第9話
維新の巻 第9話
「あの不気味な緑の球はなんだ?」
茫然と見つめながら陸奥が呻きます。
西郷も瞳孔を開きっぱなしで、
「あれがゾンビの胚珠……いや種子ですね……勝先生の話では、ニオの身体に何万という胚珠が隆起し、そこにゾンビの粘液が付着することで受粉が始まります。胚珠は種子となり、ニオの肉体は細かい肉片となって、33550336ものゾンビが誕生するそうです。勝先生の想像の域ですがね……。あの緑の球体は、分裂前のニオの身体を守るためにゾンビたちが作りだした繭のようなものでしょうか……子房と呼んだ方がいいのかもしれません。ん、そうするとゾンビは裸子植物というよりも被子植物に近いのか……」
「どうでもいい。それより、三千万のゾンビがここに出現するっていうのか?」
「あくまで種子ですがね。成長すれば立派なゾンビに育つことでしょう。成長速度はわかりません。そこまでは勝先生から聞いていませんでした」
「で、俺たちはどうすればいい?あそこからゾンビの種がまき散らかされるのを待てばいいのか?それともあの球をぶち壊して中からこの男の妻を救出したほうがいいのか?」
「どうでしょう。間に合うのかな……。おそらくこの山岡さん夫婦は二人一緒になって初めてニオとしての特性を発揮するのでしょう。バラバラに存在しても昼型なだけです。ゾンビを操ることなどできないでしょうね。山岡さんもそのうちに昼間には自我を失って周囲の人間に襲い掛かり始めます」
「じゃあ、救出しろってことか!?」
「お好きに。ただ、救出するにせよ、受粉を完成させるにせよ、どちらにせよ二人は一緒にいなければならないんです」
「どういうことだ。受粉は完成していないのか?」
「おそらく。中途半端な段階で止まっているはずです。山岡さんがあの中に入らない限り、進行状況は前に進まないと思いますよ」
私は、特に何かを思案するわけではなく、ただ二人の会話を聞いておりました。
大久保翁がよく言っていた特別な昼型とは、半人前のニオという意味だったことを知りました。
私たちは高橋守の腕を半分ずつ分け合って食べたのです。
だから完全なニオにはなりきれなかった。
時間が経つにつれて私たちは完全体に近づいていたということです。
夫婦ともに一心同体であれば……。
不意に上空を飛ぶ三台の戦闘ヘリが不規則な動きをとりだしました。
「対ゾンビ用に品種改良された鳥たちですね。オオワシやオジロワシ、シマフクロウの大群がヘリを襲撃しています。ほら、一機落ちた」
西郷が言う通り、錐揉み状に回転していったヘリは羅臼岳に墜落し、大きな爆発音をあげておりました。
残り二機も執拗な攻撃にあって混乱しております。
「なぜ、獣たちのコントロールができていないんだ?遺伝子レベルまで命令に従うよう組み込まれているはずだろ」
「獣たちの生殖活動をそのままにしたのが失敗のもとなのでしょうね。遺伝子を存続させるという強力な本能の前に、コンピュータ制御が敵わなくなってしまっている。餌となるゾンビの受粉の成功は子孫繁栄に不可欠なものです。このままゾンビが減り続ければ、種が絶滅するという危機を獣たち全体が本能が感じ取っているんですね。だから自己を犠牲にしても受粉を守ろうとしている。獣が縄張りを守るのと同じ感覚でしょうか。新政府の大きな誤算です」
「ってことはなにか、俺たちがあの球をぶち壊したらどうなる?」
「まあ……獣たちは怒り狂うでしょうね。それを守ろうとしているゾンビたちも。」
「相変わらず簡単に言うな……。それをやってここから逃げきれるのか?」
「地下の首都になら逃げれますがね……知床を離れるのは無理でしょう。もちろんあの種子を連れて地下に逃げればゾンビも必死についてきます」
「チッ!結局はあのクソジジイの思い通りの展開か。随分と簡単にあの小屋から離れられたと思ったわけだ。手の内だったわけか。ゾンビ攻めを実行するつもりだな」
「そうでもなければこの娘もおいそれとはついてきませんよ。大久保さんから監視か誘導を委託されているのでしょ?」
西郷の言葉に朱雀はピクリとも反応しません。
西郷は苦笑し、
「現状としては、全力で救出の手助けをしてくれるのは間違いことでしょうが……」
