二股ツメクサ
頭の上から熱を感じ、伏せていた顔を上げる。熱の正体は、向かいに建つガラス張りの建物に反射した夕日だった。夕方になると一時間ほどこの研究室は反射された夕日に照らされる。
前日の徹夜が響いていた俺は、午後の授業を一コマ終えると研究室のデスクにつっぷして仮眠をとっていた。夕日に照らされ目を覚まし、寝ぼけ眼で掛け時計に目をやると一時間ほど眠っていたのが分かった。周りを見渡すと、研究室内には他に誰もいなかった。出入り口用ドアの横にあるキーハンガーに視線を送る。二つあるはずの鍵が、そこには一つしかなかった。
「みんな下か」
そう一人でつぶやいて俺は重たい腰を上げた。なくなっているほうの鍵は、研究室の下の階にある実験室の鍵であった。きっと他の生徒たちは実験室にいるのだろう。俺は、実験室へ行くべく研究室を出た。
研究室から実験室へ行くには一度棟から出て外にある階段を下りていく必要があった。廊下に出た俺は、外の階段につながる扉を開け階段を下りる。すると、階段下に二人組の女子学生が座り込んでいるのが見えた。階段を降りてすぐのところは細くなっていたため、しゃがみこんでいる女子学生たちをひどく邪魔に感じた俺は、二人の背中をにらみつけた。すると、彼女たちの背中越しに一人がスマートフォンを出しているのが見えた。気づいてすぐはなんとも思わなかったが、彼女たちの横を通り過ぎるあたりでスマートフォンを持った女子学生の構えから写真を撮っているのだと気付いた俺は疑問に思った。一体、彼女らは何を撮っているのだろう。
俺の記憶が正しければ、こんなところで写真に収めるものなどなかったはず。しかし、「何を撮っているのですか」と、知らない女性に声をかけるなど俺にはハードルが高く、その時は首をかしげながら実験室へと向かった。
後日、友人の西野と学食で昼食をとっているとき、ふと階段下の女子学生二人組を思い出し、その時のことを話題に出した。
「……それで、あまりに気になったものだから女子学生たちをちらちら振り返りながら歩いていたら、水たまりに足突っ込んじゃってまいったよ」
西野は、聞きながらカレーをほおばり鼻で「ふふ」と笑った。
「それで、彼女たちは何を撮ってたと思う?」
俺は、ラーメンのスープを飲み干すと西野に尋ねた。
「ん?ああ、階段下の」
突然質問された西野は、湯呑の水を一口飲んだ。
「さあ。なんだろうね。あそこにそんな珍しいものなんかなかったと思うけど」
「そうなんだよ。だから不思議でね」
俺と西野は二人そろって腕を組み、目の前の不思議に唸った。
「二人はしゃがんでいたんだよね」
「そうだよ」
「ということは、しゃがまないと取れないもの、またはしゃがんだほうが撮りやすいものを撮っていたってことだよね」
「そうなるかな」
「だとすると……」
何かわかったのか、と西野の次の言葉を待つ。しかし、西野はなかなか口を開かず、目を閉じたままうつむいている。すると、「くぅー」と、わざとらしい寝息が返ってきた。
「古いボケかましてんじゃない」
寝たフリをしている西野の頭を勢いよく叩く。
「あ、わかった」
叩かれて目を開けた西野は、ひらめいたと笑顔になった。
「覗きだ」
「バカ野郎」
俺は、もう一度西野を叩いた。
「階段下にいた二人組は、女だったって言っただろ」
「いやいや。最近の女はわからんぞ。よく女同士でイチャイチャしてるじゃないか。それに、下から撮るものと言ったらスカートの中に決まってるだろ」
言い切った西野は固くこぶしを握りガッツポーズをした。
「決まってねーよ」
やり切った顔の西野を見て、俺は力なく突っ込んだ。
「もし、仮に女の人がスカートの中を盗撮するとしても今回は違うよ」
空気を変えようと、俺は咳払いを一度してから話した。
「お前も知ってると思うが、あそこはあまり人が通らない。それに、あの時は四コマの授業時間だったからあそこには俺と彼女ら以外に人はいなかった。だから、覗こうにも覗くものがなかったんだよ」
俺の説明を聞いた西野は小声で「つまんない」と、呟いた。
「じゃあ、いったい何を撮ってたんだ。その女子学生たちは」
ふてくされた西野は、少し語尾を強く言う。
「わからないから聞いてるんだろ」
西野を怒らせないように、けれど少しあきれ気味で俺は答えた。再び腕を組む二人。沈黙が流れる。西野を見ると口が動いていた。彼は考えを整理するとき、このように自分にしか聞こえないトーンでぶつぶつと何かをつぶやく癖がある。
