第72話
「リ、リリー」
わたしの声はリリーに届かない。
「覚えてなさい、よ」
一瞬弱気になってしまった。
こんなことくらいでわたしは命を投げ出したりしないわよ。芋虫と言われようと地面を這いながら少しずつ前に進む。バージル様はわたしを助けるために罠だと分かっていてもたった一人で来てくれた。それなのにわたしが自分の命を諦めるわけにはいかないのだ。
雨が強まり身体が冷えていく。
朦朧とする意識の中でバージル様のことを考える。今度はわたしが助けに行かないと……
遠くで誰かがわたしの名前を呼んでいる。
ここにいる、わたしはここよ
「……バージル様っ!」
突然意識がはっきりと浮上した。
のどが痛み、咳き込んでいると「大丈夫?」とすぐ近くから声がした。お母様くらいの年齢の灰色の瞳をした綺麗な女性がわたしを覗き込んでいる。
誰か分からず瞳をぱちぱちさせていると、女性は確かめるようにわたしの額を触る。安心した顔になり、額に乗っていたタオルを冷たいものと変えてくれた。
どうやらわたしは清潔なベッドの上に寝かされていたらしい。
広くはないが掃除の行き届いた温かみのあるログハウスのような造りをした部屋を寝たままの状態で見渡す。力が入らず自力では起き上がれないので逃げることも出来ない不安から無意識に胸元の辺りを軽く握る。
「よかった、熱が下がらなくて二日間も意識がなかったのよ」
「熱?」
「そうよ。貴女のお友達もすごく心配していたの……今呼んでくるから少し待っていてね。飲み物も持ってくるわ」
女性は部屋を出て行き、代わりにすぐレオノアがやってきた。
「あー、よかった! 目覚めたのですね……」
瞳に涙を浮かべながら近寄り、手に手を優しく重ねてきたレオノアを見上げる。知っている人の姿に緊張で強張っていた体の力が抜けた。
リリーがレオノア達は逃げたと言っていたが、身動き取れずに意識を失ってしまったわたしをレオノアが助けてくれたのね。
「レオノア様、ここは……」
「安心してください。ここは安全ですから」
「一体何が……何でわたくしは」
「まずはこれを飲んで下さい。カトレア様がお水を持ってきてくださいました。少しずつゆっくり飲んでくださいね」
さっきの灰色の瞳の女性がカトレア様というのだろう。
口元に運ばれたグラスの水をゆっくり時間をかけて飲み干し、一息ついたところでレオノアの腰にしがみついている男に気が付く。
「……エリオット? 貴方、そこで何をしているの」
レオノアの腰にしがみついたままちらりとわたしを見ている男はエリオットだった。しかし返事もせずにプイッと視線を逸らされた。
気まずそうな表情をしているがレオノアから離れるつもりはないらしい。
「え、何? どういうこと?」
「……頼む、アシュリー。今の俺を見ないでくれ」
「ええ? 見ないでと言われましても……」
どういうこと? と今度はレオノアを見るのだが、レオノアは頬をピンクに染めながら恥ずかしそうに控えめな笑みを浮かべ、「今はそれどころじゃないですわ」と質問に答えてくれない。
何か、明らかに二人の雰囲気が今までと違う?
「そりゃ、アシュリーちゃんも混乱するって。急に二人がイチャイチャしてんだもんな。それより気分はどうだ? 起き上がれそうか?」
「アーノルド様っ!?」
「黙れ、アーノルド」
更に部屋に入って来た人物を見て、驚き目を見開いてしまった。
だって入ってきたのはアーノルドだ。攻略対象の一人であるアーノルド、起きて最初に見たカトレア様、そしてわたしを学園から連れ去るためにリリーの手伝いをしたルーナも部屋の前にいた。
次々に人が現れて戸惑ってしまう。
そもそもわたしはなぜここにいるのか。
いや、ちょっと待って。それよりも連れていかれたバージル様は一体どうなってしまったのかしら。リリーは記憶を操作する薬と言っていたが、倒れたバージル様はピクリとも動いていなかった。その時のことを思い出すだけで苦しいくらいギュッと胸が痛む。
「わたくしは大丈夫です、それより誰かバージル様のことを分かる方はいませんか? リリーに連れて行かれてしまったんです。王宮に連れて行くってリリーは言っていたのですがバージル様は無事ですよね?」
レオノアとエリオットとアーノルドは視線を合わせ、わたしに話すべきか迷っているように見えた。
「アシュリー様、落ち着いて聞いて下さいませ」
「……ええ」
「アーノルド様の情報だとリリーは意識のないバージル様を王宮に連れて行ったらしいです。誘拐犯と交渉するために一人赴いたバージル様は捕まってしまい、同じく誘拐されていたリリーが隙をついてバージル様を救出して王宮にお連れしたということになっているそうですわ」
何とも穴だらけな作戦のように思う。
行き当たりばったりというか、すぐにぼろが出そう。誘拐された全員がここにいるわけで、真実はこうなんだってみんなで言えば簡単にひっくり返ってしまいそうな設定だけど、リリーは何か他に策でもあるのかしら。
「それじゃあ無事なのですね?」
「無事、と言って良いかは分からない。バージル様の意識はまだ戻っていないらしいからな」
「そんなっ!?」
バージル様が心配で居ても立ってもいられない。
わたしに何か出来るわけでもないが、レオノアの手を借りてゆっくり身体を起こす。王宮へ行かなければ……
「それだけじゃない。アシュリーちゃんは実は誘拐犯の手先で生徒を連れ出した挙げ句、仲間割れした誘拐犯に殺されてしまったことになっている」
「何ですって!?」
「リリーはそう言い触らしているが、アシュリーちゃんのことを知っているヤツは誰も信じていないぜ。まずはバージル様が目覚めるのを待つことにするって感じだ」
「……信じられない」
「リリーはバージル様の恩人だから周りが文句を言えないことを良いことに、まるで自分がバージル様の婚約者のように振る舞っているとか」
「それはいいです。バージル様は目覚めますよね?」
「悪いな、アシュリーちゃん。俺には何とも言えない」
「そんな……」
不安が大きくなる。
そこでふと当たり前のようにレオノアに抱きついたまま、うとうとしているエリオットが視界に入る。少し怖い顔になっていたかもしれない……レオノア様がエリオットを庇うように両手を広げた。悪役令嬢の目付きの悪さが影響したのか、まるでわたしから守ろうとしているみたいに。
ベッドの横に置かれた椅子にレオノアは座っていたのだが、背後から抱き抱えるようにしてエリオットまで同じ椅子に座っており、わたしはよく今まで視界に入れずに無視出来ていたものだ。
「ごめんなさい、エリオットもリリーに何か薬を飲まされていたらしくてまだ体調が万全じゃないの。ようやく喋れるようになってきたんだけど……」
そういえば、リリーがエリオットと同じものをバージル様に飲ませたと言っていたことを思い出す。
「そうよ! リリーが言っていましたわ! エリオットと同じものをバージル様にも飲ませたって……それでエリオットは大丈夫なの? リリーは記憶を操作する薬だって言っていたのですけど」
自分のことが話題に上がっているのにエリオットは心ここに在らずといった感じだ。わたしを見ることもなくゆっくり瞬きをし、そしてレオノアの肩に額を押し付けるようにして眠ってしまった。