#10 1+1
「……おい。今、何か物音がしなかったか?」
カール・ゴドノフは、澄田洵を肘でつついた。
――20階人質部屋。谷町警部らがいるのとは、反対の部屋である。
ゴドノフらはテロリストの中で、人質の見張り役を任されていた。
隣に立っていた澄田は、すぐに振り向いた。
「……確かにしたな。廊下からだろうか?」
「気になるな。見てみようか」
ドアノブに手をかけるゴドノフを、澄田が止める。
「やめとけよ。俺らは、あくまで人質の見張りだぜ」
「……だが、緊急事態には動いていいと、ボスが言っただろう」
澄田はしばらく考えてから、「それもそうだな」と呟いた。
ゴドノフは、そっとドアを開けた。その瞬間、ゴドノフの両目は見開かれた。
「……!!」
「何だ、どうかしたのか?」
澄田の声は、ゴドノフには届かなかった。澄田は強引にドアからゴドノフを引き剥がすと、自分もドアと壁の隙間から、廊下の様子を覗いた。
そこで目にしたのは、壁で気絶した谷口昌三の姿だった。
「えっ!!!?」
澄田は素っ頓狂な声を上げた。
これはまさか――ボスが言っていた、“お邪魔虫”の仕業ではないのか!?
澄田は、ドアを開け放った。そして、ドアから廊下に出て、周りを見回す。だが、人影らしきものは見えない。
その次の瞬間、澄田は、背後から誰かに口を押さえられて、座り込まされた。
――“お邪魔虫”だっ!!!
そう直感した澄田は、その手を強く噛んだ。
「ぁ痛゛ッ!!!」
その手が、澄田の口から離れた。澄田はその瞬間、
「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
と大声を上げた。
「バカッ、やめろ!!」
背後の“お邪魔虫”は焦ったような声を上げた。だが、もう遅かった。大声に気がついたテロリストたちが、部屋から続々と出てきた。澄田を拘束している“お邪魔虫”――三郎の姿を発見すると、三郎と澄田の周りを完全包囲した。
その隙に、澄田は三郎の手から脱走すると、テロリストたちに加わった。
「……余計なことしてくれやがって……」
じりじりと間を詰めるテロリストたち。三郎は後ずさりしようとしたが、壁際なので、そうはいかない。
「……まあいいか」
三郎は、ニヤリと笑った。
「1人ずつ倒す、手間が省ける」
そう三郎が言い放った瞬間、テロリストの1人が「かかれーッ!!」と叫んだ。それを合図に、テロリストたちが三郎に突進してきた。
三郎は、テロリストたちに逆に突進すると、床を蹴ってジャンプし、突っ走るテロリストたちの背中に乗って、包囲から脱出した。
テロリストのうちの5人が、猛突進してくる。三郎はテロリストたちと衝突する寸前、テロリストたちの下に潜り込んで、足を引っ掛けた。
「ぐあ!!」
転んだテロリスト5人は、窓ガラスを突き破って、ビル20階分の高さから転落した。
残り6人!!
三郎はジャンプすると、向かってきた3人に向かって、回し蹴りを食らわせた。だが、そのキックは宙を舞った。キックを予測していた3人は、しゃがんで避けたのだ。
「くっ!!」
予想外の出来事に対応しきれなかった三郎は、着地を失敗して、床に倒れこんだ。テロリスト6人が、ここぞとばかりに押し寄せてくる。
三郎は、自分のすぐ上にいた2人の頭を掴んだ。
「えっ?」
その2人からは、素っ頓狂な声。三郎は渾身の力で、その2人の頭をぶつけた。2人は、残りのテロリストたちに倒れこむ。2人の体重でバランスを崩したテロリストたちは、仰向けに倒れた。
テロリスト2人が、すぐに起き上がってきた。
「しぶとい奴らだな!!」
三郎は歯ぎしりをして、拳を握り締めた。そして、その拳に自分の息を吐きかけると、1人の頬に一撃をお見舞いした。その瞬間、そいつの頭からメリメリという音がしたかと思うと、もう1人に向かって吹っ飛び、2人まとめて壁に倒れこんだ。
残り、2人!!
起き上がってきた2人は、三郎と向かい合った。
……しばしの沈黙。
その沈黙を破ったのは、テロリストの1人だった。いきなり猛突進してくると、「うおおおおっ」という叫び声とともに、ドロップキックを三郎に食らわせた。
避ける三郎。だが、それがテロリストの狙いだった。三郎の背後に回ったテロリストは、三郎を羽交い絞めにし、身動きがとれなくした。
「いけ!! 将太!!」
背後のテロリスト――黒野満が、もう1人のテロリスト――宮城将太に声をかけた。
宮城は一瞬迷う素振りを見せた。
「どうしたんだ!! 早くしろ!!」
黒野が怒鳴る。その言葉を合図に、宮城は突っ込んできた。三郎の前で止まると、腕を大きく振りかぶって、拳を三郎の頬に――
「家族がいるのか?」
――宮城の拳は、三郎の頬2センチのところで止まった。宮城は、俯いていた顔を上げて、三郎の方を見た。三郎は、宮城の顔を真剣な眼差しで見つめていた。
「さっきの迷う素振り――あれは、家族がいるからだ。そうだろ?」
「う、うるせえッ!!」
宮城は、もう一度振りかぶって殴ろうとする。だが、三郎は拳が迫っても、表情ひとつ変えない。その頬に拳が激突しようとしたとき――
チャリン
どこかで、鈴を転がすような音が聞こえた。
――え?
