アルバイト!
こんな噂を聞いたことがある。あの街の4番街に今は使われてない廃ビルが何軒か並んでいる。そのビルとビルの間に潰れたバーが一軒、四時四十四分ちょうどにそのバーの扉を開けると、あの世に連れて行かれる。俺の友達の兄貴の友達がそう言ってたから間違いないぜ。などという与太話はいつの世にも存在する。勿論どこにでもある怪談話や都市伝説にはもっと怖い話やリアリティにあふれるものが多く、そのバーは昼間何度も覗いているが、店内は不気味というよりは小綺麗で看板さえ出せば今すぐにでも店を始められる程のものだった。だから、そんな噂を気にも止めずに毎日の忙しい日々を過ごしていったんだと思う。あんな事さえなければ……。
「いらっしゃいませ。あ、雫さん今日はどうしたんです? その服すごく素敵じゃないですか」
そう言いながら慣れた手つきで店に入ってきた客に対し、岸部大河は屈託の無い笑顔で空いている一席の椅子を引き、そこに座るよう誘導した。雫と呼ばれた女性も慣れた足並みでされるがまま椅子に腰掛け、そのまま手持ちのバッグの中からコンパクトを取り出し、自身のメイクの具合を念入りに確認する。メイクだけではない、彼女の今日の服装は、結婚式などに出るようなドレス程の派手さでは無く、かといって街に繰り出す程にアクティブな軽装という訳ではない。ようするに、意中の人相手の勝負服だ。
「フフ、今日は彼との特別な日なの。そこの店で今プレゼントを買ってきたついでに彼が仕事が終わるまでの間、ちょっと雨宿りもかねてね」
雫はこれからの彼との時を今か今かと待ちかねているかのようだった。
ふんわりとしたミルキーベージュの淡い白のトップレスの服が、少しウェーブのかかったセミロングの髪によく似合っている。黒のスカートもシャープでタイトなものでなく、上部の服にあわせた穏やかなデザインをしていて、物腰が柔らかい印象を受ける。いつもは上下をきっちりとスーツで固め、カツカツとヒールの音を立てながら周囲を受け付けない空気を出している人と同一は思い難い大人の女性の魅力を目一杯引き出している。
恐らく髪も先ほど美容院に行ってきたのか、椅子に誘導した時に微かに美容院などでよく香るパーマ液の乾かした香りが大河の鼻をくすぐった。
「なるほど。それでは今日は控えめにしておかないとダメですね。何かご要望があればお作りしますが何かございますでしょうか」
「うーん、そうねぇ。何かスッキリとしたものがいいけど何がいいかしら」
「それでは」
大河はそのまま流れるようにカウンターに戻り、目の前でシェイカーにいくらかの氷、ワインなど必要なものを手早く入れステアリングを行う。時間にして恐らく二十秒程であるだろうか、彼女の時間を無駄にしまいと早々にグラスに入れ、差し出した。
「こちらをどうぞ」
彼女の目の前には綺麗な逆三角形のグラスに色合いの良い上半分には上品な紅さ、下半分には見事な透き通った黄色を演出した色彩鮮やかなカクテルが差し出された。
「あら。これは、ワイン?」
「『アメリカン・レモネード』というとてもシンプルなお酒です。口当たりもすっきりしていて今日の雫さんにはぴったりのお酒かと」
大河は少し頬を緩め、彼女の今日に対する心持ちを崩さない程度に微笑んだ。当然彼女も彼に笑顔を返し一口つけると、さらに表情を柔らかくした。
「ほんとだ、ワインの香りもするけどとてもさっぱりしてる。いいチョイスするじゃん」
雫は元々、仕事でもある程度の地位を獲得しているらしい。性格もしっかりしており、厳しいが部下や後輩への面倒見がとても良いと、以前一度だけ連れてきた彼女の職場の人から話を聞いた事がある。恐らくその一部が見えたのか、やや大河を部下か後輩に優しく話しかけるような口調で褒めた。
「今日は特別な日という事でお客様の心に一生残るよう、作らせていただきました。このお酒の酒言葉は『忘れられない』というのだそうですよ」
