第5話
維新の巻 第5話
F一年五月二十一日の危機を脱した私たち「マシガニオ」の一向は、数日洞窟内で療養した後、大久保崇広の強い意向により海岸線から内陸部に移りました。
私、山岡朝洋は洞窟内の暗闇の中、妻を失った失意のどん底でございました。
何もせぬまま数日を放心状態で過ごし、促されるままに重い足取りで一向の後に続きました。
目的地は海岸線に近い知床五湖。
そこまでには原生林が続いております。
大きく育ちそびえる「トドマツ」が何万本と私たちの行く手を遮ります。
その幹は今日の空と同じ灰色でございました。
厳冬期に木の中の水分が凍り、幹が膨張し樹皮が割れる「凍裂」の跡が、私の心に何かを訴えてきます。
妻を失い張り裂けた私の心と共感し合っていたのかもしれません。
白い花を咲かすセンリョウ科の「ヒトリシズカ」の群生もまた切なく映り、枯れ果てた私の頬を涙が伝いました。
狼たちの襲撃以降、私たちの前に姿を現す獣はおりませんでした。
ひっそりと静まった樹海。
ウグイスのさえずり。
その中を六人と猿一匹が黙々と進んでいきます。
知床五湖の中でも一番の面積を誇る「二湖」に到着したのは五月三十日の夕方だったと記憶しております。
斥候として周辺を探っていた沖田春香の報告を聞いて、私たちは歩みを止めました。
異常な数のゾンビの群れが前方に密集しているとのことでございました。
その数ざっと二千。
対して私たちはそれぞれが傷を負っており完治はしておりません。(私の負った心の傷は永遠に治ることはないと確信しておりました)
銃弾もほぼ尽きております。ナイフや刀などの武器も劣化が酷く、まともな戦闘など到底できる状態ではございませんでした。
「ジジイ。知っていて湖を目指したな。この先にゾンビが集まっているとなぜ知っていた?」
頑健な身体を引きずるように最後尾を進んでいた金髪の陸奥忠信が呻くようにそう言いました。
行軍の中ほどを進んでいた老人、大久保翁は振り返ることもなく、
「理由はすぐにわかろう。我々はひとつの目的に向けて進んでおる。戦略はそれに則らねばならぬ。敗戦の撤退であってもじゃ」
敗戦という言葉に先頭を歩む斎藤勘次郎がピクリと反応します。
振り向くと鋭い眼光で一言、
「まだ負けたわけではない。ここで諦めてはこれまで死んでいった同士たちが犬死となります」
そう言うなり、先ほどよりも力強く前へ進んでいきます。
足を止めてその光景を微笑ましく眺めていた沖田春香が大久保翁の耳元で、
「食料は森のもので何とかなりますが、武器は補給が必要ですね。本部からの援軍は期待できません。大久保さんのお考えをお聞かせいただけますか」
大久保翁はそれを聞くとニヤリと笑い、
「安心しろ。援軍なら、ほれ、そこの湖におるわい」
「ゾンビ攻めですからね……もし本当にこの数のゾンビを指揮できれば心強い限りですが……」
「フン。わしの言う援軍はあいつらのことではない。生きた人間のことじゃ。」
「え?」
眉をひそめる沖田を残して大久保翁は悠々と前へと進んでいきました。
目前には空と同じ灰色の湖面が広がっております。
五湖周辺にはトドマツのような針葉樹の他にミズナラなどの広葉樹も多く見られ、知床の森は「針広混交林」と呼ばれておりました。
私たちはそんな緑に身を隠して辺りの様子を窺います。
ゾンビたち特有の低いうめき声ではなく、「ひゅー、ひゅー」という以前に斜里町の道の駅内で聞いた声が樹海一帯から聞こえて参りました。
あの時もゾンビたちは互いに距離をとることなく、縄張りを捨て密集していたことを思いだしました。
そして執拗に私に迫ってきたのです。
「やつらが受粉したがっているっていうのか?それで二千以上のゾンビが集まってきたと?ジジイの話が本当なら、攫われたもうひとりの昼型はここにいるってことになるぞ」
そんな陸奥の言葉に私ははっとさせられました。
「わしもゾンビの受粉など見るのは初めてじゃよ。ここに集まったのは水辺が受粉に最も適しておるからなのかもしれん。果たしてどれほどのゾンビたちが新しく生まれてくるものなのか……生物学者でもおれば少しは解明もできようが……」
大久保翁の言葉などすでに私の耳には届いてはおりません。
妻は狼に喰われずに生きているかもしれないのです。
二千十六年九月二十六日から、修羅場の中で妻と離ればなれになったことは幾度もありました。正直、生存を諦めかけたこともございました。
しかし、諦めずに足掻くことで再会を果たすことができたのです。
放心状態だったこの数日を心から悔いました。
まだやれることはあるのです。
妻を救いだし、再び共に過ごすことがまだ可能なのです。
「おい、どこに行く!?」
斎藤の制止を振り切り、私は走り出しました。
この周辺に妻はいる。
知床五湖を駆け回り、隅々まで探索する覚悟でございました。
「待て」
不意に目前に人影が現れたかと思うと、私の身体は宙を舞っていました。そのまま地面に叩きつけられます。
すぐに立ち上がろうとすると、額に銃口を突き付けられました。
漆黒に輝くキャットスーツで全身を包み、ポニーテールに髪を結った若い女性が目前に立っておりました。
圧倒するような目の力……。
目的達成のためならば、すべてを捨ててでも邁進する強さをその瞳から感じました。
「坂本!!」
背後から斎藤や陸奥たちの驚きの声が聞こえてきました。
私を独立組織「マシガニオ」に招待した副リーダー坂本祥子、その人でございました。
新政府に誘拐されたはずの坂本がなぜここにいるのか、それを知っていたのは大久保翁だけだったと思います。
申し訳ありません。
今日はもう時間が無いようです。
この話の続きは、次回にさせていただきます。
それでは御機嫌よう。
 




