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第9話

 お待たせいたしました。

 先日、掲示板にありました疑問についてお答えいたします。

 私が今どこにいるのか、どこでアクセスしているのか、予想をされたり、心配してくださっている方が多いようでございます。

 冒頭で話をしたつもりでしたが、不十分だったようですね。

 私はネットカフェに逃げ込んだわけでも、地下かどこかに潜んで携帯電話をいじっているわけでもありません。


 私は旭川市の自宅にいるのでございます。


 私は二階の窓から日々、外を眺めております。

 もう十二月ですから寒気も強まり、日も短くなって参りました。

 真っ白な空からは深々と降り積もる雪、目前の鷹栖神社もすっかり雪化粧の装いでございます。

 その中を彷徨さまよい歩く黒い姿。そこだけはこの二ヶ月間あいも変わらぬ光景なのでございます。


 やつらは「群れ」では日頃行動しません。

 あくまで単独で動き回るのです。

 集団となるのは獲物を発見したときだけです。


 やつらは等間隔で離れて歩き回っております。

 それぞれがそれぞれの速度、進む方向も様々ですから一見はバラバラです。ただ、驚くべきことは、やつらには縄張りが存在するのです。その領域はおおよそ三m×三m四方ほどでしょうか。そしてその縄張りの中をぐるぐると休むことなく歩き続けます。動物園の熊のように同じルートを同じ歩調で永延と回り続けるのです。


 私はこの自宅の二階から何度も目撃した光景がございます。


 縄張りにほかの者が侵入したときのケースです。

 普通の動物だと同種であっても縄張りを守るため威嚇いかくする行為があったり、直に攻撃したりすることが多いのですが、やつらは違います。

 もとの縄張りを張っていた者が隣の縄張りへと移動するのです。

 つまり譲り合うのでございます。

 そして隣に縄張りを張っていた者もさらに隣へ動く……実にスムーズに全体の縄張り構成が変化していきます。


 私は初めてそれに気づいた時、感動すらしました。

 やつらは実にシステマチックな種なのでございます。


 獲物が悲鳴を上げたとき、その声の届く範囲の者たちは縄張りを捨て、こぞって集まってきます。

 そして獲物の息が絶えた後は、またゆっくりと縄張りの構成が始まっていくのです。

 しばらくの時間の後、大変に規則性に富んだ幾何学的な配置が完成します。

 やつらはこうして隅々まで種の生息範囲を行き届かせているのでございます。


 まあ、我が家の周辺で起きた事件はまたいずれお話をさせていただきます。


 さて、九月二十六日早朝の話に戻しましょう。


 露天風呂を抜け、なんとか崖を降りて救援を求めようとしていた私たちの眼下で警官や救急士が襲撃されました。

 それを見た私の妻の悲鳴、そして背後の浴場内からは襲撃されたのであろう石和麻由希いさわ まゆきさんの悲鳴、もしかすると私も四面楚歌しめんそかの現状に対し同じように苦悶くもんの声を漏らしていたかもしれませんが、とにかく私たちの声がやつらを引き寄せておりました。

