『こうして少年はまたひとつ大人になった』(7)
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半ば諦めるような気持ちで、俺は玄関のチェ─ンをはずし、曜子と名乗った女をリビングに通した。炎天下、長時間待たせた後ろめたさもあって、冷蔵庫から新品のペットボトルの麦茶を出し、そのまま相手に差し出す。
女の額に、いや、肌の露出した部分全体に、玉のような汗が吹き出している。女は頂きます──と頭を下げてから麦茶を飲むと、小さな青いハンドバッグからハンカチを取り出し汗を拭った。
なぜか暑い──とは言わない。
この人はなぜ、普通の人が普通に言うはずの言葉を口にしないのだろう。あのときも、そしていまに至っても。
まるで、なにか悟りを得るまで過酷な苦行を重ねることを胸に誓った修行僧のように、この人の決意は揺るぎを見せない。俺は自らの判断でエアコンの温度を限界まで下げる。
「あの、とりあえず、そこ座ってください」
立ち話をするような場所でもない。てきとうに席を勧めて俺も椅子に腰掛ける。テ─ブルを挟んで向かい合うような形になった。
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さて、なにから話すべきか。聞きたいことはいくつかある。
──お袋との関係。
──葬儀で見せた態度について。
──そしてなぜ、いま俺の前に姿を現したのか。
どこから尋ねるべきだろう。俺が考えを巡らせている矢先、女は先んじるように口を開いた。
「あの……迎えに来るのが遅くなってごめんなさい」
「あなたの監護権とか色んな手続きで……想像してたよりずっと時間がかかってしまって」
「夕凪もあっちで待ってますから」
「だから………一緒に行きましょう」
一気にまくし立てられ、俺の思考はフリ─ズする。相手の言っていることが、ひとつも理解できなかった。
俺はなにか悪い夢でも見ているんだろうか。
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女の言葉を反芻し、疑問点を整理してみる。
迎えに来るのが遅くなった?
──誰が誰を迎えに来たんだ?
俺の監護権?
──監護権っていったいなんだ?
想像してたより時間がかかった?
──何に時間がかかったんだ?
夕凪?
──どこのどいつだ?
一緒に行く?
────────どこへ?
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呆然と身体を硬直させ思考停止している俺をよそに、この人は頬を緩ませ満面の笑みを浮かべている。
俺と話すのが楽しくて仕方ないという風に。その瞳の色はどこまでも澄み切って、豊かな輝きに満ちている。
あの告別式のときに抱いた疑問。そしていまこのときにも新たに湧いてきた疑問
──この人の目は笑っているときも、怒っているときでさえも、なぜこんなにまで変わらぬ優しさを保ち続けているのだろう。
俺の沈黙を了承の証しとでも受け取ったのだろうか、バッグから銀色に光る小さな物体を取り出し、俺に見せるように左右に揺らす。
銀色の物体の正体は車のキ─だ。まだ運転免許の取れない俺にだってそれくらいは分かる。
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そして囁く。慈しみ深い笑顔を湛えながら。
「車、近くの駐車場に停めてあるんです」
「あちらでの生活に必要なものは大体手配しておきましたから、今すぐにでも出発できますよ」
「何か持って行きたいものはありますか?」
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巨象の前に唯々立ち尽くすアリのように、俺は言葉を発することができない。もはや何を疑問とすべきなのか、それさえ上手く考えられなかった。
「あっ、ひょっとして施設のことを心配してますか?」
「大丈夫、<キャンセル>しておきましたから」
「今日か明日にでも、施設から本人への意思確認の電話がかかってくるはずです」
「事情を上手く伝えられないようなら、途中で私に代わってくれて良いんですからね」
◇◆◇◆◇
俺の脳はもはや思考という行為を完全に放棄し、間の抜けたエマ─ジェンシ─の警報音だけが脳内に木霊する。
早くも前言を撤回したい。この人はたしかに優しげだ。実際限りなく優しい人なんだろう。
でもそれだけではない。そんな[生易しい]人ではない。この感覚はなんと形容すればいいのか。 あえて言うならば、
──この人は限りなく優しい。
──そしてそれ以上に、恐ろしい。
──どうしようもない程に。
そして混乱の極みに達しつつあった俺に、トドメのように呟いた。
「ああそうそう。御礼を言うのが遅くなってしまいました」
「麦茶、ごちそうさまでした」
そう言って立ち上がる。俺をどこかに連れて行くために。より正確に言えば、その鋼の意志と不屈の精神を以って、何一つ事情が分かっていない俺を、
────拉致するために。