「忘れられない……か。まだまだガキの癖に生意気いっちゃって」
余程機嫌が良いのか、そう言いながら雫はカウンターから身を乗り出し大河を頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「でもね、大河君」
少しだけ彼女は表情を戻した。
「はい、何でしょうか?」
「これ、シェイカーにまだステアしたの残ってる?」
雫はグラスを持っていない左手の人差し指でシェイカーを差し、丁寧に手を広げた後、それを飲んでみるように誘導した。
大河にはそれが何なのか、よく分からなかったが、とりあえず言われた通りに少しばかり残っている自分の作った中の酒をスプーンで一口分だけ手の甲に伸せ、そこに口をつけ味見をしてみる。味がおかしい、というよりまずい。
「す、すみません! すぐに新しい物を用意します」
雫はクスクスと笑いながら、大河を再び優しく撫でた。
「まだまだ修行不足みたいだね。マスターみたいに美味しいやつ、頑張って作れるようになりな」
大河はもう恥ずかしさと情けなさでどう言葉にすればいいのか戸惑ってしまったが、それも見透かしたように雫はそのまま席を立った。
「いいんだよ、間違えたって。間違えて怒られて、ちょっとずつ、誰かに褒めてもらえるように頑張るの。私は今日、どうして大河君がミスしたか、ちゃんとわかってるから。気にしてないよ。気遣ってくれてありがとね」
「雫さん……」
年上の女性に憧れる男の心理とはこういうものなのだろうか。やや、雫の恋人の存在が頭をよぎり嫉妬した。
「あ、今私に惚れたでしょ」
イタズラな笑顔で大河を刺激する。あぁ、本来この人はこういう人なのか。などと、初めて見れた彼女の思いがけない一面を知れた事の嬉しさと、チクリとした罪悪感の板挟みにあいどう言葉にすればいいのか戸惑った。それを察してか雫は早々に席を立ち、お代をテーブルに乗せそのまま店の入口にゆっくりと歩いていった。
「次は、すっごく美味しいの、期待してるからね」
雫は上機嫌に店を出ていくのを見送りしばらく頭の中で反省していたせいで、カウンターに置いてあったグラスが空になっている事に、大河はしばらく気がつかなかった。
一連のくだりが終わったあたりで店長が厨房からひょっこり顔を出してきた。
「いやぁ、岸部君やっちゃったねぇ」
熊のような大柄な体の半分をこちら側に出し、ニシシとこちらもまた別の意味でイタズラな笑顔をこちら側に向けている。別段店長は悪い人間では無い。ただ問題はそのでかい図体からは想像もできない程の小心者なのだ。その巨体は街を歩けば皆が道を譲り、視線があえば強面の人だって頭を下げる。だが実際のところといえば恐らくチワワと闘う事になれば店長が負けると簡単に予想ができる程、気が弱い。今回も本来は店長がカクテルを用意するのが普通なのだが、最後まで隠れていた。大方いつもの視線もきつく圧迫感丸出しの雫さんに怯えてしまっている事と、何とか大河が場をとり保っていたからのようだ。
「店長!」
「ひっ、ひぃぃ。ごめんね、どうしても僕あのお客さんだけは苦手で」
「だっても勝手もありますか。僕みたいな素人に一から十までやらせて、雫さんがいい人だったからよかったですけど、別のお客さんならクレームもんですよ」
「ほ、ほら僕だって謝りに最後行こうと思ったんだよ?」
「出てきてないじゃないですか」
「そ、それはほら、僕料理で忙しかったし」
「お客さん雫さんだけだったじゃないですか」
「えっと、ほら賄い作らないと!」
「今日まだ開店して三十分ですよ、もう飯ですか。帰りますよ」
「ご、ごめんって! 次からほら、頑張るから」
ひとすら謝ってくる熊のような巨体を見ると動物愛護の精神のなんたるかを若干ながら理解できそうな気もしてくる。
いやいや騙されてはいけない、いい加減この店長は接客が恐ろしく下手な事をそろそろ伝えないと。
