第7話
お待たせいたしました。
前回の掲示板に対し、随分と批判めいた返信をいただきました。
石和麻由希さんの描写が、妻帯者のものとしては似つかわしくない表現だったからのようでございます。 指摘されて読み直してみると確かに女性として意識しすぎた感がございました。
ですが決して私心があってのことではございません。
私は妻と一緒でしたし、そのような気持ちになったことは決してございません。
若い頃とは違い、面と向かって伝えることは無くなりましたが、私は妻を愛しております。無用な詮索はご容赦くださいませ。もちろん不快な思いをされた皆様に謝罪はいたします。
さて、九月二十六日早朝の話に戻しましょう。
私と妻は宿泊宿の五階、露天風呂のある浴場の脱衣室で、探していた石和麻由希さんに出会いました。
恋人の高橋守からの依頼であることを伝えようとしたところ、思いもかけぬ返答が返ってきたのであります。
石和さんは高橋と宿泊はしていなかったのでございます。
彼女は幼馴染の奈々子という女性と二人で北海道旅行をされている最中でございました。
狐につままれたような私と妻でしたが、丁度折よく、高橋から私の携帯電話にコンタクトがございました。
これについて一言触れておかねばならないことがございます。LINEというインターネット回線を利用した交信でございますが、私の場合、声のやり取りはできませんでした。文字のやり取りはできるのですが、なぜか規制があって話は直接できないのでございます。
未だに原因がわかりません。
指で携帯電話の画面を辿ると高橋からのメッセージがございました。
《どうですか?石和麻由希は見つかりましたか?》
実にシンプルな内容でございました。
私がすぐに返信しようとした、その時のことでございます。
「ワアア、ッタアアアア」
雄叫びとも悲鳴ともつかぬ声とともに廊下側のドアが勢いよく開きました。
私たち脱衣室の三名はビクリとしてその方向を見つめました。
今考えると不用心極まりないのでございますが、その時は侵入者への備えなど何一つしてはおりませんでした。
石和さんに出会えたことをただ純粋に喜んでいただけでございました。
「た、助けて!!」
入ってきたのは二人でございました。
逃げ込んできたという表現が正しいと思います。
顔や体形から六十歳台の老夫婦といった感じでございました。
何かが滴り落ちていたので雨の中を来たのかと思いましたが、よく見ると、驚いたことに二人とも血だらけだったのでございます。
「早く、早く、そのドアを閉めてくれ」
男性の方が呻くようにそう言いました。
女性がその場に崩れ落ちそうになるのを男性が必死に支えております。その男性の首筋からは滝のような出血が……。
私は慌ててドアを閉めました。
咄嗟の事でしたが、条件反射的にそのような行動をとることができたのは、危険を察知したからのことでございましょう。本来持ち合わせている防衛本能が働いたのに違いがありません。
ドアを閉めた瞬間に向こう側から強い衝撃がございました。
そして部屋で聞いたあの唸り声。
声の主は物凄い強さでドアを押そうとしてくるのでございます。まるで獣のような乱暴な衝撃でございました。
私は背中をドアにつけて必死に踏み留まりました。が、何度も突き上げてくる衝撃に耐えられそうもございません。
私の妻と石和さんがそれに気が付いて私に駆け寄るなり両手でドアを支えます。その勢いで石和さんの浴衣は乱れておりました。が、当然ながらそのようなところに目を奪われていたわけではございません。
私は踏ん張りながらも、視線は倒れ込んだ夫婦に釘付けでございました。
私は生まれてこの方、このような流血する怪我を間近に見たことはございません。その光景を見ただけで腰がぬけそうでございました。
屈みこんだ夫人の方は浴衣が乱れ、右ひじ辺りと左足首の辺りから血が噴き出しております。
旦那さんだと思われる男性は自らの首筋に手を当て、必死に血を止めようとしながらも逆の手で奥さんの肩を抱いておりました。
あっと言う間に足元に広がる血の海に、私はこれが現実なのかと疑いました。
どのくらいの時が流れたのでしょうか。
三十分くらいでしょうか。
いや、もしかしたら十分ほどだったかもしれません。
