第58話
「……トーマス、申し訳無いのですが保健医を呼んできてもらえませんか?」
「はい、分かりました。急いで呼んできます……アシュリー先輩、あの、足は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
トーマスが走って保健室を出て行った後もリリーは痛い痛いと泣いているのだが、ここにはリリーを慰める者は一人もいない。
ここにいる三人は前世を覚えている者しかいないのだから。
「リリー、もう止めて。エリオットも元日本人よ」
リリーは一瞬で泣くのを止め、ちらりとエリオットを見つめた。
エリオットが頷いたのを見て「何でこんなに転生者がいるわけ?」と不満そうに舌打ちをする。
「どいつもこいつも私のゲームの中に勝手に入ってくるのやめてくれる? 黙ってみてなさいよ。それが出来ないなら消えてちょうだい」
「それは無理。これはわたしやエリオットの人生でもあるのよ。実際ゲームと大分違ってきているってエリオットから聞いてるけど。それにこっちはもうゲームで片付けることなんか出来ないわ」
ギロッと怖い目で睨まれてもわたしはやめない。
「さっきだってわたしを階段から突き飛ばしたでしょ。殺す気?」
「……ゲームなんだからいいでしょ?」
「それにいくら低い場所だからって自分から落ちる? 怪我したらどうする気だったのよ」
「うっさいわねー! ゲームだから良いでしょって言ってんだろ」
「ゲームじゃないわ! 足を捻っただけでこんなに痛いのよ。わたし達が覚えている前世と何が違うっていうのよ。家族がいて、友達がいて、好きな人がいる……理不尽なことも多いし、傷つけられることも、腹立つことだってあるわ。大切な人が亡くなれば悲しいし、子供が産まれればみんなで喜ぶ」
「はぁ? 何言ってるのよ。意味わかんないんですけど」
「美味しいものを食べられれば幸せだし、前髪が上手にセットされたら一日頑張ろうって気持ちになるし、それから……」
「どうどう! 落ち着け、アシュリー」
前世との共通点を思い付くままに話していたらエリオットに落ち着けと軽く肩を叩かれ、わたしは口を閉じる。エリオットも言っておきたいことがあるらしい。
「だがアシュリーの言うことが正しい。多分リリーが思っているような未来は簡単に起きないと思うぜ」
「私が何を望んでいるか分かるって言いたいわけ?」
「誰からも愛されるヒロインだろ」
「このゲームのヒロインは私なんだから、みんなに愛されるのは当たり前じゃない。バカなの?」
「まぁ、ゲームのコンセプトはそうらしいからな。でもさ、実際バージル様はアシュリーに夢中だし、俺はもちろんリリーを愛する人間の数には入らないぜ? 他二人はどうだろうな。あいつらゲームより面倒な性格みたいだけど」
「攻略するためのルートの選択は全部覚えてるから平気よ。前世ではかなりやりこんだから、私は台詞まで全部覚えているもの。まぁ、エリオットが攻略出来ないのは残念だわ。アシュリーがレオノアを殺してくれなかったし、中身が元日本人とか最悪。エリオットはバージル様の次に推してたのよ」
「選択って……ははは、ゲームみたいに四択のうちから一つ選ぶ気でいるのかよ? 舐めてんの? 会話は?」
「……攻略ルートを外れない内容を適当に話しとけばいいでしょ。わたしは3作全部頭に入ってるわ」
3作?
ちらっとエリオットを見るとエリオットも「えっ?」と表情が固まっていた。もしかしてエリオットはそのことは知らないのかしら?
ちょいちょいとエリオットの服の袖を引っ張り、「そんな長く続くの?」と小声で質問すると「俺が生きてた時は出ていない」と小声で返ってきた。
「偉そうに説教してたけど全部プレイしてないんじゃないのよ」
リリーは上半身だけ起こし、小馬鹿にした表情でエリオットを蔑む。
「私はキャラのトラウマや好きなものまで全部把握してるの。バージル様だって、すぐにアシュリーなんか捨てて私の虜になるわ」
何を言ってもリリーには届かないんじゃないかと虚しい気持ちになったのはきっとわたしだけじゃないだろう。リリーは乙女ゲームというヒロインの力を信じているのだ。
きっと今は何を言っても通じない。
更に何かを言おうとしたエリオットを今度はわたしが止めた。
「いいわ、好きなようにすればいい。でもわたし達も好きなようにやるし、リリーが望むようには動かないと思うわよ」
「……私の邪魔したら、今度は本当に階段から突き落とすわよ? それともストーリーに忠実にレオノアを殺しちゃおうかしら?」
エリオットの顔の色がさっと変わる。
怒りで握り拳が震えているのを見てまずいと思った。今にもその拳でリリーに殴りかかりそう。レオノアに対するエリオットの過保護な態度をからかっているが、エリオットがレオノアをとても大事に思っていることは初めて会った時から理解している。
リリーは実際わたしを階段から突き飛ばすような子だ。
本当に危険な人物だとエリオットは判断したらしい。
動きかけたエリオットを制するために慌てて立ち上がり、身体をエリオットとリリーの間に滑り込ませる。
意地の悪い顔をしているリリーの頬をパシンッと平手打ちした。
さすがにエリオットが拳で殴るよりはマシだろう。リリーの可愛い顔がぼこぼこになっちゃうよ。
あまり強く叩いていないのにリリーの白い頬がうっすら赤く染まった。
「え?」
「アシュリーちゃん、何してるの?」
エリオットを止めることしか考えていなかったわたしは保健室に新たな来客者があったことに気がついていなかった。
アーノルドとクラークが来ていたことに……。
振り返ると保健室の扉の所に二人が立っていた。わたしがリリーを叩いたところをばっちり目撃していたのだろう。口をぽかんと開け、驚いた顔でこちらを見ていた。
「……本当にひどいですよ、アシュリー先輩。わたしが何をしたっていうんですか?」
「テメェ、まだそんなこと言ってんのかよっ……このクソ女! 俺が先に殺してやろうか」
でも今は二人を構っている暇はない。
わたしがリリーを叩いたことで一瞬は引っ込みかけたエリオットの怒りが、再び爆発してしまったのだ。憤怒の形相のエリオットを見たわたしは悲鳴を上げ、身体ごとエリオットに飛びかかって「落ち着きなさい」と暴れだしそうなエリオットの重石になることくらいしか出来ない。
「アーノルド様! クラーク様! エリオットを止めてくださいっ」
わたしだけじゃ完全に動きを封じることは不可能なのでちょうどやってきた二人に手伝ってもらおう。どんなにリリーが嫌な子でも、エリオットに女子を殴って怪我をさせるような男になってほしくない。