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破断の帰路

作者: 武庫川燕

 東京に帰る荷物をつめたキャリーバッグを持ってホームに立っていた。雪の降る夜だった。


 誰もいないホームは、すべての音が雪に吸収されてしまっているかのように静まり返っていた。駅窓口はもうとっくに閉まっている。田舎の駅は窓口の営業時間が短いのだ。手にした乗車券と宇都宮からの特急券は夕方、窓口が閉まる直前に何とか買ったものだ。


 実のところキャリーバッグにはほとんど何も入っていなかった。中に入っているのは衣類が何着かとほんのわずかな食料、それに水の入ったペットボトル一本だけだ。教科書と大学ノートは全て捨ててしまった。もう二度と使うことのないものだからだ。大学にはもう既に退学届けを出し、住んでいたアパートも引き払っている。


 静かな夜だった。ここまで静かだと逆にしんという静寂の音が聞こえてくるような錯覚に駆られる。そして、周りが静かであればあるほど頭の中では取り留めのない思考が渦巻いた。俺は、東京を出てこの地へ来てからの二年間とは一体何だったのだろうかと考えた。


 東京にいた頃は母と今年社会人になった兄、それに当時まだ中学生だった妹と四人で暮らしていた。父は俺がまだ小さかった頃に癌で死んだ。だから、俺は父がどんな人物だったのかを正直あまり覚えていない。だが、時折兄から父の話を聞かされることがあった。俺の中の父のイメージの大半は兄の話によって作られたといっても過言ではないのだ。結果として父の存在は俺の中でそれなりに大きな位置を占めるようになった。少なくとも、最近まではそう思っていた。

「私は、幼い頃に父を癌で亡くしたのがきっかけで医師を目指すようになりました。父と同じように病気で苦しむ人たちを一人でも多く救いたいと思っています」

 二年前、俺は面接官に向かってそう言ったことを覚えている。綺麗事ではなく本心だった。医学部に入るために東京を出てまで地方の大学に進むことにしたのだ。相応の覚悟はあるつもりだった。遊び人だった兄に手を焼いていた母は、俺が医学部に受かったときすこぶる喜んでくれた。女手一つで俺たち三人をここまで育ててきてくれたのだ。当時の母には、俺はその労に報いた自慢の息子として映っただろう。こうして何もかもを失って戻ってきた俺を見て母は何を思うだろうか、それを考えるだけで憂鬱になる。下にもう一人妹がいるのは救いだった。母にとっての唯一の癒しはもう彼女しかいないのだ。


 そんな妹から写真付きのメールが送られてきた。

「彼氏とデート中♪夜景すっごく綺麗☆」

 そう言えば今日はクリスマスだったと思い出した。リア充爆ぜろと騒ぎクリスマス中止を訴える気力すら無かった俺はそのことをすっかり忘れていた。だが、一度意識に上った事実は心に憑りついて離れ難く、恋人どころか一緒に過ごす友人も家族もおらず一人駅のホームに立っている侘しさが今更のようにこみ上げてきた。せめてコンビニでチキンでも買えば良かったかと後悔した。しかし、そんなことよりも俺は母が不憫でならなかった。いくらクリスマスとはいえ、こんな夜遅くに外で男と遊び歩いている妹が母の願いを叶えられるとは思えなかった。妹はまだ高校生なのだ。

「いつでも正しく在りなさい。そして、他人のために尽くす人間になりなさい」

 母は度々その言葉を口にした。母の願いはことごとく打ち砕かれた。遊び人の兄は勿論、途中で全てを投げ出してしまった俺然り、幼いうちから夜中まで遊び歩く妹然り、母の苦労に報いる者など誰一人として居はしないのだ。母はもう想い出の中の父に癒しを求める外ないのだと思うとあまりの申し訳なさに胸が痛んだ。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。せめて、俺はこの二年間を振り返って深い反省を胸に刻まなければならないと思った。最初の一年間は良かった。ドイツ語こそ医学生の嗜みと豪語して森鴎外の小説の如く日常会話の節々にドイツ語を織り交ぜ度々駅員やら商店街の老夫婦やらを困惑させて過ごした。二年に上がって教養課程を終えたところで俺の学生生活は180度変わった。途端に講義に興味を持てなくなり、実習をやっても何一つ身になった気がしなかった。詳らかにされた人体の科学に薄ら寒さを覚えた。だが、医学生としてそんな感情を持ってはならないと思い何食わぬふりを続けた。テストでの酷い成績は道化の種にもならず、同級生からはひたすら憐みと軽蔑の目を向けられるばかりだった。息抜きに駅前に出てもシャッター商店街ばかりで気分が沈む、町に活気が無いのでやる気も湧いてこないのだと愚痴を零した。つまらない言い訳が地元出身の学生達の逆鱗に触れた。

