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けあらしの朝 22  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 石の上にも3年と言うが博之がM食品へ転職してから、はや2年と半年近い歳月が流れた。S製菓時代の何十倍叱責を受けただろうか。それでも何とか食品工場の従業員としての体裁は整ってきたという手応えは感じるようになった。決して余裕が生まれたわけではないが休日前夜となると以前のように自然とアルコール類にためらいなく手が伸びる。

 (ちょっと資料作りをせにゃならんのだが急ぐもんでもないし明日でも構わない。今日はとにかく飲むことにする。もう3年になるんだな。ごめんな由里子。君のお父さんとの約束でお墓参りには行けないんだ。その代わりに命日にはそっちの方角を向いて手を合わせるからそれで勘弁してくれ)

 博之は由里子の写真に話しかけながら日本酒をコップに注いだ。普段は由里子についてあれこれ考えることもだいぶ少なくなったが命日が近づいた今はどうしても気が高ぶる。となると頼るのはやはりアルコールしかなかった。飲みながらおもむろに印刷物の束を2つ手に取って目を通したが酒の酔いが回ったのと日頃の疲れがどっと出たためか崩れるように横になった。つけっぱなしのテレビからは明日の天気予報が流れていた。博之はたいして冷え込まないことを確認すると安心したように深い眠りに落ちて行った。








 コンビニでの買い出しを兼ねた朝の散歩が何気なく神社経由にしてしまったことが大きな波紋を生んでしまったようだ。博之は帰り道を海沿いから一つ中に入った通りに変更しようと思い立った。遠回りになるがそうしなければならない理由が自身の中に込み上げて来たからだ。ついさっきまで神社の境内で話していた若い女性はけあらしが連れて来た幻に思えてならなかったが、それは二日酔いでぼやけた頭がなせる業のようなものなのだろう。現に探偵などといった突拍子もない比喩を交えて初対面のしかも何かしらワケのありそうな女性と会話が弾んだことは幻ではなく現実だ。一つ中の通りは女性がけせもい駅に向かって歩いて行った道だ。そこをトレースすることでカオス的に混乱した頭を整理したかった。今日は休日ではあるがやらなければならないことがある。雑念に満ちた状態では取り掛かることなど出来ない。

 (全く今日はおかしな休日になりそうな予感がしてきたぜ。だいたい夕べの天気予報からして大外れじゃないか。今朝の気温のどこが3℃なものか。明らかに氷点下だろうよ。おかげで由里子の命日が迫っているのにけあらしが出て辛いったらありゃしない。そこへあの旅の女性の出現だ。二日酔いは俺の責任だがその他についてはなんか腑に落ちないと言うか頭の中がゴチャゴチャしている。そう言えばあの女性は来年から施津河に住むとか言ってたが・・・・・いやそいつこそ一番厄介な雑念だ。それを払うために俺はこの通りを選んだのだ)

 外れた天気予報への八つ当たりとけあらしの出現は仕方がない。しかし旅の女性に対しての思い入れはなぜか払拭出来ないままいつもの道へ出た。だが部屋に戻り昨日の夜にしたたか飲んだ後で眺めようとして止めた印刷物が目に入るとよけいな雑念はとりあえず何処かへ雲隠れしたようだ。



 M食品に入社が決まった時に博之の父親が言っていたなんとかサークル。正確にはQCサークルと呼ばれるもので品質向上のためにどのような取り組みをすれば良いのかということを順序立て構築し、段階を踏んで結論づけるシステムである。博之は入社後すぐにQCに関する資料を渡されて通常の仕事と並行しながら理解を深めていっときも早く実践出来るように努力して欲しいと言われたが、これも中途採用の宿命のようなものなのだろう。毎日が背後から急ぐんだ、さもなくば取り返しのつかないことになるぞと脅しの言葉を浴びせられるような日々が続いた。そして現在はラインのサブリーダー的な役割を担うまでになったが、そろそろサブの文字も消滅間近となった。