抵抗してくる力が無くなっても私たちはしばらくドアを押さえる力を抜くことはできませんでした。
その間、老夫婦は何かを呟きながら床で悶えておりました。
先に力尽きたのは旦那さんの方でございました。
あまりに大量の血を流しすぎたのでございます。
奥さんがそれに気づき嗚咽を漏らしました。
旦那さんは目を見開いたまま静かに床に突っ伏せました。
その目から生気が失っていく最後の瞬間、私たちの方を見て、こう発したのです。
「……い、石和麻由希さん……あんたを助けにきた……」
その男性は確かにそう言ったのでございます。
私たちと同じ目的でこの夫婦はここに来たようでございました。
私と妻はまじまじと隣に立ち尽くす石和さんを見つめました。
彼女は一体何者なのでございましょうか。
彼女は私と目を合わすと、その大きな瞳を伏せながら首を振ったのでございます。どうやら彼女はこの夫婦のことを存じていない様子でございました。
「早くあの奥さんを病院に連れていかないと。救急車を呼ばないと」
妻がそう叫びました。
私はドアへの力を緩めることなく、携帯電話のボタンを押しました。
一瞬見たLINEの画面では高橋からのメッセージがずらりと並んでおりました。
《どうなんだ?なんとか言ってくれ》
《いい加減にしろ。答えろ》
《殺すぞ 答えろ》
恐ろしい文章を見た気がしましたが、それどころではありません。
高橋を無視し、緊急コールをしようとするのですが、相変わらず電話は不通状態でございました。
私には怪我に対処するようなノウハウを持ち合わせてはおりません。誰かを頼る以外にこの局面を乗り切ることはできないのでございます。
「露天風呂の方から外に出られるはずです。外に出て助けを呼ぶしかありません」
石和さんが私と倒れている老夫人を見比べながらそう言いました。
ふと、内線用の受話器が私の視界に入りましたが、部屋から何度試してもつながらなかったのでございます。試している時間は無いように思えました。
妻が興奮した表情で、
「トモが行くしかないでしょ」
「でもここのドアを押さえる人がいなくなる」
このドアには鍵がついていないのでございます。
誰かがここでドアを押さえていないと、簡単に侵入されてしまうのでございます。
私と妻のやり取りを見て、石和さんがこう提案されました。
「そこのトイレは鍵がかかりますから、私があのおばさんを連れて隠れます。その間にお二人は外に出て助けを呼んできてください」
彼女はそう言うと着衣を正し、ゆっくりと老夫人に近寄り、自分が部屋から持参したのであろうタオルをその傷口に当てました。
「ひどい。……これは噛み傷?」
噛み傷。
この夫婦に何があったのか想像するだけでも足が震えたのでございます。
石和さんは老夫人を抱えるようにして一つだけあるトイレへと連れていきました。
夫人は涙と血にまみれた表情を倒れた旦那に向けながら、促されるまま歩き出しました。
妻もそれに合わせてすぐに行動に移ります。
そして私の方を見て、
「トモ、早くしろし。急がないと間に合わなくなるよ」
「……わかった。行こう」
私はそう言うと恐る恐るドアを離れました。
倒れた男性の遺体の横を通り過ぎ、この場に残す石和さんに後ろ髪を引かれる思いを断ち切れぬまま、浴場へ向かいました。
背後でトイレのドアが閉まる音、鍵のかかる音を確かめ、私は浴場へのドアを開きました。
そして屋内の温泉を抜け、屋外に出たのでございます。
この時にはもう夜は明けておりました。
目前にそびえる山々の紅葉がはっきりと見て取れたのでございます。
私たちにもう少し知識と経験がござましたら、決断は変わっていたはずでございます。
ここから先は後悔とそこから教訓を得る学習の日々でございました。返す返すもあの場に石和さんを残してきてしまったことを悔いております。
さて、本日はここまでとさせていただきます。
目を瞑ればあの時の惨状が浮かんで参ります。あれから後、数限りない陰惨な光景を目にしてきましたが、どうしてもあの最初の衝撃が強く脳裏に焼き付いております。おそらくこの記憶は永遠に消えることはないのでしょう。
新しい世界を迎えてからの、これが私の原風景でございました。
それでは一度、失礼させていただきます。