びっくりして後ずさると、もう一度、チャリン、という音が耳に飛び込んできた。
――その音は、宮城のズボンのポケットの中から鳴っていた。
何だ?
宮城は、自分のポケットに手を入れて、ゴソゴソと探った。
チャリン
そのとき、自分の指先が、冷たい感触に触れた。
それをポケットから取り出す。それは、鉄でできた、ネックレスだった。
それを見た途端、数時間前の会話が、鮮明に蘇ってきた。
そっと襖を開けると、曜子の優しい寝顔があった。いつも通り、寝相は悪い。枕と布団を蹴飛ばして、スーパーマンが空を飛んでいるような格好で眠っている。
――一体、何の夢を見てるんだ?
宮城はフッと微笑んで、襖を閉めた。
「行ってきます」
いつものようにそう言って、宮城はドアを開けた。
自宅のアパートの玄関。木でできた壁には、ところどころヒビが入っていた。
ドアの外――都会の空は晴れ、満天の星空が宙を舞っている。
宮城はこれから、仲間に合流しに行くところだった。言うまでもなく、テロリストの仲間である。妻と子供は警備員の仕事に出かけると思っている。
「いってらっしゃい……あ、ちょっと待って」
見送っていた妻の恭子が、ハッとした表情になって、奥のリビングに駆けていった。
一体何だろう?
恭子は、すぐに戻ってきた。手には、ネックレスを握っている。
「はい、あなた」
恭子は、宮城にネックレスを差し出した。
「これを……俺に?」
「うん。曜子と、お金を貯めて買ったの。今日、給料日でしょ? お仕事頑張って、って意味で……」
言葉が出なかった。嬉しくて嬉しくて、言葉にできなかったのだ。
「あ……あり、がとう」
不器用な宮城は、ぶっきらぼうにそう言って、ネックレスを受け取った。そして、それをポケットに突っ込んだ。本当はすぐに首に付けたかったが、ちょっと恥ずかしかったのだ。恭子はそれを気にも留めず、優しい微笑みを浮かべ、
「行ってらっしゃい」
と言ったのだった。
全てを思い出した瞬間、涙がこぼれ出た。涙が止まらない。宮城は、床にうずくまって、声を上げて泣いた。
俺は、何をしようとしていたんだ。こんなにも俺を愛してくれる人が、こんなに身近にいたんだ。そのことに、初めて気がついたのだ。
三郎は、フッと微笑んで、言った。
「気がついたのか?」
宮城は、涙と鼻水でグシャグシャになった顔を上げた。三郎は、優しく笑っていた。
「こっちへ来い。俺はお前の味方だ」
その言葉で、宮城は動かされた。フラフラと起き上がると、三郎の手を握った。三郎と宮城は、お互いの手を固く握り締めた。
「おい!! ヨケーなことしてんじゃねーよ!!」
三郎を羽交い絞めにしていた黒野が、そう叫び、三郎を開放した。そして、血走った目で、三郎と宮城に向かって拳を振り上げた。
「……ヨケーなこと? おい、テメェ」
三郎は、黒野のパンチを、するりと避けた。そして、俯いていた顔を上げた。その顔は、今まで見たこともないような、鬼の形相になっていた。
「家族の愛を――」
三郎は怯んだ黒野の頬に、強烈なパンチを叩き込んだ。
「ぶふぉっ!!!」
黒野がフラフラと舞う。その瞬間、宮城が、拳を振り上げた。
「ナメるんじゃねえっ!!!」
強烈なアッパーカットを食らった黒野のアゴはガクガクと揺れ、泡を吹いて気絶したのだった。
三郎と宮城はしばらく見つめ合っていたが、ニヤリと笑い、お互いの手をガッチリと組んだのだった。だが、宮城はハッとした。
「おい!! 早く人質を解放しねえと!」
「ああ、そうだったな」
三郎と宮城は、手分けして、2つの部屋から人質を連れ出した。
「皆さん、僕に着いてきてください!! 僕らは味方です!!」
人質たちは、三郎の言葉に、歓喜の声を上げた。そして、三郎たちは歩き出す。希望に満ちた足取りで――
エレベーターには一度に全員が乗れないので、階段で1階に到着する。
「出口はもうすぐそこです!!」
エレベーターホールで、安堵の声を漏らす人質たち。
――だが、その安心を、1人の男が打ち崩した。
「待て……お前、お邪魔虫、だろう」
その鋭い声は、三郎の耳に鮮明に届いた。三郎は振り向く。そこにいたのは――テロリストの最後の1人――井上公太だった。
「……野郎。まだ残ってやがったか」
井上を睨みつける三郎。人質たちが、悲鳴を上げる。井上はその様子を見ながら、無表情のまま言った。
「最後の決闘だ……。お前が勝ったら全員解放。俺が勝ったら全員虐殺……。さあ――ゲームの始まりだ」