(俺は入社前に決めた通り出来るだけ寡黙に、しかし真面目に取り組んできたつもりだ。今回のエントリーはそれが評価されたのだろうか。おっとそんなことはあり得ない、思い上がりだぜ。これは持ち回りで行われると聞いていたからいつかは白羽の矢が立つ。俺の持ち場は4年前にエントリーされたらしいからローテーションみたいに巡って来ただけのことだ。まだ未熟な俺には頭の痛い話だが避けて通れないならば嫌でもやるしかない)

 M食品けせもい工場では年に一度ふだんのQCサークル活動の成果を発表する催しがある。エントリーは博之が考えていたように持ち回りであるから4~5年に一度は回って来ることは覚悟する必要がある。異動で免れれば幸運だがその逆もある。とにかく工場長はもとより幹部社員から女工さんまでもが一堂に会しての発表会ゆえほとんどのラインのリーダーはお鉢が回って来ると大概は苦虫を噛み潰したような表情がもろに出るのだが中には上層部にアピールするチャンスとばかりに張り切る者も居る。博之はと言えばそのどちらにも属さない立ち位置だろう。特にアピールしようとも思っていないしさりとてあまりにぞんざいな内容にもしたくなかった。それで今日、数少ない心を許せる存在である先輩社員を訪ねて今までにまとめあげた資料を見せて相談に乗って貰う計画を立てていたのだが、当の先輩社員は夕べ友人達と飲み会があったはずである。博之が入社して驚いたのは仕事だけでなく酒好きな人間の多いこと多いこと。忘年会等の集会では毎回酒類があっという間に無くなり追加の連続で当然のように予算オーバーになって幹事役は社員連中に頭を下げて足が出た分を徴収して回る光景を何度も見たし自身も経験した。しかしながら当然下戸の人間からは文句の雨あられを浴びせられた。博之はそんな事を思い出しながら走り書きしたメモと印刷物を照らし合わせ、ここはいいけどこっちはもう少し付け足した方が良くないか?などと一人ブツブツ言っていたが、息を一つ吐き出すと作業を中断した。

 (俺一人じゃ堂々巡りを繰り返すだけだ。どれ、佐久間先輩は起きてるかな。いやそんなわけはないと思うがとにかく電話して状態を聞くか。どっちみち午前中はダメだろうけど)

博之が電話をしようとしている佐久間はやはり中途入社で六つ年上の主任クラスの社員である。そろそろ係長昇格も近いだろう。隣のラインではあるが入社以来何かとアドバイスを寄越して博之もまた相談事を持ちかけたりしていたから今日はQCに関する話だけでなく仙台時代のことを洗いざらい言ってしまうつもりになっていた。思えばこの2年半の間、頑なに自分に蓋をしてきたけれどそれももう限界に近づいてきたのがひしひしと感じられる。年が明ける前に話してしまいたい。QCの相談が一段落した後で今日話そう。夕べの時点でそう考えていた。(今日しかないんだよ)由里子に交際を申し込んだ時、頭に浮かんだ言葉だっただろうか。そんな言葉が再び頭の中を駆け巡るのと同時に受話器を取り佐久間の家に電話をした。電話のそばには誰もいないようで13コール目でようやく佐久間本人がいがらっぽくしかも弱々しい声で出た。

「なんだ笹山君か。どうした、ああそうかQCサークル活動のことで話があると言ってたな。悪い、午後でいいか。今はこうして電話で喋るのも辛いんだ。夕べ何時に何処から帰って来たことさえ定かじゃないんだ。まあそういうわけだから」

 「分かりました。それでは一刻も早い回復を祈るためにビールを持って参上致します」

 こんな軽口を叩けるのは佐久間だけだ。しかしひた隠しにしていたことをオープンにして本当の自分をさらけ出せば他の人間に対しても今までのように生返事をしながらぶっきらぼうな態度で接することも無くなるだろう。当然のように釣りも再開したいという気持ちも沸き上がって来た。佐久間は釣りもする。いや佐久間だけではなく社内に釣り愛好会があって博之が入社して間もなく勧誘を受けたのだが、釣りは好きだが危うく船から転落しそうになって以来トラウマに陥り今では岸壁に係留されている船を見ただけで足がすくむという苦し紛れな嘘をついて断りを入れていた。

 (そうだな、釣り談義するのもいいな。ついでに愛好会にも入れて欲しいと頼んでみるか)

