第12話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第12話
お待たせいたしました。
私、山岡朝洋と妻を乗せた車は斜里に差し掛かったところで敵の待ち伏せに遭いました。
運転手と助手席に座る二名の兵士が狙撃され死亡。
私は妻を守ろうと無我夢中で銃を手にし、車から這い出たところを羆と鉢合わせになったのでございます。
気が動転していたとはいえ、生まれて初めて銃を握ったのでございます。自然と胸が高鳴りました。
使い方ですか?
いえ、まったくわかりませんでしたよ。
「ACR」というアサルトライフルで、重量は約三kg。箱型弾倉には約三十発の除草剤入りの六.八㎜×四十三SPC。
全て後ほど説明を受けて知った情報でございます。
黒々とした銃身の側面には用途不明のスイッチやボタンがあり、混乱するなかでとりあえず銃口を先に向けました。
安全装置ですか?
もちろん解除しておりませんでした。
目前に突如現れた対象に羆は少し驚いた感がありました。
いきなり襲われていたら、それこそひとたまりもなかったと思います。
獣の強い匂いで私はむせ返りました。
針金のような剛毛で覆われた真っ黒な物体。大気を震わすような唸り声。
それが私の視界を占拠しておりました。
恐ろしく大きな、雄大ともいえる羆でございました。
銃口にある消炎器が上下左右に大きく揺れます。
何かに操られているのかと疑いましたが、何のことはない、私の異常なほどの震えが銃口に伝わっていただけのことでございました。
震えというより痙攣に近かったと思います。
もちろん武者震いです。
せめてそういうことにしておいてください。
銃床は普通は肩に当てて照準を安定させるのですが、そんなことは知りませんでしたから、おそらく胸に当たっていたと思います。
到底、銃を撃つ姿勢ではございませんでした。
安全装置が単射や連射に入っていたら、私はふっとんでいたかもしれません。
羆は目前の二mの所まで迫っておりました。
漆黒の目。
まるで死神のように熊の目は真っ黒でございました。
大木のように太い首。
赤い口からは私の手のひらほどもある牙が覗いております。
引き金に指をかけるものの固くてまるで動きません。
指が恐怖で硬直していたのか、安全装置が作動していたのか、それとも全く別のトリガーガードに指をかけていたのか……。
すべてが当てはまっていたのかもしれません。
私は羆のプレッシャーに耐えられず引き金を懸命に弾こうといたしましたが、銃はまるで応えてはくれませんでした。
羆はジリジリと迫り、銃口にその鼻先が付くほどまでになりました。
その漆黒の目に、怯え慌てる私自身が映りました。
逃げようにも脚は動きません。
逃げたところであっという間に背後から襲われていたことでしょう。
構えた銃身の横まで羆の頭が迫ります。
私の突き出した腕の先、自分のものとは思えぬほどに硬直した指が羆の毛に触れました。
悲鳴ですか?
口は開けっ放しでしたが、声は出ませんでした。
無用な声を禁ずるような荘厳な雰囲気がありましたから。
私は食われるのだと覚悟いたしました。
これが食物連鎖なのだと。
私もこの輪廻の内にあったのだと初めて実感したのでございます。
羆がゆっくりと立ち上がりました。
大きい……なんてものじゃありません。二階を見上げる高さです。
その両腕をさらに天高く上げ、私に狙いを定めます。
走馬灯ですか?