「今度お客さんから逃げたら、賄い料理は僕が作りますから」
「え……あ、うん?」
手元に用意していた銀色のどす黒い光を放つそれは、実に綺麗に肉を捌けそうであった。
「熊鍋を」
◆
「岸部君お疲れ様、もうすぐ閉店の時間だけど、何だか外が騒がしいねぇ」
なんだかんだで今日もそれなりに店にはお客さんが入り、気がつくとそれなりにいい時間になっていた。
それにそこまでは気にならなかったがやけに先ほどから何やらサイレンの音がする。
「酔った勢いで喧嘩でもやってんだろうかね」
「まさか、今のご時世酔って喧嘩する人なんかそういないですよ」
バカバカしいと言わんばかりにテーブルの食器を下げ、手際よく洗い物を大河は開始している。
「今日はもうお開きかな? 明日大人数の予約もあるし。少し早いが明日の為にテーブルのセットを奥だけでも準備お願いできるかな。こっちはやっておくから」
「わかりました。あれ? 椅子とテーブルが少ないみたいなので裏に取りに行ってきますね」
そう告げると洗い物で濡れた手を真っ白で綺麗なタオルで手を拭き、足早に店の裏側の物置へと向かい、倉庫の扉を勢いよくあけてしまった。普段ほとんど使う機会も無い為、倉庫の中はカビ臭い空気に包まれており、さらには勢いよくあけたせいでかなりの埃を吸い込んでしまった。
「ゴホッ、ゴホッ。相変わらず埃まみれだなぁ……」
倉庫の中の空気を入れ替える為に少しばかりの小休憩として手近な椅子を一脚だけ外に持ち出し、目の前の自販機で買った缶コーヒーを飲み始め、腰を落ち着けてぼーっと外の町並みを眺めた。
いつもの仕事の終わりに差し掛かったそとの明るさ、今日は週末のせいもあったのか時間をあまり気にする事が無かった。ふと時計に目をやると、あと少し待てば夜が明ける、午前4時過ぎだった。
ギシッ―――
腰掛けているそれに違和感を感じる。
「この椅子かなり古いけど大丈夫かなぁ?」
不安になった俺は一度その椅子に少し斜めに力を入れて押して見る。
バキッ―――
やはりダメだった。
「はぁ…これじゃあ明日使えないなぁ。代わりになるものを店長に頼んでみるにしても明日の開店までに間に合うかどうか……いや、待てよ?」
大河は近くにある『例のバー』に綺麗に残った同じ形をしたこの椅子にそっくりな物がある事を思い出した。
「そうだ、あれを拝借するか。使い終わったら、また返したらいいか」
そう思い立ち、そのままそう遠くない場所の潰れたバーに足を運んだ。
両隣が廃ビルのせいか昼間に見るより怪しげに見える。
「やっぱこの時間に来ると雰囲気あるな……」
そう言いながら大河はそのバーの扉を開けてしまった。
時間にして 四時四十四分。
カランカランと、古びたドアからベルの音がする。
「いらっしゃいませ」
唐突に誰かから声をかけられた。それは、人間にとって、行く場所に行けば当たり前のようにかけられる言葉で、普通の生活の中であれば誰も気にも止めない言葉のはずである。しかしながら、この場所ではありえない、不可思議極まりない言葉が大河を出迎えている。
潰れているハズのバーのカウンターで綺麗にグラスを拭くその店のマスターらしき男の姿があった。
「……?」
口をパクパクとあけては締めようととし、それでも何かを口に出そうと言葉を探すがやはり何も出て来ない。ここは廃ビルの間にある潰れたバーのはずなのだから。なぜこの店が開いているのか、入口に立っていた時に店内の様子を見た。勿論人気も無く、こんな綺麗に磨かれたグラスが並び、ピカピカのカウンターやいつでも客を迎え入れても対応ができるようなテーブルクロスのかかった席もここにはなかった。さらに周りを見渡すと辺り一面、さっきまではなかった装飾がなされ、店内をランプが灯しあげ、文句のつけようもない程ここは営業中のバーだった
当然頭は混乱する、混乱なんてものじゃない、何か大掛かりなマジックをされてもこんなには驚かないだろう。なぜ?