 QCとかけ離れた事が頭をずいぶんと支配したがそれでも資料はキリのいいところまでまとまった。自分の二日酔いは完全に治まったので佐久間の家に出向くことにした。時計はすでに午後2時を回っている。陽が落ちるのも早い時期だ。それでなくても佐久間の家はけせもい市でも二瀬地区という海から離れた山あいにある。博之のアパートから車で30分ほどのところだが里山という風情をしっかり感じ取れる。佐久間は施津河町の出身である。実家は水産養殖業を営んでいるが縁あって二瀬地区の農家に婿入りした。博之と懇意になったのは互いに釣り好きということもあるが博之が少しばかり沿岸漁業のことを分かっていることから自然と休憩時間にあれやこれや話をするようになった。もちろん隠し通さなければならないことは細心の注意を払っていたが釣りを封印している理由については佐久間は嘘であることをとっくに見抜いているのかも知れない。博之の方から腹を割って話すのを待っている。ここ数ヵ月そんな雰囲気を佐久間から感じていたから話す気になったのだが国道から二瀬地区方面へ向かう枝道へ入る手前のパーキングに車を止めて空を見上げ一息ついた。相変わらず優柔不断な性格がここに来て顔をもたげる。

 (やはり黙っていて今まで通りに仕事を続けた方が良いのだろうか。分からなくなってきた)

 空を見上げたままでいたら流れてきた雲が人の形に見えた。それを由里子になぞらえてしまう。思わず雲に向かって問い掛けてしまった。

 (なあ、由里子。お前が居なくなってもう3年になる。俺はそろそろ釣りを再開してはダメかな。これから仕事のことで今の会社の先輩に相談があって家に行く途中なんだけどその人も釣りが好きでさ、俺は嘘っぱちな理由で釣りが出来ないことにしてるんだよ)

 (そんなつまらない封印はさっさと解きなさい。3年一区切りでいいじゃない)

 人の形をした雲がそう語りかけてきたような気がした。いや無理にでもそういうことにしたかった。以前の自分ならば優柔不断さに負けて楽な方向に逃げていただろう。由里子に見立てた雲は足早に流れ去り影も形も無くなった。

 「おっと急がないとな。日が暮れちまうしいい加減、佐久間さんも二日酔いから立ち直っただろう」

 博之はハンドルをポンと軽く叩いた。佐久間の家は何度も訪れているからすっかり馴染みになっている。典型的な田舎の旧家の造りで間取りも広いので寝る場所にも困らないゆえ休日前には食事をご馳走になったり時には泊まったことが数回ある。博之が独り身ということで好意に甘えてきた格好だがこれからは徐々に遠慮しなければという思いも浮かび始めていた。枝道を走ること約10分で佐久間の家の門が見えてきた。二瀬地区は紅葉の進み具合も市街地よりも少しだけ早いようで赤と黄色のコントラストが目に鮮やかに映った。

 「おう、来たか。上がれよ。いやあ全く飲み会のたんびに翌日は一人で反省会ばかりやる羽目になる。やっとこさ話を出来るくらいには回復した。しかし反省会の教訓は一度として活かされないのは残念の一言に尽きるな」

 博之が訪れる直前まで布団の中の人で居続けたのだろう。佐久間はボサボサに逆立った頭髪を掻きながら玄関に姿を見せた。そこは旧家らしくかつては土間だったであろういわゆる三和土の体裁を保っているが博之の父親の実家も似たような造りなので特に気に留めたことはないが佐久間にとっては実家もまた同じような構造なのが多少気に障るようだ。まさか三和土のある家に婿入りすることになるなど誤算だと結婚直後はしきりにこぼしていたらしい。このような造りの家は玄関を開けるとすぐに来客から団欒中の様子が丸見えになるのが堪らなく嫌だから結婚したら絶対に近代的な家に住むのだと息巻いていたものの何の因果か海沿いから山あいの三和土のある家に移動しただけという皮肉な結果となった。

