第5話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第5話
お待たせいたしました。
F1年四月三十日、午後十一時。
私、山岡朝洋と妻は道東の網走監獄博物館駐車場にて、知床潜入のため展開されていた独立組織「マシガニオ」副リーダー坂本祥子の部隊に合流することができました。
そして私たちは大久保崇広の決断により、行方不明となった坂本祥子を捜索すべく館内へ侵入することになったのでございます。
山から吹く冷たい風に背中を押されるようにして、私は漆黒の闇へと歩みを進めました。
石段を上がると網走川に見立てた小さな池がございます。
その上に掛けられた橋は「鏡橋」と呼ばれ、収容される受刑者が水面に映る己の姿を省みたそうです。
橋を渡ると幾分かの広場に出ます。
左手には食堂だった家屋が廃墟として佇んでおり、目前にはチケット売り場と入場口が暗闇の中にぼんやりと浮かんでおります。
私たちはそれぞれが懐中電灯を手にしてゲートを通過しました。
反時計回りの探索には兵士三名が向かい、時計回りには私と妻、大久保翁と兵士二名、それに猿の「ヒコ」が向かいました。
東京ドーム三.五個分の広さを持つ野外歴史博物館でございますから、隅々探索するとなるとどれほどの時間を費やすことになるか想像もつきません。
この暗闇に怪しい獣の気配、慎重にも慎重を重ねることになりましょうからさらに時間がかかることになるでしょう。
赤レンガの地面を踏みしめて先頭に兵士、次に大久保翁、そして私にしがみついて進む妻とそれにしがみついているヒコ、殿にまた兵士といった順序でございました。
時折強く吹く風の音と目の前を歩く大久保翁の聞き取れない独り言だけが耳に飛び込んできます。
辺りを覆う木々が言い知れぬ圧力を与えてきます。
「トモ、歩くの早いよ!もっと私に合わせて歩けし!」
妻が怒りを隠さず言い放つと乱暴に私の腕を引っ張ります。
おそらくライトで映し出される光景が怖いのでしょう。妻の持つライトは足元しか照らしていません。
「うん!ん!」
最後尾を付いてくる兵士が苛立ち気に咳払いをしました。
百mほど進むと、平屋建ての「裁判所法廷」が姿を現しました。
先頭の兵士が我々に振り返り、この建物に侵入することを動作で伝えてきました。
「こんな近くにはおらんじゃろ。もっと奥じゃ」
意に介さず大久保翁がそう口を開きます。
どうやらこの老人は恐怖というものを持ち合わせてはいないようでございます。
兵士が閉口すると、
「まあよいわ。入ってみるか」
勝手に決断して、ズカズカと進んでいきます。
「私は嫌。入らないよ。トモも入っちょ」
怯えた様子でそう妻が言いますが、ここにひとり立っている方が危険です。嫌がる妻をなんとか促し家屋の入口へと進みます。
玄関の窓と言わず、各部屋の窓がすべて粉々に割れておりました。
窓の奥の暗闇が不安を掻き立てます。
するとその窓の向こうに人影が……ハッとしてライトを当てると、ボロボロの顔をした人間がこちらを向いています。
妻がびっくりして腰を抜かしてその場にうずくまりました。
「人形じゃよ」
大久保翁が皮肉気味にそう言いました。
そうなのです。この博物館は至る所に昔を忍ばせるマネキン人形が配備されているのです。
囚人や裁判官など当時の服装をした人形がまるで生きているように佇んでいるのでございます。
「さっさと進め」
背後の兵士が舌打ちしながらそう言うと、妻は恨めし気に振り返り睨みつけました。私は引きずるようにして前に進みます。
屋内は冷たい風こそ吹かないまでも腐ったような臭いが充満しております。
そんな中、ひとつひとつのドアを開き、すべての部屋を確認して回るのでございます。
部屋に入るたびにリアルな人形が私たちを待ち構えておりました。
その都度、妻は悲鳴を押し殺しながらのけ反ります。
「クリア」
先頭の兵士が確認するたびにそんなことを言っておりました。
「フン、やはりここには何もいんかったの」
大久保翁の皮肉と共に裁判所を出るのと時刻はもう0時。
日付が変わって五月一日になっておりました。
「あのじゃじゃ馬の小娘のことじゃ、いるとしたら、もっと奥。五翼放射状平屋舎房じゃろ」
「しかし、ひとつひとつ確認せねば……」
「好きにせ。時間の無駄じゃろうが」
裁判所を出て、もと来た道を引き返しながら左折すると、今度は小さな蔵が見えてきました。
「味噌・醤油蔵」でございます。
時給自足の農場監獄を支えた施設。
監獄食事の味の決め手となるこの製造には経験の長い囚徒が専属に当たったそうです。
恐ろしく大きな醤油樽が横たわっておりました。
「クリア」
兵士の室内の安全を確認した声が響きます。
さらに進むとまた家屋が……今度は「休息所」です。
受刑者が刑務所から遠く離れて作業をするときの仮の宿舎で、再現建築されたものでございます。
屋内にライトを向けて、私たちはハッと息を飲みました。
粗末な造りの木の板の上に薄い布団一枚で沢山の囚人が眠っているのです。
立っているのはその囚人たちを監視する役人二人。
異様な光景でございました。
今にも誰かが起き上がってこちらに向かってきそうなのです。
妻は絶句してその光景を見つめておりました。
「クリア」
さすがの兵士も幾分声を震わしておりました。
その後、「耕耘庫」や「漬物庫」「監獄歴史博物館」とどんどん奥へと進んでいきます。
やがて目前に獄舎が現れました。
ベルギーのルーヴァン監獄をモデルにしたという世界最古の木造舎房。
五方向に舎房は伸び、雑居房と独居房合わせて二百二十六房。
明かり取りの天窓は厚さ七ミ㎜の鉄線入りガラス。
廊下の下は逃亡防止のため厚いコンクリートで固められ、その上にレンガが敷き詰められております。
破壊できないように壁には太い間柱が何本も隙間なく入っているそうでございます。
今でこそ登録有形文化財ですが、明治四十五年から昭和五十九年まで、多くの囚人たちの汗と血と涙を吸い込んだ正真正銘の獄舎でございました。
匂いが変わったと気づいたのは私だけではなかったようでございます。
大久保翁も無言で辺りの気配をさぐっておりましたし、対ゾンビ用に改良された猿のヒコも急にナーバスになり始めました。
懐かしい悪臭が鼻をつきます。
「やつらがいる……」
知らず知らずに私はそう呟いておりました。
どこからか銃声が聞こえてきたのは、丁度この時でございました。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