「銃声が近づいてきたな。新政府の軍隊のお出ましか?」
「どれほど投入されてくるのか……一個師団ですからね……一万人くらいでしょうか」
陸奥と西郷の掛け合いが続いておりましたが、ここで朱雀が初めて西郷に対し口を開きました。端的に結論だけを口にします。
「四千だ」
「四千?それで一個師団ですか?随分と少ないですね」
「百万人の国家だ。敵対勢力も少ない。必要以上の軍人の数は負担になりすぎる」
「なるほど」
西郷はそれで納得した様子です。
「ヘリが落ちた。上空からの正確な爆撃はできなくなったな。ここからは白兵戦ってことか。であればミサイルも気にしなくて済む。しかし俺たちで四千人を相手にするのは正直しんどいな」
そう言って陸奥が微笑みます。
退く気はない様子でございました。
『あの中に妻がいる』
奇妙な現実。
妻は子どもを産もうとしているのです。
約十五年連れ添って、子どもは出来ませんでした。
互いに言葉にしたことはありませんが、互いに子どもを欲しがっていた気がいたします。
この世に自分たちの子どもを誕生させるなど、夢のまた夢だと思っておりました。
何十年後、どちらかが先にこの世を去り、それを見届けて、残りもこの世を去ることになります。
この宇宙に私たちの遺伝子は残りません。
何も残せずに死んでいくことに寂しさはありました。
もし私たちの子どもがいたら、どんなに幸せな人生になるのか、言葉に出せず渇望することもありました。
もし子どもが生まれて来て、本当に良かったと子ども自身は思うのだろうか……。
私の子どもに生まれて来て後悔することはないだろうか……。
こんな世の中に生まれて来て……。
いろいろな葛藤のなかで、私は納得したのです。
妻がいれば満足だと。
妻はどうだったのでしょうか……。
私は頭がおかしくなる寸前でございました。
気がついたら絶叫し、緑の球体目がけてひとり、駆けておりました。
緑の球体が悪魔の巣のように見えましたし、また、家族のささやかな幸せをつなぐ小さな小屋にも見えました。
破壊すべきなのか、私もその中でゆっくりと休むべきなのか、判断がまるでつかないのです。
いくら叫んでも答えは返ってきません。
人は最終的に何をもって判断するのでしょうか。
人生を決めるような重大な決断。
引き返すことも取り戻すこともできないような究極の選択を迫られたとき、何を頼ればいいのでしょうか。
おそらく斥候部隊なのでしょう。
左手に三十人ほどの部隊が目に入りました。
私に照準を合わせ、一斉に狙ってきます。
その背後から狼たちの群れ。
百頭近い大きな狼が引き金を弾く寸前の兵士たちに襲い掛かります。
首筋の肉を噛み千切られ、頭を噛み砕かれ、見る影も無く部隊は壊滅しました。
それを横目に私は疾駆します。
木々は燃え、騒然としている辺りを照らしておりました。
と、凄まじい爆発音と熱風。
狼たちがいた地点です。
砂埃とともに千切れ飛んだ狼の身体の肉片が地上に降り注ぎます。
戦車部隊が目前に迫っておりました。
強力な装備を備えた攻撃部隊の本隊も目と鼻の先です。
感覚の鋭くなった私の鼻と耳がそれを嗅ぎつけます。
妻に一歩近づくたびに、その感覚はさらに鋭さを増していきます。
身体に感じるパワー、スピードも同様に高まっていきました。
巨大な羆が三頭。私の目の前を物凄い速度で通過していきました。
その後を二百頭近い野犬の群れが続きます。
私には目もくれません。
そして敵主力部隊に戸惑うことなくぶつかっていくのでございます。
四千の新政府軍とその倍以上の数の獣の群れの戦闘は激烈を極めました。
獣たちは捨て身で特攻していきます。
どこから集結してきたのか、五千を超えるゾンビの群れももの凄い勢いで包囲網を狭めていきます。
絶え間ない爆撃音と銃声、人の悲鳴と獣の歓声。そしてゾンビたちの奇声。
私はその中で単独、緑の球体に辿り着いたのです。
熾烈な戦闘の中を勇敢に進んできた行動とは裏腹に、私の心は怖気づいておりました。
私の気持ちと妻の気持ちは本当に同じなのだろうか、と……。
申し訳ありません。
今日はもう時間が無いようです。
この話の続きは、次回にさせていただきます