 佐久間の妻は今でこそ専業主婦だがかつてはM食品で女工さんとして働いていた経歴がある。つまり佐久間とは職場結婚だ。佐久間が見初めてからの猛アタックが実ったまでは順調だったが佐久間は次男であり妻の和代は3人姉妹の長女で婿入りが結婚の条件となった。佐久間はその条件を飲む代わりに二瀬の家には義両親とはすぐには同居せずに若いうちは市内の職場から近い場所に部屋を借りたいという希望を出したが義父は待ったをかけた。婿入りする以上は家業である農業をいずれ継いで貰わねばならない。ならば最初からこの家に住んで早く農業のことを覚えた方が得策だし男手も欲しいのが本音だ。新婚生活を二人で過ごしたい気持ちは理解出来るがこの家は広いから十分にそれは可能だし釣りに行くのも酒だっていくら飲んでも口出しは一切しない。自分も飲むから晩酌の相手も欲しい。そうなればお互いに酒も旨く飲める。いいことづくめではないか。完全なまでの殺し文句だったがそこまで言われては佐久間にはもはや反論する言葉が何一つ出て来なかった。当時は簡単に受け入れてしまったと悔やんだが今となっては結果的に正解だったと博之は聞いていた。それはこんな時間まで二日酔いの痕跡が残るほどに飲んで帰宅しても文句の言葉が全く出ないことに表れている。だから博之は挨拶代わりのビールを躊躇うことなく佐久間の眼前に置いた。

 「先ほどお約束した品物です。だけどその様子を見る限り今日は無理っぽいですね。奥さんかお義父さんに渡した方が良さそうだな」

 「何を言う。よけいな心配は無用だ。明日飲む」

 佐久間が手を伸ばしたところへ別の手がヒョイと袋をかすめ取った。

 「ダメです。あんたは向こう三日は休肝日。夕べはどのくらい飲んだか知らないけど帰るなりここでドテッと寝てしまって布団まで引っ張るのが大変だったんだから。これはおじいちゃんと私で飲むから預かります」

 かすめ取った手の主は和代であったが文句を言いながらもその顔には笑いが溢れている。酒についてはいくら飲もうと文句は言わないと自分の父親が宣言した手前本気では怒れないのだ。それに博之が持って来たビールを取り上げたところで冷蔵庫にはしっかり在庫が常備されているはずだ。佐久間のことだから晩飯の後に飲むに違いないがさすがに今夜は缶ビール1本ほどで済ますだろう。それほど強烈な二日酔いの名残がまだ感じられた。

 「あの佐久間さん、本当に大丈夫ですか。QCの資料の骨子がだいぶ固まったんで目を通して貰いたいんですけど」

 博之は時化が収まったばかりの海のような濁った顔をした佐久間に恐る恐る資料を差し出した。佐久間は大丈夫という態度を強調しながら資料を受け取りボサボサ頭を軽く叩きながら真剣にページをめくった。

 「う~ん特にこれといった問題は見当たらないな。しかしだな少しテーマが重すぎやしないか。それに対象となる範囲が広過ぎるなあ。確かにお前んところでこれを押し進めてることは知ってるがもっと絞り込めないものか。これじゃ煮詰めて行くのは相当難儀するぞ」

 「正直に言いますとね。削りたい部分もあるんです。だけどどこを削っても全体のことを考えるとテーマとしての成り立ちが軽くなってしまうんですよ。それにこの改善案を出したのは女工さん達ですしメーカーや鉄工場との交渉に当たったのは課長と係長で俺はただその事実を資料としてまとめてるだけですから楽をするために削るなんてことは出来ません」

 「そうか、お前がそう言うなら仕方ないな。もっとも俺だったら簡潔なテーマにしただろうな。お前は俺と違って考える力があるから妥協したくないのだろう。まあ一つ言えることは数字的なことだ。誰しもやるんだが改ざんってヤツだ。あまり派手にやるんじゃないぞ。ほとんど改善効果も見られないのに、さもこれだけ生産性が向上しましたなんてしたり顔で言ったら解ってる連中から失笑を買うことになる。工場長や課長といった管理職はもちろんだが一般社員でも見てるヤツはしっかり見てるからな」

 「そのことなら心配ありませんよ。日報を書くために普段からメモを取っているノートの数字と実際の原料や時間的なロスとの誤差はだいたい把握していますからどこまでいじれるかは計算出来ます」