ないですよ。そんなものは。
最後まで目を閉じないでおくことぐらいが私にできうる最後の意地でした。
と、ゆっくりと流れていた時が突然元に戻ったのです。
何かが私のすぐ横を凄まじいスピードで駆け抜けました。
その風圧で私は吹き飛び、地面に叩きつけられます。
吹き飛ばされながらも見た光景はとても現実味を帯びたものではございませんでした。
羆が尋常ではない速さで腕を振るい、その駆け抜けようとした物体をなぎ倒します。
それは黒いワンボックスカーでございました。
羆の一撃をまともにもらい、車は車道を外れて、畑に横転していきました。
間髪入れずに私の背後から銃声が……けたたましい銃声と共に羆の右肩が吹っ飛びます。
赤い血が私の頬にも飛んできました。
銃弾を幾つも受けたはずでしたが、羆はすぐさま態勢を立て直し、私のことなど見向きもせずに私の背後の敵目指して駆け始めました。
大きな巨体が車並のスピードで私のすぐ横を通過していきます。
振り返ると兵士が三名、横に並んで発砲しておりました。
横転した車からは二名の兵士が這い出て来て、すぐに羆に狙いをつけます。
羆は銃弾などまったく意に介さぬ様子で、一直線に三人の兵士のもとに向かうと一番左の兵士を薙ぎ払いました。
銃と一緒にその兵士の首がもぎ取られてアスファルトの道路に転がります。
残りの二名の兵士もたじろぐことなく至近距離から撃ちますが、何発撃たれても羆は倒れません。
ひとりの兵士の首に羆が食らいつきました。そのまま引き倒し、身体を前足で踏みつけます。首が引きちぎれ、踏みつけられた身体からは内臓が溢れ出ております。
最後の兵士はそれでも撃ち続けます。
羆がその兵士に迫りました。
すると羆の背後にいつの間にかひとりの兵士の姿が……大柄な男です。
この男だけが周りの兵士とは服装が違います。
持っている銃もこの男だけがライフルではなく、リボルバーの銃です。
影のように羆の背後に立つと、後頭部に狙いを定め、三発撃ちました。
羆の動きが一瞬止まり、やがて大きな音をたてて崩れ落ちます。
別のところからも銃声が。
振り向くと横転した車から出た兵士二名が別の敵を見つけて発砲しております。
こちらからは敵の姿は見えませんでした。
私は腰が抜けたように車を背にして倒れ込んでおりました。
「トモ!大丈夫け!?」
妻が駆けつけてくれました。
握った銃がどうしてもはなせません。
「無茶な小僧だの……撃ち方も知らんのに羆の目前に立つとは……」
大久保崇広が危険が去ったことを確認して車から下りてきました。
「いい加減四十歳のオジサン相手に小僧はやめてくださいよ」
私はそう答えるのが精いっぱいでございました。
大久保翁は声を出して笑っております。
「おお、ジジイ、生きていたか!?」
羆を倒した男がそう叫びながら近寄ってきました。
身長は百九十cmはありそうです。
筋骨隆々といった感じで、その上に派手な白いコートを着込み、髪は金髪でパーマがかっています。
大きく分厚いサングラス。
リボルバーを握った指には幾つもの指輪が光っておりました。
こんなにも派手な格好をした人間を見たのは初めてです。
「なんじゃ。二番隊は音信不通と聞いていたが、お主こそ生きておったようじゃの。戦闘用に改良された羆もゴリラには勝てなんだか」
大久保翁がそう返すと、男は苦笑いを浮かべ、
「こんな状況でも相変わらずのクソジジイぶりだ。感謝の言葉ひとつあってもいいだろうに」
残りの三名の兵士も集まってきました。
「狙撃手は岡田駿で間違いありません。手傷は負わせましたが逃げられました。獣使いも同様です」
報告を聞いて、大久保翁が答えます。
「接触点をさらに奥に下げるつもりじゃろう。それより陸奥よ、二番隊は何人残っておる?」
陸奥と呼ばれた金髪の偉丈夫はリボルバーの銃を懐にしまいながら、
「さっきまでは五人だったがな」
「なぜ交信を絶った?」
「ジジイもわかりきったことを質問してくるようになったな。内通者がたくさんいるからさ。他の部隊もお陰ですべて所在がばれていた。ジジイこそ坂本と一緒じゃないのか。この明らかな素人同然の民間人たちはなんだ?ヒッチハイクで知床を目指すつもりなのか?」
それを聞いて、今度は大久保翁が苦笑いを浮かべる番でございました。
二番隊隊長、陸奥忠信と私たちはこうして合流したのでございます。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