「二人はしゃがみこんでいたんだよな」
「少し前にそれは答えたよ。そうだ。仲良く二人肩をそろえてしゃがんでいた」
同じことを聞かれた俺は、少し腹が立ち皮肉っぽく答えた。しかし、そんなことは気にせず、西野は冷静に話す。
「下から上を撮っていないとすると、単純に下にあったものを撮っていたんじゃないか」
「なるほど。そうかもな」
自分の腹立ちに気付いてもらえなかったことに少し寂しさを感じたが、西野の雰囲気から指摘するのはやめた。
「確か、あの階段の隣に花壇があったんじゃないか」
「ああ。あの雑草ばかり生えてるとこ。囲ってはあるが、花壇には見えないな」
実験室へ行く階段を下りてすぐ右にロープで囲いが作られている。囲われているところは他と違って土が敷いてあり、花でも植えるのかと思ったが、一年通してそこには雑草しか生えていない。
「あそこでしゃがみこんで写真に収めるものと考えると、もう花壇にしかないだろう」
「雑草でも撮ってたって言うのか?」
「その通りだ」
「今どきの女子学生はわかんないねぇ。雑草撮るのが流行っているのか?」
「いや。きっと昔からそういうことはあったと思うぞ」
昔からと聞いて俺は驚いた。そんな常識のようなことが分からないのか。勉強はできなくても、常識だけは外さないよう心掛けてきた俺はショックで頭が揺らいだ。
「で、何を撮っていたんだ。珍しい雑草でも生えていたのか?」
一度頭を振り、気を落ち着かせた俺は西野に尋ねた。
「珍しいというか、特別な雑草って感じかな」
西野の言葉を聞いてもピンとこず、頭は傾くばかりだった。
「降参だ。回りくどい説明はいいから、教えてくれ」
考えるのをあきらめた俺は、肩を落として西野に頼んだ。その様子を見て西野は少し満足げだった。
「クローバーだよ」
答えを聞いたとたん俺の頭の上にびっくりマークが飛び出した。そして、なるほどと深く頷く。
「四つ葉のクローバーか。なるほど。それは確かにありそうだ。昔から四つ葉は幸せを呼ぶと言うしな」
「そう。ちなみに五つ葉のクローバーは金銭面の幸運を、二つ葉のクローバーは見つけると不幸になるらしいよ」
言い終えると、西野は周りを見渡した。
「さあ、なぞも解けたことだし、そろそろ行くか」
食器を乗せたお盆を抱え、西野は席を立つ。それに倣って、俺も食堂を出る準備をする。
「それで、その子たち可愛かった?」
食堂を出るときにやけ顔で西野は聞いてきた。俺は、「覚えてない」と、はぐらかして西野と別れ、研究室へと向かった。研究室へつながる階段に右足を乗せたところで振り返る。
「もしかしたらまだあるかも」
四つ葉のクローバーがあるかもしれないと俺は花壇に目を向けた。しかし、花壇を確認した俺は驚いた。そこには、四つ葉のクローバーどころかクローバー自体が生えていなかった。
「工藤さん、お疲れさまでーす」
研究室に戻ると、佐々木に声をかけられた。俺は、挨拶を返しながら研究室を見渡す。そこには佐々木しかいなかった。
「他は?」
「下じゃないですか」
「お前、いま暇か?」
「見てわからないんですか?」
佐々木は先ほどから俺のほうには目も向けず、ずっと文庫本を読んでいた。
「暇なんだな」
「なんでそうなるんですか。真剣に本を読んでる人が、暇なわけないでしょ」
ここで初めて佐々木と目が合った。その目からはあからさまに不機嫌さが出ていた。「まあまあ」と、俺は両手を上下に動かし、佐々木をなだめた。
「面白い話があるんだが、聞くか」
佐々木の目から不機嫌さが消えたところで俺は聞いた。
「今面白いお話を読んでいるので結構です」
即答された。
「きっと、お前好みの話だと思うんだがなー」
「……私の好みなんて知らないくせに」
今度は即答ではなかった。彼女の手元を見ると、本を閉じていた。こちらに体は向いていないが聞く気があることは伝わったので、俺はわざとらしく咳払いをしてから西野に話した内容をそのまま伝えた。
「……それで、さっき囲いを見たらクローバーなんて生えていなかったんだよ」
話し終えた俺は、やり切ったと汗を拭うフリを見せた。きっと佐々木は、興味深そうに目を輝かせているに違いない。俺は、そっと彼女に目をやった。
「はあ。よくそんな結論に納得しましたね」