店を間違えたか…そんなことはない、ここはついさっきまで……廃墟だったんだ。
本能的に大河の中で危険だと告げている何かがバクバク音を立てる。しかしながら逃げ出す為の足すらも動かない。
「怖がる事はありません。扉はいつも開いています。ふむ……?」
そのマスターはこちらを少しばかり物珍しそうに眺めてきた。
「何よりあなたに明日があるようです。出るも入るもあなたの自由。そのまま扉を開ければいつでも帰れますよ」
その穏やかな風貌と声に、恐怖と混乱は驚く程簡単に落ち着いてしまった。何だ普通の人じゃないか、こういう趣向の店だったのか、そうとも思えてくる。息をあらげていた呼吸もいつの間にか落ち着き、それを見計らったかのように店のマスターはゆっくり、口を開いた。
「さぞかし驚かれたでしょう。外はぼろぼろでしたからね」
少しバツの悪そうな顔でこちらに同意を求めているが、あまりに気にはしていないようだった。
「え、えぇまぁ」
簡単な挨拶もする事ができず、今自分の起きている事を、もう一度ゆっくり整理しみる。やはりさっぱり分からない。
「ここは、生きている方は滅多に入る事ができない特別な場所でございます」
「は、はは……へ、へーそうなんですかぁ。だったら来るのは動物かな、そ、それとも宇宙人? あ、社会的に外に出られない人の秘密の場所ですかね」
「いえいえ、元がそういった方々もいらっしゃいますが」
「ますが?」
「ここは、あの世の入口でございます」
「え?」
「信じられないのも無理は無いでしょうが、こういった場所はいくつもございます。まぁ、そんな入口に店を構えている奇特な者は少ないですが」
大河は理解しようとはした、しようとはしたがどうしても今までの価値観や固定概念から抜け出す事もできず、もうただただひたすら話を聞くしかできなくなっている。
「あちらへの旅というのは、さぞ寂しいでしょう。不安に思われる方、志半ばの思いをお持ちの方も沢山いらっしゃいます。そういった方々の想いを、受け止めおもてなしをするのが、私の勤めでございます。勿論、私も普通の人間ではございませんよ」
淡々と説明するマスターに大河は開いた口がふさがらなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんな突拍子もない事……いくら俺でも信じられないっていうか、その」
「ご理解いただくにはさぞ時間がかかる事でしょう。この話を聞き終わるまでに今まで何人もの方が逃げ出していきましたね」
マスターはニコリと微笑み、一杯のカクテルを出してくれた。こんな危険な場所で、差し出されたものをおいそれと口につける事は、本当は危険な行為なのだと思う。だがしかし、それを受け入れても良いだろうという、暖かさのようなものを感じ、そのまま出された液体を、一口、また一口と飲んでいった。
「おいしい…」
嘘偽りでこんな素晴らしい味が出せるわけがない。
「お気に召しましたか? キールというお酒です。酒言葉は」
「『最高の出会い』ですね」
マスターは再びニコリと笑った。
その時、カランと後ろの扉が再び開く音がした。目の前にたっている人を見て大河やや驚いたが、逆に安堵した。
なぜならその人は……
さっき自分の働く店に来ていた女性客だったのだから。
「あれ? 雫さんじゃないですか、どうしたんです? あ、もしかして雫さんもうっかり入っちゃったんですか? びっくりしたでしょう、俺も面食らいましたよ」
乾いた声で、先ほどと同じように彼女に明るく振舞ったが、彼女は大河の声など一切耳に入っていない様子だった。
「あの人に逢えなかった、なんで? なんで……なんで」
声が何も届いていなかった。
「え? そんな、さっきあんなに笑顔で店を出ていって。それから、あなたはそれから恋人と!」
「私はあの人の所に向かった! 確かに向かった! プレゼントを持って! でもなんであんな所から……車が出てくるの。出てくるのよ!」
