『こうして少年はまたひとつ大人になった』(6)
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──いまになって、そのときの曜子さんの心情が理解できるような気がする。
曜子さんとしばらく一緒に暮らして、少しはその人となりを知ることになったいまだから、理解できることだ。
──そのとき、曜子さんは怒っていた訳でもないし、無口でいようとしていた訳でもないだろう。
何か言わなければ、励ましてあげなければ、そう思っていたはずだ。
──だが「本当に大変だったね」とか、「辛いだろうけど挫けず頑張って」とか。
そんなお決まりの、しかし何の意味も為さない言葉が、曜子さんにはどうしても口にできなかったのだろう。
そして、突然両親もこれからの未来も失った俺の前で声をあげて泣くことを、自らに固く禁じていたのだろう。だから口元は引き締まり、涙を拭うこともせず、怒ったような顔に映ったのではないか。
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──懐かしいというにはあまりに衝撃的な、あのときの光景がフラッシュバックされる。
インターホンの液晶画面には、あのときの女が映し出されている。くそ暑い夏の盛りだというのに、女の佇まいは不思議と暑さを感じさせず、どこか超然としていた。
──あのときと同じだ。
あのときこいつが、貝のように口を閉ざしていたように、なぜか涙を決して拭わなかったように、握りしめた俺の手を自分からは決して離そうとしなかったように、こいつはここを決して離れないだろう。
俺が諦めて玄関のドアを開けるまで。
──俺はインタ─ホン越しに話しかけた。
そうする他なかった。
「どなた……ですか?」
一度会ったことのある人間に名前を尋ねるのも失礼だが、そもそも俺はこいつの名前を知らない。こいつがあのとき一言も喋らなかったのだから、知っているはずがない。
──ああ、こんな短い言葉を話すのにも喉が乾く。
そういえば人と話すのも随分久しぶりだ。突然俺が話しかけたことに、女がハッと息を呑む気配が伝わる。女の目にかすかな決意の光が宿るのが、画面越しにも分かった。女が口を開く。
「突然お邪魔してごめんなさい。悠悟くん…ですよね?私は土岐川曜子と言います。あなたのお母さんのずっと昔からの友達……です」
間を空けて、ゆっくりと静かな口調だった。
──友達でした、ではなくて、友達です、か。
なぜか少し泣きたくなった。
◇◆◇◆◇
こちらからの返事も相槌もなかったからだろう、曜子と名乗った女性が続ける。
「悠悟くんのことは由紀子から何度も聞いていましたけど、直接お会いしたのは告別式が初めて……になってしまいましたね」
由紀子というのは俺のお袋の名前だ。
「あのときは何も言ってあげられなかったから……悠悟くんは私のことを覚えてないかもしれませんね」
「…いえ。覚えて……ます」
名前は知らなかったが覚えている。それくらいこの女は衝撃的で印象的だった。
俺が会話を続ける気になったのを悟ったのだろう、曜子と名乗った女性は初めてにこっと小さな笑みを浮かべた。
「じゃあ一緒にちょっとお話ししませんか?部屋の中でも、外でもどちらでも構いませんから」
突然の提案。まあ想定される内容ではあった。インタ─ホンでずっと話すわけにもいかないだろう。
しかし──
◇◆◇◆◇
俺は黙考し、長く細く息を吐いて必死に呼吸を整え、思考を整理しようとする。激しく動揺しているのを自覚する。
──俺はいま、どうすべきなんだ?
──この女に、どう応えるべきなのだろう?
あと数日もすれば俺は施設に移される。それで俺の当面の人生は確定し、担保される。ロクな場所でないことは、施設に行く前から分かっている。
だが、そこには煩わしい身内も知り合いも警察もマスコミもいない。それはある種、俺にとっての救いになるはずだった。
ロクでもない施設。しかし最悪ではない場所。
最悪の場所は──ここだ。いま俺がいるこの場所、そのものだ。
◇◆◇◆◇
だからいまこの女と接触することは、危険を伴いはしないか?この女は危ない。危険すぎる存在だ。ほとんど面識のない相手であるにもかかわらず、俺の直感が脳内でアラ─ムを鳴らし、警告している。
この女は周りの大人となにかが違う。
──親族だから面倒を見なければという義務感。
──顔見知りだから相談に乗ってやらねばという使命感。
──あるいは単なる同情と憐憫。
そのいずれをも俺に感じさせない人は、この人が初めてだった。
だから、この人はなにか俺にとって決定的な、クリティカルな存在になり得る。そんな危険性を秘めてはいないだろうか。
ぐるぐると思考がまわる。思考は壊れた扇風機のように回転し続ける。なぜこの女はこんなにまで俺を不安にさせるのか。
──ああっ、考えがまとまらない。
女は無言のまま、相変わらずじっとインターホン越しに俺を見ている。
この人は待つだろう。俺が応えるまで、何時間だって。