しかし、返ってきたのは大きなため息だった。俺があまりにも阿呆面だったのだろう。彼女は、呆れた声色で続けた。
「あそこで四つ葉のクローバーを撮影するなんて、まずないです」
俺が、「なんで」と、口を挟む前に彼女は続けた。
「クローバーは、だいたい群れを成して生えています。だから、四つ葉のクローバーは見つけられると思うんです。あそこを通る人は、ほとんどが移動教室のために通ります。それ以外は、この棟に用事のある人間でしょう。
つまり、通り過ぎるだけの道端に四つ葉のクローバーを見つけることのできる人なんていないんです。それに、工藤さんの話だとクローバーが群れていることはないことになるので、本当にクローバーを撮っていたのだとしたら、そこには一、二本しか生えていなかったことになります。そんなものをあの雑草の中から、しかも通りを過ぎる半ばに見つけるのは、極めて困難かと思います」
「つまり、見つけられないものは写真に撮れないと」
俺の呟いた結論に「そうです」と、彼女は頷いた。なるほど、確かに。四つ葉のクローバーなんてそんな簡単に見つけられない。草むしりの時に偶然見つけるか、もしくはそれを目的に探していないと目には止まらないだろう。
「だとしたら……」
回答の矛盾を気付けたことに少し満足げな佐々木に問いかける。
「だとしたら、あの二人の女子学生たちは、いったい何を撮っていたんだろう」
二人の間に沈黙が流れる。気まずくなった俺は、壁に掛かった時計に目をやる。もう少しで夕日が部屋に入ってくる。もう一度佐々木に目を向けると、彼女は目を泳がせて「それは、それは」と、口をパクパクと動かしていた。わからないならそう言えばいいのに。
彼女に声をかけようとしたその時だった。オレンジ色の閃光が佐々木の目を一点に定めさせた。彼女の目は、夕日に照らされ光っているように見えた。
「それは、つまり下を撮っていなかったということです」
「えっと、何が?」
彼女の目に気を取られていて、いきなり口を開いた彼女の言葉の意味を俺はすぐに理解することができなかった。
「何がって、階段下の女子学生二人組が、いったい何を撮っていたのかという問いの答えですよ。まったく、質問しておいてボーっとしないで下さいよ」
「ああ、悪い。で、何を撮っていったんだって」
俺は、苦笑いを浮かべて佐々木に聞いた。佐々木は、「ふんっ」と、鼻を鳴らしてからしゃべり始めた。
「彼女たちは下から上を撮っていたんですよ」
「それは、つまりお前も覗きをしていたと言いたいのか」
俺の言葉を聞いた佐々木は、閉じていた文庫本を開いた。
「ウソ。ウソ。悪い。冗談だって。お前がそんなこと言うわけないよな。それで何を撮っていたんだ」
「……」
無視された。
「悪かった。ほんとに。もうふざけないから、教えてくれよ。何かわかったんだろ」
必死な思いが伝わったのか、佐々木は本を閉じてくれた。
「本当に教えてほしいなら、態度に示してください」
「お願いします。教えてください」
俺は、深々と頭を下げた。
「よろしい。では、教えてあげましょう」
顔を上げると、佐々木は満足気に微笑んでいた。先輩相手に物怖じしない彼女の姿は、男として憧れるものがあった。
「先ほども言った通り、彼女たちは下から上にあるものを撮っていたのです。下から見上げるように撮るのは、写真を撮る基本的な技法のひとつです。これは、さまざまな効果を生みますが、彼女たちはきっとその辺はあまり考えていなかったと思います。話を変えるようで悪いんですが、二人組の女子学生を見たのはいつですか」
「えーと、先週の木曜だな」
「なるほど。やっぱり。工藤さんは、その日雨が降っていたってご存知でしたか?」
俺は、先週の木曜日を思い出す。
「いや。気づかなかった」
「まあ、あの日はほとんど晴れていたので仕方ないでしょう。けれども、あの日の夕方、一時間ほど通り雨が降ったんです。工藤さんも言っていたじゃないですか。水たまりに足を突っ込んだって」
「はは。そんなこともあったな。でも、それが何か関係するのか」
「関係大ありですよ。むしろ、今回のキーと言ってもいいです」
そう言って佐々木は立ち上がり、俺の横を通り過ぎて窓の近くに立ち止まると、勢いよく振り返った。
「工藤さん。雨上がり、夕方、写真。これらから連想できるものは何ですか」
「んー」
佐々木の質問に唸る。そして、思いついたことを自信なさ気に答えた。
「虹、かな」
