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あ、私はこの光景を知っている。
蛍火が輝く幻想的な風景の中、湖を背景に自らの婚約者が、学園内で従者としてこき使っている同級生と唇を合わせている場面に居合わせてしまったアンナカメリアは、驚くよりもまず先にそう思った。
「エストレイア嬢! これは誤解なのです!」
同級生の方はアンナカメリアの姿を見て、慌てて彼を引き剥がそうとするが、婚約者殿は逆に彼女に見せつける様に従者の腰を抱きしめ、違った事を口にする。
「出歯亀とは、いい趣味してるな。アンナ」
「っ! あんた何言ってるんですか!」
「おう、お前も王子様に対しての口の効き方がなってねぇぞ」
「いや、私の事はどうだって良いんですよ! エストレイア嬢は婚約者でしょうが! 何平然としてるんですか! っていうか離れろ!」
「誰がいつ、この女と結婚するって言った? 俺の嫁は俺が気に入った奴だっつったろ」
面白い玩具を前にした様な笑顔を浮かべている殿下と、顔を真っ赤にして怒る従者の親密な様子。学園にいる間は僕と言っていた筈だというのに、彼は自らを偽る事すら忘れるぐらいに慌てふためいている。
よくよく見れば、平均的な女子より十センチ程度高いが、成長期の男子よりは低い身長、線の細い体、男子にしては高い声、ヒントはいくつも散りばめられていたというのに、殿下以外は誰も気付かない時点でご都合主義な設定が彼…いや、彼女には施されていたのだ。
ジャンカルロ・イグレシアス伯爵子息の身替わりにこの学園に入学させられた娘、ナーシャ・フォスター。
貴族とは毛色の違う娘が男として寮に入り、この国の第三王子であるベルナール殿下に見初められた。
裏切られたという気持ちと、この先の事を知っているが故にここで時間を潰している暇はないだろうという怒りがこみ上げる。
アンナカメリアの記憶が正しければ、丁度この夜、本物のジャンカルロが息を引き取り、イグレシアス家から用無しとなったナーシャの命を狙うための命令が下されているはずだ。
「この国から早く出て行きなさい」
アンナカメリアは自分で思ったよりも固い声が出て内心驚くが、今はそれどころではない。
アンナカメリアの発言にナーシャは顔色を無くし、ベルナールは敵愾心を露わにした。じゃれあいを止めた二人に対し、もう一度アンナカメリアは「この国から出て行きなさい」と告げる。
「もうイグレシアス家からの手は放たれているはずです。一刻の猶予もない。命が惜しければ早く」
予想外の台詞がアンナカメリアから放たれ、二人は先程とはまた違う顔色になった。ナーシャの命が狙われているその原因に思い至ったナーシャは口元に両手を当て、「そんな……ジャンカルロ……」と潤んだ声を漏らした。
涙を落とすナーシャの肩を抱きながら、ベルナールは警戒心を緩めない。
「待て、何故お前がそれを知っている?」
何故、と言われても。今のアンナカメリアには答える術が無い。前世の記憶を思い出しましたとはおおっぴらに言えず、言ったところで信じられるものか。
「……私は忠告をいたしました。信じるか信じまいかは殿下にお任せ致します」
表情を変えず、そう言うのが精一杯だった。しばらく二人の間で睨み合いが続いたが、先に切り上げたのはベルナールの方だった。
「……行くぞ。取り敢えず馬飛ばせば明日にはボーラン近くのグレシェンに着く。ほとぼり冷めるまではユージィンの所で世話になるか」
ナーシャの肩を抱きかかえたまま、アンナカメリアに背を向ける。いきなり体の向きを変えられたナーシャは「って、え?!」と驚きの声を上げていたが、それに構わず、ベルナールは「お前一人で夜道の中馬走らせられるかよ。俺も行くぞ」と宣う。
その背に向かって、アンナカメリアは深々と頭を下げた。
「殿下、私は私なりに殿下をお慕いもうしておりました。もう二度と会い見える事はありませんでしょうが、どうか、彼女を大切になさって下さい」
何故なら彼女はこの世界のヒロインであり、北の国ノルゼンの王の血を引く者だ。度重なる困難を乗り越え、ノルゼンの王族と認められたナーシャはアナスタシアと名を変え、ベルナールと結ばれる。そして、我が国ランドル王国とノルゼンとの同盟が築かれるのだ。
アンナカメリアの声を聞き、ベルナールは一旦足を止めたが、振り返らずにまた歩き始めた。
「エストレイア嬢……」
「さっさと歩け。それとも抱え上げられたいか?」
「遠慮します! 自分で歩けますんで!!」
二人の声が寮へと続く暗がりに消えていく。
二人の姿が消えるまで、アンナカメリアは頭を上げなかった。
実のところ上げられなかったのだ。
一人きりになったアンナカメリアは蛍火が輝く幻想的な風景に目もくれず、その場でしゃがみ込む。
泥で汚れたフレアスカートの裾に涙が落ちた。
先程、記憶を思い出すまで、アンナカメリアはベルナールを憎からず思っていたのだ。8歳の頃からベルナールの婚約者として育てられていた。
傍若無人な態度を見せるベルナールだが、彼はアンナカメリアの前では聡明な姿を見せていた。人と接するよりも、本を読む方が好きなアンナカメリアに合わせて、二人きりの茶会はいつも互いのお薦めの本を持ち寄り、余計な会話を交わさず読書に集中していた。
好きな本というのは、その人物を形作る重要なファクターだ。それを知ることによって互いを知るのも良いだろう、と言ってくれたのはベルナールだ。
ページを捲る武骨な指。文字を目で追う緑の瞳。アッシュブロンドの前髪が時折落ちるのを鬱陶しい、とかきあげる姿を見るのが好きだった。
冷めた紅茶を片手に感想を交わしていたその時間が、特別なものだと思っていたのは、アンナカメリアだけだった事が先程のベルナールの言葉で思い知らされる。
『誰がいつ、この女と結婚するって言った?』
将来は結婚すると、思っていたのはアンナカメリアだけ。ベルナールからすれば、周りの女とは少し違うが、興味を持つ程ではない女だったのだろう。
王子という立場も気にせず暴言を吐くこともない。理不尽な環境に置かれながらも、前向きに生きる気力もない。ただそうあれかしと、育てられ、平穏に生きてきた。
ベルナールがナーシャを気に入るのは、物語によって定められた事だ。そして、ベルナールを思うあまり、ナーシャを亡き者にしようと思う前に、前世の記憶を呼び起こして良かったと思う他ない。
けれど、抱いていた恋心を手放す為には、胸を締め付けるような痛みに涙を流して耐えなければならず、アンナカメリアはしばらくその場で声を殺して泣き続けていた。