 「なんだ。俺に助言なんか求める必要なかったんじゃないのか。そこまで考えを巡らせてたならこの面倒なテーマでも十分いい資料を書けるぜ。あとは発表会でのパフォーマンスに全てがかかる。上位入賞も狙えるかもな。それよりボチボチ釣りを再開する気はないのか。もちろん今年はもう誘うつもりはないが船で怖い思いしたと言っても海に落ちて鮫に食われそうになったわけでもなかろう」

「そのことなんですが再開したい気持ちはちょっと前からふつふつと湧いて来ていたんです。そしてやれなかった理由としていた船で怖い思いをした、それは嘘だったんです。今日はQCサークルの相談もですがその嘘の釈明をするつもりでいたんです」

「嘘だった?その釈明だと。なんだか分からんがやけに深刻そうな感じだな。よんどころない事情があるなら無理して言わんでもいいぞ」

「いえ、そうはいきません。嘘は嘘ですし釣りを再開しなければならない理由もまたあるんです。だから本当の事を話さないと筋が通りません、釣りの愛好会に入会する資格もないと思っているので」

「分かった。それでお前の胸につかえているものが取れるのだったら聞いてやるよ。愛好会には入れるから心配すんな」

「ありがとうございます。話してしまえば肩の荷が下りるような気がします」

博之は仙台での暮らしをかいつまんで佐久間に語り出したが由里子が息を引き取って車に飛び乗り仙台新港へと向かうところまで話が及んだ時に佐久間がストップをかけた。

「もういい、それ以上は話さなくても事情は飲み込める。しかしそんな話がまた、いやなんでもない。とにかくお前は今までそんなことはおくびにも出さずによく頑張ってきたよ。だから時々心ここにあらずって感じで独りボンヤリとしていることもあったんだな。よしここで吐き出したんだから明日から会社ではもっと堂々と振る舞ったらいい」

佐久間は涙を拭きながら博之の肩に手を置いた。傍らで聞いていた和代も相づちを打った。

「そうよねえ、世の中は広いから似たような話はあると思うけど当事者にしてみれば切実極まりない問題だもの。でもね笹山さん、ウチの人が言うようにここで話しちゃったんだから会社でも殻を破らないと女工さんに丸め込まれるのがエスカレートする一方だと思う。これは元職としての私からの助言」

 和代が工場時代を懐かしむように言った。佐久間もさっきからがぶ飲みしていた日本茶が身体中に染み渡ったのか博之の話で気持ちが揺さぶられたのかは定かではないが二日酔いのトンネルからすっかりと抜け出したようだ。

 「笹山君。俺はその由里子さんがいつまでも釣りを再開しないでいるお前を天国からじれったい気持ちで見てると思う。昔、釣りキチ三平って漫画があったろう。読んだことはあるか。その漫画で三平が初めて海釣りに挑んだストーリー、石鯛釣りだったな。三平の釣りの師匠である魚紳さんの過去が明るみに出るというシーンがあった。子供の頃に父親と行った昼間の釣りが不調でゲン直しに出掛けた夜釣りの防波堤で父親が振った竿の仕掛けが魚紳さんの片目を直撃して失明した。それ以来、父親は釣りからキッパリと手を引いた。由里子さんが亡くなったのは釣りが原因ではないだろう。だからいつまでも引きずるのは無意味だよ。来週で3年になるのか。区切りをつけるには俺もいいタイミングだと思う。それにさあ、お前。パチンコはしれっと止めずにやっていたのもおかしな話だぞ。もっともそれが俺達を欺くための手段だったなら納得出来るがな」

 「そうです。パチンコだけ止めずにいたのは代償行為だったと言えますね。休日に部屋で籠りっきりなんてのは無理ですからパチンコが一番手っ取り早いし勝っても負けても気持ちを逸らすことが可能でした。それと釣りキチ三平なら俺も読んでました。石鯛釣り編では魚紳さんがルール破りをした若者達を懲らしめるシーンが面白かった。昼間、若者達のリーダー格の男にサングラスを割られて魚紳さんが隻眼であることが三平に知れてしまった。それでも魚紳さんは動揺することなく仕置きをして夜にサングラスを直しに出掛けその帰り道に待ち伏せしていた若者達を再び返り討ちにして宿へ戻り両親と対面してわだかまりが解けるという展開でしたね。それとは違うんですが俺自身どこか意固地になってたのが少しほぐれた気がします。ああそうだ佐久間さん達は五目釣りというのもやるんですよね。それって難しいんですか。仙台にいた時は専らアイナメとカレイ狙いしかしてなかったんです」