「そうです」
俺の答えに食い気味で佐々木は指を突き出し同意した。俺は、答えがあっていたことにほっとしつつ、出されたと指を下すよう佐々木に言った。指摘された佐々木は、「失礼しました」と、軽く会釈し話を続けた。
「彼女たちが撮っていたものは、虹に違いありません」
「でも、虹を撮っていたならしゃがむ必要なんてないんじゃないか」
「甘いですよ、工藤さん」
佐々木は「ふふん」と、鼻を鳴らす。
「確かに、普段見えるような虹ならそうかもしれません。しかし、あの日出ていた虹は、太陽の周りに現れる円形虹だったのです。
実は、先週の木曜日、私も虹を見つけたんですよ。それで、写真に収めようと携帯を構えたのですが、太陽の周りに虹ができているため、携帯だと太陽の光の強さに負けてしまって、肝心の虹が写真に写らなかったんですよ」
佐々木は、そう言って携帯を差し出した。俺は、出された携帯の画面を確認する。それは、中心に太陽の光が白く写った空の写真だった。
「直接撮るのが困難だったのはわかった。だけど、しゃがんで角度を変えったからって、写真に写るなんてありえないだろ」
携帯を返しながら俺は反論した。
「まあ、そうですね」
意外とあっさり受け入れられたことに驚いた。しかし、佐々木がすんなり負けを認めるような女でないことを俺は知っていた。
「しかし、彼女たちはしゃがんで角度を変えたことで虹を写真に収めたのです」
返ってきた言葉の意味が理解できず、俺は頭を傾けた。それを見た佐々木は、窓の外を指して言った。
「ヒント、向かいの建物」
「なるほど」
「そうです。彼女たちは、向かいの建物に反射した虹を写真に収めたのです。ガラスに反射した光は弱くなりますし、角度を変えることで、太陽の光を直接受けなくて済みます。これによって、太陽の光につぶされることなく虹を捉えることができるのです」
佐々木は説明を終えると、汗を拭うフリを見せた。
「なるほど。そういうことだったのか」
「どうですか」
「いや。お見事。まさか反射した虹を撮っていたとは、考え付かなかったよ」
佐々木に向かって手を叩いた。
「いえいえ。それほどでもですよ」
佐々木は、にやけ顔で席へ戻った。
「お礼と言っては何だが、今度何か奢ってやるよ」
「ええ!ほんとですか」
佐々木はよほどうれしいのか目を輝かせていた。しかし、すぐに冷静に戻り、
「それは、それとして」
と切り出した。
「工藤さんって、わからないことがあると、よく首をかしげますよね」
「ん。そうか?」
「ええ。それを見ていて思ったのですが、男の人がああいうしぐさをすると気持ち悪いですよ」
それを聞いた俺は、ショックで固まった。その反応を見て満足したのか、佐々木は気分よく研究室を出て行った。
「ごはん、楽しみにしてますね」
去り際の佐々木の表情は、今日一番の笑顔だった。
後日談。というか、今回の落ち。
佐々木との食事を終えた翌日。俺は、西野と再び学食でお昼をとりながら、昨日の食事について話していた。
「……奢るとは言ったが、食事を奢るなんて一言も口にしていないのに。女とは末恐ろしい」
西野は、カレーをほおばりながら鼻で「ふふ」と笑った。
「そういえば、俺の言った通りだったぞ」
湯呑の水を一気に飲み干した西野が自慢気に言った。
「何のことだ」
「ほら。この間お前が言っていた、階段下の女子学生二人組の話だよ。もう忘れたのか」
「ああ。いや、覚えてるよ。それで、何が言った通りだったって」
俺は、ラーメンのスープを飲み干して聞いた。
「あの女子学生たち、やっぱりクローバーを撮っていたよ」
西野の言葉を聞いて、少し腰が浮いた。
「そんな、まさか」
「ほら、これ見てみ」
そう言って、西野は自分の携帯を寄越してきた。渡された携帯の画面を覗く。写っていたのは、ツイッターの呟きだった。日付は、佐々木が虹を見つけた日にち。写っていたのは、あの階段横の花壇の写真だった。
「な。俺の言った通りだろ。すごくない。これは、将来名探偵になっちゃうかも。……」
横ではしゃぐ西野をよそに、俺は頭を抱えながら思った。
『このことは、佐々木には黙っておこう』
花壇の写真の中央には、二股に分かれたクローバーがはっきりと映っていた。写っているクローバーの片方は四つ葉のクローバー、もう片方は二つ葉のクローバーだった。
「おめでとう」
俺は、それだけ言って学食を出て行った。