第76話
触れ合った唇が熱を持ち、身体が痺れた。
目覚めてください。バージル様。
ゆっくり唇を離すと、深呼吸している時のようにバージル様の胸の辺りが膨らみ、長い睫毛も目覚めようと揺れる。
「……起きてくださ、」
肩の辺りに手を乗せ、優しく揺すり起こそうとした。ーーのだが、わたしの手の甲に小枝のように細い焦げ茶色の手が重なり、それはそのまますり抜けてベッドの上に落ちた。
爪が異様に長く、ベッドのシーツに爪を立てるように動いている。
(ひぃーーーっ!)
手から腕へと追って視線を滑らせていくと、わたしの真横に小柄でしわくちゃな顔をした老婆が腰を曲げて座っていた。黄土色の大きな眼球が飛び出し、ギョロギョロと忙しなく動いている。
わたしをちらりとも見ず、バージル様だけを脇目も振らずに見つめている老婆の背中が不自然に盛り上がり始めた。その不気味さに目が釘付けになってしまい、緊張からバージル様の肩を力いっぱい掴んでしまっていることにわたしは気が付いていなかった。
「うっ、ひゃあ!」
老婆の背中から背骨が飛び出した瞬間に視界がぐるんっとひっくり返った。
何が起きたのか分からず、ぽかんと間抜けな顔をするわたしを覗き込むバージル様。どうやら目覚めたバージル様にベッドの上へと引っ張りあげられたらしい。
「……ア、シュリー」
掠れた声が至近距離から聞こえ、覆いこむように重なってきた声の主を見上げる。とろんとした表情をしたバージル様が上からわたしを見下ろしていた。
頭を重そうに揺らし、わたしの首筋に顔をすり寄せながらもう一度名前を呼ばれた。首筋にかかる熱い吐息も、頬に触れる柔らかい髪の毛もくすぐったくて少しだけ笑ってしまう。よかった、本当によかった。
「……何、その格好?」
おっと、そういえば今は男装中だった。
バージル様はわたしの顎から頬を手のひらで包むようにして持ち上げ、無防備になる首筋に何度もキスを落としながら、何か確認するようにわたしの身体を撫でていく。
「王宮に忍び込むためにちょっと変装をですね……驚きました?」
顔は見えなかったがバージル様の頭が縦に動く。
王宮に来る時はメイドの格好をしたり、男装をしたりとこんな伯爵令嬢はなかなか居ないだろう。どちらも理由はバージル様にこっそり会うためだった。呆れないでくれていると嬉しいんだけど。
「生きててくれてよかった」
「……バージル様も。無事でよかったです」
感極まってまた泣いてしまいそう。
頬を撫でられ、今度は唇にキスされそうってなった時にバージル様の口を手で押さえる。今色々流されてしまうわけにはいかない。
何より真横からの視線が強すぎて無視出来ない。よくバージル様はこんなぐいぐいくるよ。
しかも傍から見るとわたし達って男同士がベッドの上で睦み合っているように見えるわよね。目撃者は幽霊の老婆だけだが、気になってしょうがない。
「あの、ちょっとお待ちを……視線が……」
まだいるんだよ。さっきからずっと。
背中から骨が突き出し、目をギョロギョロさせた老婆が。ベッド脇に座ったまま、わたし達をずっと見ている。
バージル様は「あぁ」と老婆を見て、小さく笑った。
「アシュリーが見えなくして」
耳元で囁かれて唇を尖らせる。
見えなくしてって、それはつまり……
するりとバージル様の背中に腕を回し、遠慮なくしがみつく。
老婆が見えなくなるのを確認する間もなくバージル様から口付けをされてわたしは瞳を閉じたのだった。
そこからのバージル様の動きは早かった。
部屋の外に控えていたアーノルドとクラークにリリーの捕縛をするように命令を下し、息子が目覚めたことを知って急いで会いに来た国王様と王妃様に本当の犯人はリリーであることを告げた。
リリーがした悪事を全て報告すると二人とも憤慨していた。息子を助けてくれた恩人だと思って手厚く持て成していたのに、その相手が犯人だったのだから当たり前よね。
わたしの家族の幽閉はもちろんすぐに解かれ、誘拐されていたエリオットとレオノアの無事を伝えると二人を迎えに行こうと言ってくれた。
そして囚われたリリーは今地下牢にいるらしい。
出来るなら会って文句の一つでも言ってやりたかったが、バージル様に会いに行くことを禁止され、力尽きたように眠りについてしまったバージル様の抱き枕におさまっている。
エリオットも突然眠気に襲われたり目覚めさせたレオノアと離れられないと言っていたが、バージル様も同じ症状だった。
バージル様は国王様や王妃様の前でもわたしから離れようとせず、これは後遺症みたいなものなんですと説明したら国王様に生温かい目を向けられ、王妃様は「あら、いつものことじゃない」と笑われた。その後バージル様はみんなで会話をしている最中に突然眠ってしまい、本当にこれ大丈夫なの? とみんな心配していた。わたしはエリオットで経験済みだったが、初見じゃ吃驚するよね。
本当にただ眠っているだけだと確認してから皆は部屋を出て行き、今はわたしとバージル様の二人だけ。
わたしを抱え込むようにして眠っているバージル様の頬をつつく。
大きなベッドだから二人で眠っても平気だが、年頃の男女が同じベッドで眠るのは本来許されない。だがバージル様がわたしを離そうとせず、無理に引き離すことが躊躇われ、まぁいいでしょうと大人達に目を瞑られたわけです。
わたしとしても今バージル様と離れたくないので従うことにした。
「……まるで昔に戻ったみたいね」
成長しても寝顔にはまだ幼さを感じる。
まだ幼く、我が家に滞在していた時はこうして一緒に眠っていた。そのせいか真っ正面から気持ち良さそうに眠っているバージル様を見ていたら眠くなってくる。わたしの身体もまだ万全ではないらしい。
小さく欠伸をし、寝やすい場所に頭を預けてわたしも眠りについた。