 「そんな難しくもないよ。水深のあるポイントでアイナメを狙うイメージだな。かなり起伏のある根回りを攻めるんだ。だからタックルはカレイ釣りのものより長くて重い。餌は生きイワシやドジョウ、サンマの切り身等を使う。メバルが束になって掛かると面白いぞ。あっという間にクーラーボックスが一杯になる。それとヒラメだ。ヒラメは単独で狙ってもいいが状況が悪いとボウズを食らうから俺達も愛好会でのマッチレースには組み入れないんだ。しかし五目釣りの時、仕掛けの下にヒラメ狙いの針を垂らしておくと思いがけずデカイのがヒットすることがあるんだ。五目釣りにはそうしたスリリングさがある。来月にはボーナスが出るからこの機会に五目釣りタックル一式を揃えてしまわないか。俺が釣具屋に一緒に行ってやるからさ、ちょうどリールを新調しようと思っていたんだよ。とと、なんだよ痛えな。和代、何をしやがる」

 和代は佐久間がボーナスでリールを新調するということにいたく不満を覚えたようで佐久間の二の腕を思いきりつねった。

 「あんたねえ、ボーナスのたんびになにかしら新しい釣具を買ってるじゃない。謙一が来年には中学校に入学なんですよ。いろいろと物入りなんだから今回は笹山さんのアドバイザー役だけにしときなさい」

 博之は二人のやり取りを見てふと仙台でのことを思い出した。あの頃は緒方夫婦も同じような掛け合いをやっていてそれに自分と由里子が加わり盛り上がったが今日も一人で眺めているだけだ。それでも淋しいという感情が沸き上がることはなかった。

 (やはり全てを話して正解だったな。確かに由里子は魚紳さんの父親と違って釣りそのものに翻弄されたわけではないんだ)

 外を見るとすでに太陽は山の端に姿を隠しつつある。博之はQCサークルの資料を鞄に仕舞い帰り支度を始めた。

 「それじゃあ今日は二日酔いという自己責任から生じた体調不良の中ありがとうございました。へへっ佐久間さん、ボーナスが出たらすぐに釣具屋に行きましょう。五目釣りのタックルがどんなものか楽しみで仕方ありません」

 博之はまたもや煽る口調で言ったが二人とも乗って来ない。和代に至っては真面目な応対に様変わりしている。

 「あらあらせっかくだから晩御飯食べて行ってくださいよ。今日は休日前じゃないし二人とも二日酔い明けだからお酒は出しませんけど」

 和代は博之の分も夕飯を用意するつもりでいたようであるが博之は丁重に断りを入れた。

 「いえ、今日は遠慮しときます。これから実家へ行って両親に話したいことがあるんです」

 博之の方便であった。

 (今まで不便をかけることはなかったとはいえ嘘をついていたんだ。だから今日だけは夕飯を頂くわけにはいかない。だが実家へ行くのも悪くないな。釣り道具を引っ張り出してみようか。埃を相当に被ってるだろう」

 ひさしぶりに釣りの話をしたら道具をいじりたい気持ちが起こって来たのである。アパートに置くと心が揺れ動いて仕事に集中出来なくなるのを恐れて実家の物置に仕舞いっぱなしにしておいた。しかし来年から再開するとなれば眠らせておく理由はない。

 (とりあえずは由里子の形見の竿とリールだけでも部屋に持ってきて写真立ての前に置くことにしよう)

 二瀬地区から国道へ出る頃にはもうすっかり薄暗くなっていた。中途半端な闇の中を舞う枯れ葉は物悲しさを増幅させるが、博之は来週の由里子の命日を迎えても去年までのような落ち込みを覚えずに済むのではないか。そんな気がしてならなかった。


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