 孤立無援の俺に見かねた親切な教授が精神科医を目指したらどうかとアドバイスをくれた。だが、俺は心ではなく身体の病気を治せる医者になりたいのだと言い張った。すべては虚構だ。こうして道を諦めた今になってようやくそれを悟った。俺は病気で苦しんでいる人々を救いたいと本心から願ってなどいなかったのだ。本当のところは、ほとんど記憶にない父親でも自分の人生に大きな影響力を与えているのだと信じていたかっただけだ。両親を何より重んじる清く正しい人間を気取りたいという卑しい欲望と自己満足の怪物こそがこれまで俺を動かしてきたものの正体だったのだ。


 駅のホームに設置されている時計の針は一向に進む素振りを見せなかった。先ほどから物音一つしないのは降りしきる雪が時を止めてしまったからなのではないか、俺はふとそんな錯覚に襲われた。俺はホワイトクリスマスという言葉を必死で頭に思い浮かべた。特定の日に名前を付ける行為は、過ぎゆく時の流れの中で相対化された時間軸上の点において初めて意味を持つ。だから、もしも今日この日をホワイトクリスマスと呼ぶならば、それは凍てつき止まってしまった時の流れに対する無意味な抵抗でしかない。俺の中の時はもうとっくに止まってしまっていたのだ。それはいつからだっただろう。今年の頭に迎えた成人式の時か、それとも夏頃に受けたバイトの面接に落とされた時か、はたまた大学に入学した時か、いや、もっとずっと前からだったような気がする。受験で中学に入って以降の俺は、とりあえず学校の勉強だけやってあとは医者にでもなろうかなどとぼんやり思い浮かべながら漫然と時を過ごしていた。学生の間はそれだけで十分に通用した。だから、俺はその地位に甘んじてあらゆることを考えるのを止めてしまったのだ。その結果として俺の心の奥底には曇り空が広がり、光は乏しくなり、そしていよいよ冷え込んで降りやまない雪を積もりに積もらせ、ついに完全に心を凍てつかせてしまったのだ。


 現実世界の時は俺を置いてけぼりにして進んでいく。止まっているように見えた時計の針が一つ進んだ。ヘッドライトの光がホームを明るく照らす。黒磯行きの電車が入ってくる。最終電車であることは分かっていた。だが、俺はその場から動くことが出来なかった。たった二年の時を過ごしただけのこの地に未練などなかった。ただ、行く先に待つ煌びやかなイルミネーションが恐ろしかった。それらは襲い掛かるようにして俺の全身に突き刺さり、すべてを投げ出してのこのこと帰ってきた俺の不甲斐なさと親不孝を糾弾するだろう。ドア横の「ひらく」ボタンのランプが消える。俺一人を残して電車は夜闇へと去って行く。手にしたきっぷの有効期限は二日間あった。だが、仮に今日で期限の切れるきっぷだったとしても俺はこの場を動くことが出来なかっただろう。


 白く舞う雪はいつしか牡丹雪に変わっていた。水分を多く含んだ重たい雪がぐしゃりと鈍い音を立ててホワイトクリスマスを水浸しに溶かしていく。風情も華やかさもなくただただ無粋なだけの波状攻撃だった。濡れた服が肌に纏わりついて体温を奪っていく。体が重く、動くのが億劫だった。

 夜闇が牡丹雪を灰色に染める。モノクロームが俺の視界を塗りつぶす。霞む景色の中に、いつまでも変わらない停止信号の赤が浮かび上がっていた。

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