第44話
何も言わぬバージル様をこっそり見ると、バージル様は静かに涙を流していた。泣いているのを見られたくないだろう。横顔を見るのを止め、バージル様の肩に少しだけ寄り掛かるようにして瞳を閉じた。
「……兄上、の声が聞こえたんだ」
「……ええ」
「二人を頼むって」
バージル様には妻と子を頼むと言う声が聞こえたらしい。
ぐすっと鼻を啜る音がし、わたしはバージル様の背中にそっと片手を添えるように回す。
「今日まで、ずっと、泣けなかったんだ。今やっと兄上に別れを言えた気がする」
「はい」
「……兄上、二人のことは私にお任せください」
バージル様の声は小さいが、涙で濡れている眼差しには決意が満ちていた。泣くのは悪いことじゃない。辛いことを受け入れ、前を向くため必要なことだ。
ふと、前世のことを考える。
わたしが死んだことで、お父さんとお母さんを苦しめてしまったんじゃないだろうかと。どうすることも出来ないことなのであまり考えないようにしてきたが、バージル様とフェリクス様のお別れはわたしの心に響くものがあった。
お父さん、お母さん
前世では早く死んでしまったけど、今世では精一杯生きるから。
ごめんね、親不孝をお許しください。
わたしも気がつけば泣いていた。
もう会うことが出来ない人達を想い、さよならをする。
この夜はバージル様と手を繋いでいても不気味なものを見ることがなかった。何かに守られているような、そんな優しい気持ちになる不思議な夜だった。
翌日、アルフィローネ様が懐妊したとの慶報が王宮から届いた。
フェリクス様が亡くなり、沈んでいた王宮に射し込んだ光は徐々に広がりをみせている。
昨夜すぐに医師を呼び、診てもらったところやはりお腹に赤ちゃんがいたとのことだ。国王様と王妃様がとてもお喜びになっていたとヴァルトラン公爵様から聞いた時はわたしも嬉しくなった。アルフィローネ様もきっともう大丈夫だ。アルフィローネ様はもちろん、バージル様も、国王様と王妃様も産まれてくる赤ちゃんをきっと慈しみ育てるだろう。
「……でも、何でこうなるのかしら?」
アルフィローネ様の懐妊が国民に知れ渡り始めた頃、なぜかわたしとバージル様の婚約が発表されることとなる。それは学園に入学する直前のことで、バージル様と婚約することはなくなったと思っていたわたしは乙女ゲームのシナリオが変わり、新しい未来を切り開いたとすっかり安堵していた時だったため、思わず淑女らしからぬ口調で嘘だろと言葉が零れるくらい驚いてしまった。
国王様とお父様の間で婚約の話は勝手に進み、知らぬ間にわたしはバージル様の婚約者の席に収まってしまっていた。お父様は最後まで反対したらしいのだが、国王様に押し切られる形で婚約が成立してしまったということだ。
お兄様が言っていたバージル様とレオノア様の婚約が近々成立するって話はどこへいってしまったの?
婚約の話と入学の準備で頭がいっぱいいっぱいになっているわたしの向かいのソファーに座っているエリオットは優雅に紅茶を飲もうとしている。しかもわたしの膝の上にはバージル様が頭を乗せて熟睡していた。シナリオ通り、本当にバージル様がわたしの婚約者様となってしまったのだ。
バージル様は婚約者に会うという名目で毎日のように公爵家に訪れ、まるで自室にいるかのように寛いでいる。
そう、ここは王都にあるヴァルトラン公爵様のお屋敷だ。
公爵様のご好意で、わたしはここから学園の入学式に参加することとなった。アルフィローネ様の懐妊や、婚約の件等諸々のことが重なり自宅に帰ることが出来なくなってしまい、ずっと公爵様の屋敷に滞在している。学園に入学してしまえばそのまま寮生活になるので、暫くは自宅に帰ることは出来ないだろう。
「落ち着けよ、アシュリー。色々な設定やシナリオが変わってきたんだ。アシュリーの破滅する未来もなくなったかもしれないじゃないか?」
「しーっ! エリオット、バージル様がいるのよ」
「熟睡しているみたいだし平気だろ」
エリオットは猫舌らしく、まだ熱い紅茶の入ったカップにふーふーと息を吹きかけながらまるで他人事のような口振りで話しているので少しイラッとした。
実際エリオットにとって一番恐れていた未来は変わったため、傍観者を気取っている。わたしの恨みがましい視線に気がついていないのかしら? 無視をしているのか鈍いのか分からないが、やっぱり腹立つ。
「でも、本当に大丈夫なんじゃないか? バージル様のアシュリーに対する執着心? 普通じゃないぞ」
「貴方のシスコンぶりも普通じゃないですからね」
「俺のはシスコンじゃなく、推しキャラを愛でているだけ……やめろ、そんな目で俺を見るな」
「……ふーん」
エリオットは姉のレオノアを溺愛している。
レオノアもエリオットのことを大事に思っているようで、二人の仲はとても良好だ。どちらかに恋愛感情が芽生えたらどうしようと心配になるくらい仲が良い。エリオットと交流をするようになってから、レオノアとも親しくなった。余計な心配かとも思うのだが、エリオットのレオノアに対する過保護ぶりを近くで見ていると「おいおい」となるわけで。
「でもさ、正直どうなのよ? 推しキャラってよく言っているけど、本当はレオノア様のこと好きなんじゃないでしょうね?」
「俺が? いや、考えたことないけど」
「あんなに溺愛してるのに?」
「うーん。いや、真面目に答えると前世を生きた記憶があるせいか、姉というよりも守らなければならない小さな女の子って感覚かな?」
「あー、それはわたしも分かるかも」
エリオットが言おうとしていることが理解出来た。
わたしもずっとバージル様と接する時、同じような気持ちだったからだ。精神年齢だけは相手の倍以上あるので、庇護しなければならない存在とでもいえばいいのかしら。懐いてくれるため、更に愛しさが増したというか。
「それなら良いんだけど。もし二人に恋愛感情が芽生えたらどうしようって心配してたのよ」
「……それはまたずいぶん飛躍した発想だな」
本当に驚いたと言いたげな顔をしたエリオットに「ごめん」と謝罪する。
「付き合ったり、結婚するなら大人の女性がいい。レオノアはまだ子供だろ?」
エリオットの発言が少し引っ掛かり、無意識に首を傾ける。
「ん? なんか変なこと言ったか?」
「いや、分からない。何だろう……」
上手く説明出来ずにわたしは口を閉ざした。
この時、わたしもエリオットもちゃんと理解していなかった。
精神年齢が倍以上だとしても、自分達は前世では惚れた腫れたの経験など皆無の恋愛初心者で、今世では守ってあげなきゃならないと思っていた相手がいつまでも子供なんかじゃなく、確実に成長しているということが頭からすっぽり抜けてしまっているということを。