第48話
厚みの増した背中に腕を回すと、逞しい腕がわたしの背中に回る。
ぴったりと身体がくっつくと身長差からすっぽり覆うように抱き締められた。頭に頬を寄せ、深呼吸しているバージル様。わたし達二人の他に誰もいないとはいえ、ここは学園の教室だ。背徳感はいつまでたっても薄れない。
大きな犬と戯れている。
わたしは自分にそう言い聞かせていた。年頃になったせいか、バージル様が自分とは違う異性であることを強く感じる。当たり前なんだけどね、あー、バージル様も男性なんだなぁって。
子供の時は全く意識しなかったが成長したバージル様を抱き締めるのは毎回緊張してしまう。それを悟られないよう、わたしはバージル様の肩に顔をくっつけて見られないようにしている。
あとは瞳を閉じてバージル様の気がすむのを待つだけだ。
「……バージル様、あの、次の授業が」
しかし今日はいつまでも離そうとしない。授業に遅れてしまいますと背中を軽く叩いて合図を送る。
「分かっている。毎回のことだが離れがたいな……」
バージル様は名残惜しそうにわたしと距離を取ってから頬を優しく撫でる。首筋の薄い肌の上を滑るよう移動していく手のひらが燃えているみたいに熱い。本当に熱い。
その熱がわたしにまで伝染していく。
「……このままサボるか?」
「ダメです!」
このまま流されるのはダメな気がする。
両肩をグイッと押し、授業に戻りますよとバージル様の腕を掴んで教室の扉の方に向かって引っ張っていく。くつくつと笑う声が背後から聞こえたが無視だ。
扉を開けると予想通りバージル様のご友人達が待っている。
「それじゃあ、わたくし授業に参ります。皆様、失礼致します」
「教室まで送る」
「いいんです! わたくしを送って行くと皆さまが遅刻してしまいますわ」
男子生徒達の次の授業は屋外練習場で剣の訓練だったはずだ。一方わたしは練習場とは離れた棟にマナーの授業を受けに行かなければならない。
「お前達は先に練習場へ行け。私はアシュリーを送っていく」
「お待ち下さい! バージル様、わたくし一人で戻れますわ」
わたしを送ってから授業に向かえばバージル様は間違いなく遅刻してしまう。そうならないようにとお断りしているのに、バージル様はわたしの背に手を添えて歩きだしてしまった。
わざわざバージル様を待っていたご友人達は文句も言わず指示通り屋外練習場へと行ってしまう。説得して一緒に連れていってほしいと目で訴えたが、目が合った男子生徒達には次々視線を逸らされてしまい叶わなかった。
「授業に遅れてしまいますわよ?」
「別に構わない。少しでも長くアシュリーといたい」
「……バージル様」
わたしの方が正しいはずなのに微笑まれれば駄目と言えない。
本当にずるい。これは自分の美しい容貌も武器にしている。その攻撃にわたしが弱いと分かっていてやっているのだとしたら、何と恐ろしい男に育ってしまったのだろう。成長するにつれて美しさに磨きが掛かかり、微笑むと正統派王子様の雰囲気がすごい。語彙力が少なく、バカっぽく聞こえるかもしれないがすごいの一言だ。
自然とため息が漏れてしまう。視線を感じると思ったらバージル様がじっとわたしの横顔を見ていたらしい。
「最近元気がないがどうしたんだ?」
ドキッとした。
今のため息は強引なバージル様の一連の行動に対するものだったが、確かにここ最近ずっと乙女ゲームが始まる時のことを考えてわたしは憂鬱な気持ちになっていた。普通に生活をしていたつもりだが、バージル様はわたしの変化に気がついていたのだろう。
驚いた表情でバージル様を見つめると、バージル様は美しい顔を歪め、「気がつかないと思ったか」と苦々しい声を出す。自分の頭を乱暴に掻きながら、「あー」とか「うー」と唸り、珍しく何と声をかけるべきか迷っているみたいに見える。
「……私はまだアシュリーの力にはなれないのか?」
「え?」
「覚えておいて。私はアシュリーが望むなら何でもしよう」
「バージル様」
