナーシャ。
あまりにも自然な行為に、二人の親密な様子が窺える。
その様子を見ながら、ベルナールの咳が落ち着くまで待っていた。多少、ナーシャに対して嫉妬心がわき起こるかと思ったが、それもなかった。凪いだ心で目の前の光景を受け止めている。
落ち着いたベルナールの横で、改めてナーシャがこれまでの旅路をざっくりと語ってくれた。
「ボーランでユージィン様のお世話になっている時に、私の母の形見がノルゼン王家に連なるものだと解ったのです」
母の過去を知る為に、ノルゼンに船で行こうとしたのだが、途中で海賊に襲われた事。
その船長は彼らの正体を知っていたのだが、友好国とは言えない国に王子が捉えられるリスクを考え、第三国のサジェに預けた方が良いと判断した事。
サジェ人がハイグラムから出国する手続きの為に、一時的に奴隷の身分になった事。
「ノルゼンに行けば、殿下のお知り合いの方がいらっしゃるとの話だったので、商隊に紛れてノルゼンに着いた時点で逃げよう、という話になっていたのですが、まさかエストレイア嬢が私達を買い取ってくれるとは思ってもいませんでした」
ん? 今聞き捨てならない情報が、さらっと出てきた気がする。
「ノルゼンに殿下のお知り合い……ですか?」
これでも腐っても元(いや、今もなのだが)婚約者だ。ベルナールの友人は顔も名前も覚えている。しかし、ノルゼンの者は居なかった様に記憶していたが。
「アレクだ。あいつ、うちの国に探し人がいるってんで国籍偽って、うちの学園に転入して来てやがってたんだよ。本名はアレクセイ・マカロフ・プガチョーフ。奴の爺さんが先々代の王らしい」
その言葉を聞いて、アンナカメリアの脳内でハラショー!と拍手喝采が沸き起こる。
ミッションクリアの鍵は、ベルナールが持っていたと言うことか。
これで物語が大きく進み出すのをアンナカメリアは実感した。
「ノルゼンまでの安全がルートがあれば、良いと言うことですね。解りました。懇意にしているサジェの商人が、販路を持っている可能性があります。話をしてみましょう」
「本当かですか!」
「アンナ……感謝する!」
上背のある二人から勢いよく身を乗り出して、感謝されると、その圧を感じて少しこわい。
アンナカメリアは多少引き気味に答える。
「商人は明日呼びます。それまでは、うちでおくつろぎなさって。しばらくまともな休息も取れていなかったでしょう」
アンナカメリアの反応に気付いたベルナールは、乗り出していた身をソファに沈め、どこかほっとした声を出した。
「……お前は、城に帰れとは言わないのだな」
「殿下は帰りたいと、思ってはいらっしゃらないのでしょう?」
それに、アンナカメリアが言っても、ベルナールが聞くはずがない。貴方の耳に届くのはナーシャの声だけでしょう、と口に出しそうになって止めた。
それを言いだしたら、『以前』のアンナカメリアの心が騒ぎ出す。
もうこの恋心とは別れを告げたのだ。今のアンナカメリアが何かを言うべきものではない。
だから、わざと明るい声を出した。
「思うままに旅をするのは、若者の特権と聞きますわ。そこで人は色々な経験を重ね、成長するのだとか。ああ、でも恩を返したいと仰るなら城に宛てて、一筆書いて頂きたいものがありますの」
「手紙?」
ベルナールの片眉が上がる。
気になる事があった時のベルナールの癖だ。変わらないそれに、思わず笑顔がこぼれた。
「私と貴方の婚約解消を願うお手紙ですわ。殿下が無事である便りのついでで良いのです。殿下から、申し出てくれれば、私も後腐れなく新たに婚約を結べますから」
評価・ブクマありがとうございます。もう少しナーシャとベルナールのターン続きます。