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1話 異世界転移は突然に


『ヨルの英雄伝』とは著者不明の長編小説で、知る人ぞ知るファンタジーの傑作だ。


とは言え、別に何か素晴らしいところがある作品でもない。正直、客観的に見れば凡作、いや、あるいはそれ以下の駄作だろう。なぜなら、それはテンプレートにテンプレートを重ねたようなまるきり個性のない作品で、それどころかオマージュとは言い難いパクり疑惑や、世界観の甘さや考証、裏付けの不十分さなど問題点があちこちにあるからだ。


だから、この作品がメジャーでないことはファンとしても納得できるし、『ヨルの英雄伝』で検索をかければ罵詈雑言が予測変換に現れることも理解できる。しかし、いかなる攻撃も、人の熱情を奪うことはできない。


誰からどんなに貶されようと、俺がこの作品への愛を切らしたことはなかった。客観的に見れば凡作以下の駄作であろうと、俺から見れば傑作なのだ。人は何かにつけて“レビュー”を有り難がるが、自分にとって、自分の評価や価値観以上に信じられるものなどあるはずがない。



「あんた、またそれやってるの?」



ノックもせずに扉が開いて、母親はいつものように言った。


「春から社会人でしょ。こんなまとまった休み、人生で最後かもしれないんだし、せっかくだからどこか出かけたら?」


「いいんだ。それに行きたい場所も、行く友達もいないんだ」


「ああ…、よくそれを面と向かって母親に言えるわね…」


母さんは頭に手を当てて、やれやれと言わんばかりのジェスチャーをする。


「まあ、いいや。ご飯できたから来なさいね」


「キリがいいとこまで片付いたら行くよ」


扉が閉まり、足音が遠ざかる。再びパソコンに目をやる。『ヨルの英雄伝研究所』、これは俺が立ち上げたサイトだ。


ここには作品に登場するキャラクターや土地など、ありとあらゆる情報がまとめられている。いわゆるメジャーどころの作品でさえ、ここまで丁寧なファンサイトはあるまいと俺は自負していた。クオリティーが上がれば上がるほど、訪問者の少ないことに嘆かされたが、もはやそれさえも愛嬌だ。誰もが認める綺麗な蝶も良いけれど、誰もが嫌うガガンボを好くのもまた一興なのだ。


誰からも嫌われるという点では、俺もまたガガンボと同じかもしれない。俺は昔から生き方が下手だった。体力も頭も見てくれも、ダメダメというわけではないが、決して人並みでもなかった。中途半端に劣るのが一番にタチが悪い。


加えて、社交的な方ではなかったし、別にオタッキーなわけでもない。一応言っておくが、俺のオタク性はヨルの英雄伝だけに発揮されるもので、その他のオタクコンテンツについてはよく分からない。だから、いってみれば俺には何の取り柄もない。そんな人間に同胞ができるわけもなく、俺はスクールカーストに属することさえできなかった。みんながグループ同士の静かな戦争を繰り広げている間も俺はひとり蚊帳の外。幼稚園から大学まで、友達などできたためしがない。


しかし、その分、俺のヨル伝(ヨルの英雄伝)知識は質、量ともに凄まじい。


みんなはクラスの連中、学年の連中のパワーバランスやゴシップについて記憶を割かねばならないところを、俺はすべてヨル伝に回したし、もっと言えば勉強に充てるべきところさえヨル伝に充てた。俺は俺の人生についての記憶より、ヨル伝についての記憶の方が多かった。


普通の人間は過去にあった楽しい出来事を思い出し、心を温めると言う。俺にはそんなものないから、ヨル伝がその代わりを務めた。それくらい、俺の作品愛は強い。


もしもヨル伝がメジャー作品だったなら、俺は学年一の人気者になれただろうし、もしもヨル伝クイズが伝統ある競技なら、俺はオリンピック選手になれただろう。


しかし、現実は冷たい。俺はただ、一人で黙々と何の足しにもならない知識を詰めこんで喜ぶ変態だ。その自覚はあった。


さて。


雑念を振り払い、キーボードを叩く指に意識を向ける。


いま、俺は極悪非道のバルガスについての記事を書いている。いくらフィクション作品であっても、彼は憐れな人物だった。


貧乏な家庭に生まれた彼は幼い頃から怪力の持ち主だった。化物との混血を疑われた彼は両親から殺されかけるが、何とか逃げ延びる。青年となった彼は人間離れした巨漢。行く先々で畏怖の目で見られ、ある日、いわれのない罪でついに投獄された。過酷な日々を耐え抜き脱獄したが、彼の心にあったのはもはや憤怒だけだった。怒りは彼を罪へと誘い、あらゆる罪悪をなしていった…。


物語の中でなら、俺は彼のような人間とさえ分かり合うことができる気がした。物語なら、相手がどんな人間か、何が好きで何が嫌いかを正確に知ることができるからだ。現実の人間はあまりにも移ろいやすく、そして掴みづらい。彼らは嘘を吐くし、男女問わず、まるで秋の空模様のように心変わりする。変わるものを俺は信じられなかったのだ。


バルガスについての記事を書き終えひと息をつくと、立ち上がる。晩御飯が冷めてしまう。冷たいのは嫌だ。


そのときだった。地面が微かに揺れた気がした。


そして、それが気のせいでないことに気付くのに時間はかからなかった。微かな揺れはすぐさま大きく激しい揺れへと変わり、俺は立っていられず、床に伏せる。


ふと見上げると、ヨル伝を積んだずっしり重たい本棚がこちらに倒れてくるところだった。踏みつぶされてしまう。踏みつぶされるのは嫌だ。


嫌だと思ってもどうにもならないことはあるもので、本棚は倒れ、俺はあっさりと踏みつぶされた。



目を開くと、そこには非現実的なのに、なぜか見慣れた景色があった。俺がいるのは街の中心にある大きな道の真ん中で、目の前にそびえる立派な城にはこの国の王様、ヒレム4世がいる。初めて来るはずなのに、俺はいま自分が置かれている状況を理解できている。


しばらくして、ようやく受け入れることができた。夢かうつつか、とにかく、この国はカルナン王国で、そして…




ここはヨル伝の世界だ。



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