その時にようやく、認めたくない事実を受け入れた。
この人は、亡くなった。
彼女は親とはぐれた小さな子供のようにワンワンと泣きながらその場に崩れ落ちた。両手で顔を覆い、声をあげる度に言葉をかけようとするが、何も言う事ができない。何を言っても、自分はまだ生きていて、彼女が死んでいる。これは、変わらない。
「会いたいよぉ……あの人に……会いたいよぉ」
マスターは優しく、そしてじっと彼女を見つめ、シェイカーを手にとった。
「待ってください!」
大河は大声をあげた。さすがにマスターも驚いた顔でこちらを見ている。
「俺に、作らせていただけませんか。彼女を、笑顔にさせる最高のものを作らせてください!」
マスターは手にとった道具を俺に渡しながら、真っ直ぐ瞳を見据えている。
「君はいい目をしている。いいかい? 君は彼女の恋人も、家族も、一番最後にしてあげられない事をするんだ」
先ほどの穏やかな視線より、随分と厳しく、真剣な眼差しでこちらを見据えている。
「彼女の事を、頼んだよ」
マスターはニコリともう一度微笑みかけた。
(作ろう。彼女が笑顔になれる最高の味を、この手で。この世で最後、俺の作ったこれを飲んで、旅立つんだ。失敗はできない。でも、何をどう作る……? あの人は、大切な恋人との思い出、これは外せない)
彼女との最後の会話が頭をよぎる。
『失敗したっていんだよ。失敗したくない時に成功できるよう、しっかり頑張んなさいよ。とびっきり美味しいの作れるようになったら、彼氏にもこの店紹介したいんだから』
「ひっく…ひっく…ひっく…うああああ」
その後彼女は大河が声をかけるまで、ずっと泣き続けていた。
「お客様、お待たせいたしました。ギムレットでございます」
彼女に声がようやく届いたようで泣き声を止め、涙だけを流しながら、力なく崩れ落ちた体を起こし、大河の姿を見あげた。
「あ、あれ? 君?」
涙で目を真っ赤にさせながらも、ようやく、ほんの少しだけ、いつもの彼女の顔になった。
「あなたの事を想い、笑顔になれるよう一心に作らせていただきました。よろしければ飲んでいただけませんか?」
今にも溢れそうなグラスを手に取り、彼女はギムレットに口をつけた。
「ありがとう……とっても、美味しいよ」
彼女は起き上がって椅子に腰掛け、ゆっくり、ゆっくりとギムレットを飲みはじめた。想い人の事を一つ一つ思い出しているのだろうか、幸せそうな笑みを浮かべている。
「これ、彼ともそういえば飲んだことあったっけ。あ、あの人と出会ったのはいつだっけな。デートは何回くらいしたっけ。あの人から貰ったものはどれくらいあったかな。あの人に何を渡せたかな。私がいなくなっても、幸せになってくれたら嬉しいな。私は、もう行かないと」
そして、人一人が座れる程にテーブルから引かれた椅子と、まだ半分程ギムレットの残ったグラスだけを、テーブルに残し、彼女は消えていった。
「『遠い人を想う』か。ふむ、悪くないチョイスだ」
「なんというか、自分はもう今までの常識が覆されっぱなしで、今でもその、信じられないですよ」
マスターはまたニコリと優しく微笑んだ。
「ならまたいつでも来るといい。ここの扉はいつでも開いている。入れる時間は限られているがね。出るも入るも君の自由だ」
「ありがとうございます、って…ああああ!」
「どうしたんだい?」
「しまったぁ、俺仕事の途中で抜けてきてたんでした。うちの店長、ほっとくとすぐさぼるから……お、俺帰ります」
「あぁ、そうするといい。今日はご苦労だったね」
それを聞くや否や、大河は店を後にしようとし、一度ピタリと立ち止まった。
『そうだ、自分はこのまま帰ると、いつもの生活に戻るんだ。あの生活が嫌なんじゃない。でも、ここなら……よし』
「マスター」
「なんだね?」
ニヤリと笑いこう続けた
「ここでアルバイトの募集はやってますか?」