第13話
維新の巻 第13話
沖田春香
マシガニオのリーダーであった沖田勝郎の息子にして、マシガニオ一番隊隊長。
軍事作戦レインボー地区六六六の任務遂行者グリーン。
一連の乱の渦中にいながら、なぜか沖田春香には陰惨なイメージがない。
おそらく天性の性質によるもだと思われる。
誰もが常に死と隣り合わせで生きている中で、彼には急いている様子がまるで無かった。
大志を周囲に語ることは無く、無邪気な表情でとり止めもないような事を言っていたかと思うと、一端戦場に出るや研ぎ澄まされた刃のように一撃で敵を倒した。
どれほどの手柄をあげても慢心するような挙動はなく、気軽に部下たちと世間話を楽しんでいたという。
後年、彼を知る者で彼の人となりを悪く言う者はいない。それだけとってもこの時代の異端児であるといえた。
沖田春香の裏列伝にさえ、本人の心情を綴った部分は少ない。
彼の人格からくる魅力以上に、積み上げてきた功績が他を圧倒する伝説的なものであったためだろう。
武功が独り歩きをしている格好である。
一説によるとゾンビ化するウイルスが日本に蔓延する三年以上前から、ゾンビへの対応の術を父や桂剛志から学んでいたという。
対ゾンビの戦闘という一点においても、エリート教育を受けてきたということになる。
もしかすると、この破滅と混乱の時代は彼にはごく当たり前の自然のように感じられていたのかもしれない。
幼少期について語られることも少なく、貴重な参考資料から考察しても、父親の勝郎と強い愛情で結びついていたとは考えにくい。
父親は別に愛人を作り子どもをもうけていた節もある。
軍の上層部に属していた勝郎は、業務の多忙ぶりからほとんど自宅には寄り付かなかった。
隠し子の件も明らかになり、春香の母親はそのための心労で倒れ、早い段階で亡くなっている。
酷薄な父親を憎んでもよさそうなものだが、そんな発言や様子は春香にはまったく見られなかったようだ。
組織に属してからも父親の命令を実直にこなしていたと思われる。
沖田春香は何を思ってこの時代を駆け抜けていったのであろうか。
裏列伝に彼の心情を物語る興味深い一説を見つけた。
実験地区六六六で山岡夫婦に出会った時のことである。
「平穏な日常においても憎悪し合う夫婦が多いこの世の中で、相手を思いやり献身的に尽くす者たちもいることに非常に驚いた。」とある。
山岡夫婦は春香にとって一被験者に過ぎなかったが、この出会いが任務遂行以上に彼の内心に大きな感動を与えたようであった。
夫婦というものが、冷え切った希薄な関係だと幼いころから身に染みて感じてきた春香にとって、このように愛情溢れるつながりを持つことも可能だということを知り、何か救われた気持ちになったのかもしれない。
その後、山岡夫婦の層雲峡脱出も影ながら手助けしているようだ。
旭川市の自宅に帰還した夫婦を見守る様に見張っていたのも春香だった。
マシガニオと夫婦の合流にも一役買っている。
彼にとって山岡夫婦の存在は人類の希望のように映っていたのかもしれない。
知床潜入時にも春香は命がけで殿の任を全うした。まさに修羅の如く暴れ回り、中軍の山岡夫婦に敵が張り付くのを防いだという。
「あれは何の仕掛けだ?」
視線を合わせることもなく、両手にコンバットナイフを構えた少女、朱雀が隣に立つ沖田春香に問いかけた。
目前の狭い通路には煙が立ち込めている。
隠し通路に突入して六百mは進んだ地点のことであった。
そろそろ追撃の先陣が殿の二人に接触する頃だ。
「除草剤の一種ですよ。入口に仕掛けておきました。これでゾンビたちはしばらく動けません。あくまでも足止めにすぎませんがね」
沖田春香はそう答えると、鞘を投げ捨て日本刀を正眼に構えて微動だにしない。
左の腰にもう一振り長刀を差してした。
