第7話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第7話
お待たせいたしました。
F1年五月一日、午前三時。
私、山岡朝洋と妻は、独立組織「マシガニオ」副リーダー坂本祥子捜索のなかで何者かに襲撃され、野外歴史博物館「網走監獄」の最深部「五翼放射状平屋舎房」に避難しておりました。
しかしそこは何十もの数のゾンビが幽閉された禁断の場所だったのでございます。
おそらくはこれも何者かが巡らせた罠のひとつだったのでしょう。
最も安全だと思われた廊下に逃げ込んだものの、そこからも独居房のドアが一斉に開く大きな金属音が鳴ったのです。
廊下の幅は大人三人ほどがいっぺんに通れる程で、奥まで百mの直線通路。
曲がり角も無ければ、身を隠す所もありません。
割れた窓が幾つもあるものの監獄ならでは格子の組み方で、とても外には逃れられません。
引き返すにも後方はゾンビでまだごった返しておりました。
まったくもって絶体絶命の危機でございます。
「トモ……」
口を両手で覆って何とか悲鳴をあげるのを堪えている妻が、蚊の鳴くような小さな声で私を呼びます。暗闇で表情は確かには見えませんが、もう無理だと首を振っているようでした。
「ギギギ……」
すぐ近くで扉が開く音。
その横でも、その向かいでも……。
そして低い唸り声が幾つも重なりこちらに向けられます。
レンガ造りの床を力強く踏みしめる音。
何かが床に垂れ落ちる粘着した音。
鼻をつく悪臭。
足が硬直して動けません。
それでいて鼓動だけが凄まじい速さで高鳴っておりました。
私は妻をかばうようにして壁にピタリと張り付きました。
為す術が無いとはまさにこのことでございます。
漆黒の闇のなかを何かが近づいてくるのだけがはっきりと感じ取れました。
髪のようなものが私の鼻っ柱にわずかに触れたような気がいたします。
「うー うー うー うー うー うー 」
私の耳のすぐ横からあの唸り声が聞こえて参りました。
呼吸はおろか、瞬きひとつの音もたてられない恐ろしい緊張感。
一筋の汗が額から頬を伝います。
それは自分のものとは思えないほどに凍る様に冷たい汗でございました。
二体が私の目の前を通過したと思います。
闇が深すぎてはっきりとはわかりません。
近づいてくる足音と唸り声はそれよりも遥かに多いものです。
気づかれずにこのままやり過ごすことなど万に一つもないでしょう。
外の銃声は止んでいました。
だからやつらの歩みはゆっくりだったのでございます。
匂いで気づかれる……
やつらにとって視界などあっても無くてもさほど関係の無いことです。
感覚で一番優れているのは「聴覚」そして「臭覚」。
闇は私たちの味方ではないのでございます。
妻が食われていく姿を見なくて済むことがせめてもの救いでございました。
互いに押し合いながらやつらは何かに導かれるように進んでいきます。
私は観念いたしました。
妻の手を強く握りしめます。
しかし、なぜか、やつらは私たちのすぐ傍には寄ってこないのです。
接触する寸前にやつらの方から進路方向をずらしていきます。
わかりません。
私たちがウイルスを超越した身体を持っているからなのでしょうか……。
いえ、それは太陽の下だけでございます。
昼型は夜だけ人間の身体に戻るのです。今の私たちは正真正銘のやつらの餌でございました。
銃声がまた鳴り響きました。
悲鳴も聞こえてきます。
おそらく先にここを飛び出したゾンビたちが合流したに違いありません。
すると周辺の雰囲気が一変しました。
低い唸り声は、はしゃぎまわる子どものような歓喜の雄叫びに変わりました。
ゆっくりと彷徨うような足取りは、途端に猛ダッシュに変わります。そして突風のように私たちの前を駆け抜けていきます。
この廊下からやつらが全員いなくなるのに時間はかかりませんでした。
私と妻はライトをつけることも無く、ヘナヘナとその場に腰を下ろしました。
腰が抜けたというのが正しい表現かもしれません。
しばらくは汗ばんだ手を握り合ったままでございました。
「よかった。たいしたものだ」
奥から人間の男の声。
私は持っていた懐中電灯のライトをつけ、声がした方に向けました。
「眩しいからよしてくれよ」
そこには白いTシャツに紺色のズボンをはいた長身の男が立っておりました。
細身ながら筋肉質で、髪は幾分長く、ややパーマがかっており、無精髭。顔だちは目鼻がはっきりとしていて見るからに精悍です。
困ったような表情で私のライトの光を左手で遮っています。
「誰、ですか?」
私の問いに対し、男は柔らかな口調で、
「マシガニオの兵士のひとりさ。斎藤勘次郎ってもんだ」
「……先ほどはお見かけしませんでしたが……」
「そうさ。副リーダーと共に仲間を捜索してた方って言えば理解してもらえるかな?」
ここに到着した時に合流した五人の兵士の話では、行方不明になった兵士は坂本祥子を含めて五名ということでした。
そのうちのひとりということなのでしょう。
「あんたらがそうか……副リーダーが待っていた特殊な事情の民間人か……」
「たぶん、そうだと思います」
斎藤はツカツカと寄って来て、こちらに手を差し伸べてきました。
私は躊躇しながらも恐る恐る手を差し出したところ、斎藤の手は私の元を通過し妻の元へ。妻は躊躇することなくその手を握り、ありがとう、などと言いながら立ち上がります。
私は幾分ムカムカしながらも腰を上げました。
「よく耐えたな。声を出していたら終わりだったぞ」
斎藤はそう言って妻だけを労います。
ライトを当てると妻もまんざらではなさそうに照れ笑いしながら頷いておりました。斎藤は間近で見ると韓流スターのようないい男でございました。
「どうして匂いで気づかれなかったんでしょうか?」
妻が随分と丁寧な標準語を使いながら斎藤に問います。
「こいつの匂いが貴方に強く残っていたからでしょう」
そう答えるといつの間にか斎藤の肩に猿の「ヒコ」が乗っておりました。
妻が驚いて目を丸くしております。
「こいつはゾンビどもの天敵なんでね。やつらも本能でなるべくこの匂いは避けるのさ。こいつが貴方にじゃれて匂いが付いていなかったら命は無かっただろう」
それを聞いて妻が微笑みながら斎藤の肩に乗るヒコにお礼を言いました。
近寄ってその頭を撫でてもいます。
「まあ、俺も今こいつに命を救われたクチだけどね。この廊下の奥に縛られていたのさ……仲間を誘き寄せる餌として……こいつがロープを噛み切ってくれたお陰で助かったよ」
そう言って斎藤はまたスカした笑みを浮かべるのでございます。
私ひとりだけが何故だか会話の外におりました。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