何かに悩んでいると分かっていたらしいのだが、バージル様はわたしから相談されるのを待っていたと続ける。結局待てずに聞いてしまったがなと眉を少し下げ、決まり悪そうな顔だ。
「だから悩みがあるなら私に言ってほしい」
バージル様の思いはいつも真っ直ぐで、受け止める時は同じく真摯に答えるようにしている。
「悩みなんてありませんわ」
それでも前世の記憶から得た不確かな未来についてはエリオット以外と話すつもりはない。
これから先起こる未来はみんなが幸せであってほしい。ゲームの通りになるなら不幸になるのは我が家だけだが、それも絶対に回避してみせるわ。
でも、正直バージル様が我が家を破滅させるなんて想像出来ない。
バージル様は学園に入る前も療養中として我が家にずっと滞在していたし、学園に通うようになってからも夏休暇と冬休暇の長期の休みの時は王宮じゃなく、わたしと一緒に帰省していた。婚約が決まってからは父や母や兄ともいつの間にか打ち解けているようだったし……
例えばわたしがバージル様の婚約者という立場を悪用し、ゲームの様にヒロインに対して悪辣な虐めをしなければ何があってもきっと大丈夫なんじゃないだろうか。
バージル様とヒロインのリリーが恋に落ちたら、わたしは静かに身を引きただの友人となればいいんじゃないだろうか。トーマスのような役割をわたしがバージル様にしてもいい。恋するバージル様の背中を押してーー
「アシュリー? どうした?」
「え?」
「なんか、顔が怒ってるぞ」
両頬を手のひらで押し潰し慌てて表情を変える。
怒っているつもりなんてなかったし、自分の表情の変化に気がついていなかった。すれ違った少年達がわたしの潰れた顔を見て驚いた顔をしているのが見え、おずおずと頬から手を離す。咄嗟に誤魔化すにしても子どもみたいな方法をとってしまったことを反省する。
バージル様もわたしの不審な行動に訝しげだ。
「大丈夫か?」
「……恥ずかしいです」
「ははは」
「早く参りましょう!」
早歩きしても足の長さが違うのであっという間に追い付かれてしまい、横に並ぶバージル様をちらりと見る。
バージル様の成長がとても眩しい。外見の変化だけじゃなく、それに伴って内面も成長しているのだ。わたしを困らせることもたくさんあるが、少しずつ色々な人と繋がりをみせ始めているし、意外と周りをよく見ていたりもする。色々なことを学び、体験してバージル様はもっと素敵な男性に成長していくのだ。
それに比べて自分は……
わたしはさっきの恋するバージル様の背中を押す自分を想像した時の不快感を思い出す。わたし、バージル様が成長していると思いながら、どこか小さな子供のままで自分の所有物みたいに矛盾したことを考えていたのかしら?
今まで感じたことのないドロッとした感覚に戸惑う。
バージル様だけじゃなく、わたしの方こそバージル様離れが必要かもしれない。一緒にいる時間が長すぎるのもお互いのためにならないのかも。
「アシュリー、本当に大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですわ。心配をおかけして申し訳ございません」
「……そうか」
「本当に何でもないのです。それに、わたくしはバージル様をとても頼りにしてるんですよ」
「ん?」
「マナーの授業に間に合わなかったら、バージル様もわたくしと一緒に先生に謝っていただきますから」
バージル様にこれ以上心配をかけないよう明るい声を出す。にやりと口の端を持ち上げ、共犯者になってもらいますからと告げるとバージル様も同じようににやりと笑った。
「分かった。その時はどこで何をしていたかまで詳しく説明しよう」
「それは結構です」
いつも通りの軽口の叩きあいをしている二人の後ろで、さっきすれ違った少年達が立ち止まりやり取りを眺め、仲が良くてお似合いですねなんて話していたらしいのだが、わたしもバージル様もそれには気がつかなかった。