 この時にはその実感はありませんでしたが。


 地上に溢れたやつらは一斉に斜面の木に手をかけ、なんとか這い上がってこうようとしておりました。


 私は腰をぬかしたようにうずくまる妻の手を引き、屋内の方へ引き返します。


 浴場へのドアを開くと悲鳴は先ほどより大きくこの耳に届きました。

 石和さんの声であることを確信しました。


 「トモ駄目だよ。これ以上行くと、あいつらがいるよ」


 妻は完全に委縮しております。

 涙を流しながら先に進むことを拒絶します。

 私たち二人はしばらく屋内の浴場で立ちすくみました。二つほどある風呂の中には当然誰も入っておりません。ガランとした屋内に妻の震えた声だけが響き渡ります。


 私は一端妻の手を離し、木製のハンガーを握りしめながら脱衣室へのドアに近づきました。

 また石和さんの悲鳴が響いてきます。

 同時にドアか壁を強く叩く音も聞こえてきます。


 曇り切ったガラスドアの向こうに確かに誰かが立っていました。


 乱暴に動く影……明らかに石和さんのものではありません。


 私はゆっくりと音をたてずにガラスドアを開きます。


 もちろん僅かです。


 そして壁に頭をこすりながらガラスドアの隙間から向こうを垣間見ました。


 男の背が見えました。


 倒れていたはずの老夫婦の旦那さんのほうでございました。

 亡くなったと思っておりましたが生きていたのです。

 そういえば、あの時、手をとって脈を確認したりはしていませんでした。首からの出血があまりにはげしかったので早合点はやがってんしてしまったのかと反省しました。

 それにしても元気に動いております。

 よく見ると、鍵のかかったトイレのドアに拳と全身をぶつけているのです。


 トイレのドアは開いてはおりませんでした。


 石和さんはまだ中で隠れております。


 では先ほどの悲鳴は、この男が起き上がったことへの驚きの悲鳴だったのでしょうか……いえ、トイレの中でも格闘するような衝突音が聞こえてきます。

 悲鳴は小さくなっておりましたが、その分中から唸り声が圧してきております。


 石和さんはあの室内で襲われているのです。


 相手はどうやって中に入って石和さんに襲い掛かったのでありましょうか。

 とにかくこの旦那さんはそんな石和さんを助けようとドアを叩いているのだ、この時の私の咄嗟の判断はこのようなものでございました。


 そのままドアを開き私も加勢しようとした刹那せつな、男の背からあの唸り声を聞いたのでございます。

 

 驚いて私はドアを半分まで開いた状態で固まりました。


 もしこの時、石和さんが絶命していて声を発せない状態に陥っていたなら私は気づかれていたかもしれません。


 この初老の男性は、背後でドアの開く音より、トイレの中から聞こえてくる悲鳴に反応していたのでございます。

 私は男の方を向いたまま後ずさりして妻に近づきました。

 そしてその手を取り、無理やり前に進んだのでございます。


 外にいた集団は確実にここまで登ってく気配がありました。


 ここに留まることなどできなかったのでございます。

 男がトイレの中に気を取られているうちにその背後からこの脱衣室を抜け、廊下へ抜けることを私は決断しました。もし気づかれて襲ってくる場合はこの木製のハンガーでやつの頭を叩きつぶす覚悟です。


 しかし、妻がどうしても前に進みません。

 唸り声を上げる男の背を見た途端に硬直し、震え、手の平で押さえた口から嗚咽おえつが漏れます。

 これ以上力づくで引っ張ると妻は倒れ込むことが予想されました。

 遊園地のお化け屋敷で同じような状況があったから私にはわかるのです。


 私は意を決し妻を抱え上げました。


 妻は私の胸に顔を埋め、必死に声を上げるのを堪えます。


 私は呼吸すら止めながらゆっくりと脱衣室内に入りました。


 このとき私か妻のどちらかが負傷をし、血を流すようなことがあったらすぐに気づかれていたと思います。とにかくトイレの中の声、そして血の匂いにこの男は完全に気をとられていたのでございます。


 私の額からびっくりするほどの大量の汗が滴り落ちます。


 振り向かれたら一貫の終わりでございます。


 このような勇猛果敢ゆうもうかかんな行為に踏み切った私に対し、驚くみなさまもいらっしゃると思います。

 これには理由がございました。人は土壇場どたんばでは意識よりも無意識が先に出るものでございます。

 日頃の癖とも言うべきものでしょうか。

 私は先ほど見たやつらの仕草から、あることを感じ取っておりました。

 妻が崖の上から悲鳴を発したとき、やつらはわき目も振らず一目散にこちらに駆けつけました。

 あの時感じたのは凄まじい集中力、凄まじい執着力でございました。

 私は教鞭をとり、教壇上から同じ光景を見たことがあります。

 物凄く集中したときの子どもには周囲の音が聞こえないのでございます。その時の仕草とまったく同じでございました。眼下の集団はことごとくその特徴を有していました。


 この男もおそらく同じではないかと考えたのでございます。

 慎重に事を運べば必ずここから脱出できるという自信が沸いて参りました。

 たいして根拠の無い決断ではございましたが、十四年培った経験から導かれた理が私にわずかばかりの勇気をくれたのであります。決して当てずっぽうの行動ではございません。


 男が激しく動くたびに、その首元から血がまき散らされます。

 床は血の海。

 トイレの木製のドアは男の拳のため割れ始めておりました。


 男の背に極限まで近づきました。


 距離にして三十cmほどでしょうか。


 耳をつんざくばかりの唸り声、男の背中からは腐ったような臭いが鼻をつきます。


 妻の震えは最高潮に達しまるで腕の中で跳ね回る魚のようです。と、振り上げた男の腕が私の前髪をかすめました。トイレの中からは石和さんの最後の力を振り絞った悲鳴が聞こえてきます。


 私の汗と妻の涙が大量に床に溢れた血の海に滴っていきます。


 この時ついに妻が堪え切れず嗚咽の声をついに漏らしたのです。


 私はビクリとして立ち停まりました。同じく、暴れていた目前の男も……。


 そのとき、妻が握っていたハンガーを反対側に投げつけたのです。


 男は反射的にそちらに向きました。


 私は駆けだしました。

 廊下に続くドアはもう目の前だったのです。


 さて、本日はここまでとさせていただきます。


 執筆していてあの男からの異臭を思い出しました。


 やつらはおそらくあの臭気で仲間かどうか判断しているのだと思います。


 それでは一度失礼させていただきます。



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