彼の腕を持ってすれば、肉体を強化されているゾンビや獣たちを何十体と斬り捨てることは可能であったが、刀自体がもたなかった。
今回は刃をさらに強化した刀を二本用意していた。
これでどこまでいけるのか、彼自身にもわからない。
「ゾンビは後のお楽しみ……まずは獣たちか……」
地響きのような足音が近づいてくる。
朱雀はいつになく緊張した面持ちでその到着を待った。
近距離の乱戦になることは覚悟していた。
強力な爆薬類は通路が崩れる可能性があり、ギリギリまで使用できない。
始めから白刃の戦いになる。
照明をふたつ地面に置いて、来た道を照らした。
群れる影がうようよ壁に映し出される。
「僕が少し前に出ます。討ち漏らした敵は頼みますよ」
沖田春香がそう言って三歩前に出た。
その空間だけが凍てついているように朱雀には感じられた。
上級者の腕の違いは上級者にしかわからない。他の連中には沖田春香と朱雀の戦闘力は僅差に映っていたかもしれないが、朱雀自身にはどんなに自らを鍛え、修羅場を乗り越えても届かない距離を感じている。
朱雀にとって沖田春香の武芸は神の領域に達しているように思えていた。
影は狼の群れだった。
濁流にように押し寄せてくる。
あっと言う間に目前に迫る。
「無理だ……」
その圧倒的な勢いと数を目にして、朱雀の口から思わず諦めの言葉が漏れた。
大久保崇広とはゾンビ攻めが成功した暁には家族を救出し、匿ってくれることで話がついていた。
朱雀の家族は、新政府からは奴隷のような扱いを受け、いつ国外追放の順番がくるのか怯えながら暮らしてきた。
どんなに功績をあげても所詮は暗殺集団。特権階級はおろか一般市民の階級にも届くことはなかった。
任務に失敗すれば即家族ともども追放。
そんな中での寝返りは、組織のトップ壬生狼筆頭の高杉聖子からの指示でもあった。
壬生狼全員がマシガニオに呼応して新政府に牙をむく算段だったのである。
ちなみに「壬生狼」の名前の由来は本拠地を京都の壬生に置いていたからだとする説や高杉聖子が壬生通の洛南高校出身だったとする説など多岐に渡る。
「ヒュ……」
踏み込みの足音は聞こえなかった。
刃の切っ先も見えなかった。
静かに一歩踏み出した瞬間に五匹の狼が両断されて地面を滑って朱雀の足元に転がってきた。
さらに一歩。
同じく五匹が両断されて転がる。
わずか五秒かそこらで二十匹の狼の遺骸の山ができた。
討ち漏らすことなどなかった。
前に一歩踏み込む度にどう斬ればこのような切り口になるのか、綺麗に真っ二つにされた狼が量産されていく。
「化け物……」
朱雀は背筋が凍るのを覚えながら沖田春香の背を見つめていた。
ニオ奪回のため隠し通路に突入した獣は狼だけではない。
他にも虎や羆なども先を争って狭い通路に飛び込んでいた。
周辺から次々に集まってきたゾンビの数もこの時には万を超えていたという。
いかに沖田春香が鬼神のような働きをしても到底あしらえる数ではなかった。
しかし屍の山が築かれていくのを目にして獣たちの士気が一時的にでも下がったのは間違えない。そういう意味では沖田春香は流れを断ち切ったといえる。
先頭の狼たちが尻込みした隙に沖田春香と朱雀は後退した。
手にしていた刀は反り返ってもう使い物にならなくなっていたらしい。
沖田春香が討ち漏らした獣だけを相手にしていた朱雀であったが、すでに数か所手傷を負っていた。
対して沖田春香は無傷。呼吸すら乱していなかったようで、まるで散歩の帰り道のようだったと朱雀が後年語っている。
押し始められたのはやはりゾンビが前線に出てきてからのことである。
獣たちは本能のどこかで死を恐れる節があったが、ゾンビにはそれがない。
腕が斬られても勢いは止まらない。
そしてこちらは一筋の傷口が致命傷になる。
十倍の戦力を持ってしてもゾンビを殲滅すのは難しいと言われていたのはこのためである。
沖田春香は一刀でゾンビたちの首を落とした。
