出会い
僕はいつも以上に緊張していた。人前で話すことは子供の時から苦手だった、バカにされないか笑われないかといつも心配していた。
しかし今回はそれと別の感情に襲われていた。こいうときはいつも自分が影の存在であることを知らされる。心の中では、もっと他人に知られて認められて欲しい野望をもっているのに。
影であるぼくは決して光を嫌わない、むしろ光に憧れていた。届かない存在だが僕もいつかそこに行きたい。心底そう願っていた。
でもそれはかなわぬ夢に過ぎない、少なくとも生きている限り。影が光に辿り着くと、光の眩しさに溶け込んで、そして姿を消す。影である限り僕には暗闇にいるしか選択肢が無い。
人にはいつも人生を左右するほど大事な出会いがあると僕は思っていた。いつ、どこで、誰と会うのは知らないが僕の人生はその出会いによって凄く変わるだろう。もしかしたらもうその人とどこかで会っているかもしれない。自分が気づかない内に僕の人生は変化し始めていたかも。だが本人が気づかない変化には意味が無いと僕は思う。
五年ほど前、とある喫茶店で僕が一人で読書を楽しんでいた時、僕にも出会いが訪れた。それはごく普通で何の輝きも無い出会いだったが、影の僕にとってはとても眩しく見えた。
同じ喫茶店で何度か会ったことのある本好きの女性に声をかけられた。共通の趣味を持つ僕らは何時間も楽しく本について話し続けた。意見が合わない所も結構多かったけどそれども僕は十分楽しい時間を過ごした。彼女も楽しんでいたかどうかは分からないが、一応表情は明るかった。
それ以降僕らはまた何のど何度か同じ喫茶店で出会い、自然と向かい合いながら本について語り合っていた。毎回会うたび僕らは始めてあったときの様に異常でもいえる程熱心に話し合った。
彼女と五回目に会う前僕は彼女について大事なことをまだ知らないと気づいた。それはとてとも当たり前なことで、今まで四回も会ってまだ名前を知らないということだった。いったい僕は今までどの様に彼女のことを呼んでいたのだろう。
五回目の出会いで僕は彼女の名前を尋ねた。彼女は何も言わず黙り込んだ。自分の名が嫌いで名乗れないのかと、僕はバカのことを思いながら彼女の返事を待っていた。だが彼女は小さい声で「私もう帰ります。」と言った。
何か悪いことをした様に僕の心の中は罪悪感でいっぱいだった。彼女の後を追おうとしようと思ったが、なぜか足が動かなかった。結局それ以来僕は彼女には会えなかった。
名前を嫌う女性、僕は彼女のことをそう呼ぶことにした。
もう一生多分会えないけど、少なくとも共に過ごしたあの時間は夢ではなく現実だった。僕は自分の人生で起こる幻ではなく現実の出来事をしっかりと記憶したい。そのためにやはり彼女に名前が無いと困る。
名前を嫌う女性、それが彼女にふさわしい名前だ。