殺すことはできないまでも戦闘不能の状態にはなる。
首の無いゾンビは両手を突き出してウロウロと前進するだけであった。
朱雀も手にしたコンバットナイフで首を両断しようとするが、片手ではその威力を出せなかった。敵の牙と爪を躱して両手で握ったナイフに全力を込めて首を斬った。
十体は倒した。
しかし、時が経つにつれてやがて肩で息をするようになり、ナイフが重く持ち上がらなくなった。
朱雀は死を覚悟した。
無念の死でも犬死でもない。
家族はこれで安心した生活を送れるのだ。
本望だった。
女としての経験は何一つできなかったが、最後に最強の男と共に戦えたのだ。自分は幸福だったのかもしれない。そんな思いだった。
「下がりなさい。ここは僕が引き受けます」
迸る覇気と共に湯気のように熱気が立ち上っている沖田春香が、振り返らずにそう言った。
気づかい無用……と答えたかったのだが朱雀の喉がカラカラで声が出なかった。
「小娘にしてはよくやった方ね。あとは任せなさい」
いつの間にか隣に立っていたのは坂本祥子だった。
手にした銃が火を噴いた。
除草剤入りの弾丸を受けてゾンビたちが吹き飛ぶ。
「祥子さん!退いてください。ここは危険です!」
「あら?そう言われると余計に燃えるわね」
「守り切れないんです。ここはすぐに突破されます。行ってください。その娘と一緒に!」
「守ってほしいっていつお願いしたかしら?どうしてもって言うなら力づくでどうぞ」
「冗談を言っている暇はないんです」
「珍しいわね。あなたがそんなに追い詰められてるなんて。面白いからしばらくここにいることにするわ」
そう言って祥子が微笑む。
ゾンビが獣の屍を乗り越えて押し寄せると、力強く踏み込んで沖田春香が一閃してその首を落とした。
静から動。
刀が感情を持ち始めていた。
「言い出したら聞かない人だからな……仕方ない、朱雀さんは代わりに中軍の守りを固めてください」
朱雀は足を引きずるようにしてその場を去った。
「随分と斬ったようね。二本目の刀ももうひしゃげちゃってるじゃない。一応、念のためにもう一本持ってきたんだけど……使う?」
それでも沖田春香の切れ味は衰えていない。
切っ先の速度は落ちていたが、強引ともいえる切り返しで向かってくるゾンビを叩き斬っていた。
「もちろんですよ。有難くいただきます」
呼吸も乱れているようだった。
限界も近い。
祥子の眼差しが一瞬憂いを帯びたが、すぐに見開かれ、笑顔で、
「どうしようかな」
「そんな意地悪なことを言ってる場合じゃないでしょ」
「そうね……じゃあ、これが決着ついたらどこか連れてってくれる?」
「え!?」
「どうしよう……温泉とか?」
「お、温泉?」
「無理なら残念。これは渡せないわね」
「わ、わかりましたよ。温泉でもどこでも行きますよ」
そう答えながら五体のゾンビの首を落とした。
通路は獣とゾンビの匂いでむせ返るほどだった。
遺骸の山を突き崩し、新手のゾンビの群れが押し寄せてくる。
祥子がその方角にありったけの銃弾を撃ち込んだ。
「え!?行きますよ?私が連れていくんじゃなくてあなたが連れていくのよ!意味わかってる?」
「え!?なんですか?銃声でよく聞こえませんでした!」
「あっそ!」
ふて腐れながら翔子が刀を沖田春香に投げ渡した。
「ここまで頑張ったご褒美よ、坊や」
受け取った沖田春香は鞘から引き抜くと長い呼吸をして、ピタリと構えなおした。
「菊一文字ですか。最高の贈り物ですね。使うのがもったいないくらいですよ」
「余裕出て来たわね。そのくらいふてぶてしいぐらいが丁度いいんじゃない」
「こっちから突進して時間を作ってから一端退きましょう。援護お願いします祥子さん」
満面の笑みでそう言うと、ゾンビの群れの中に突入していった。
祥子は悲しい表情でその背を見つめながら、やがてそこに照準をつけた。




