第4話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第4話
お待たせいたしました。
F1年四月三十日、午後九時。
私、山岡朝洋と妻は、独立組織「マシガニオ」のメンバー大久保崇広、対ゾンビ用に遺伝子操作された猿「ヒコ」とともに北海道の東、網走の監獄博物館駐車場に訪れておりました。
目的は、新政府がある知床潜入の任務についている「マシガニオ」副リーダー坂本祥子の部隊と合流するためでございます。
私と妻は安住の地とされる知床を目指すため、ウイルスを超越した高橋守の腕を食い、「ニオ」と呼ばれる彼と同じ肉体に変じておりました。
大久保翁の話では私の試みは不完全であり、昼間はゾンビ、日が沈むと人間に戻る「昼型」と化しているということでした。
日中は牙をむいて襲いかかってきたヒコが、夜になると大人しく妻に懐いてきたのがその証拠のようでございます。
皐月目前ともなれば本州では桜も散って春からいよいよ夏に移り変わる時期でしょうが、あいにく北海道の地はまだまだ桜も咲きません。
吐く息は白く、夜の冷気は身体をこわばらせます。おそらく気温は零℃を下回っていたのではないでしょうか。
私と妻は身体を寄せ合い、ひっそり静まった駐車場に立って震えておりました。
なぜ合流すべき部隊は姿を見せないのでしょうか。
三十分ほど待ちぼうけをした後、あくびをしながらぼんやり立ち尽くす大久保翁に私は仕方なく質問をしてみました。
すると相変わらずの調子で「馬鹿」と言われ一蹴されます。
彼が言うに、すぐに集まってくるはずはないそうでございます。
敵の罠かもしれず、まずは潜んでこちらの様子を窺っているらしいのです。
時間がかかっているのは見知らぬ二人、私と妻のことですが、がいるために余計に危ぶんで近寄ってこないそうです。
まるで野生の鹿や狐が顔を出してくれるのを待つような気分でございました。
なるほど、大久保翁の話が真実だったとわかったのは、それからさらに二十分ほど経過してからでしょうか。
私たちはこの寒気の中で実に一時間ほども立ち続けたことになります。
街灯の無い暗闇からひとり、ふたりと銃を構えて近寄ってきたのです。
その全員が黒いヘルメットを被り、顔全体を覆うようなゴーグルをつけ、厳めしい緑色の戦闘服に身を装っておりました。
見事な間隔をおいてこちらを囲い込むように進んで参ります。
銃口は確実に私と妻に狙いを定めておりました。
声が自然と聞こえる距離になっても大久保翁は何も発しません。向かってくる兵士たちも黙々と迫って参ります。
私はそのまま撃ち倒されるのではないかという不安になったものでございます。
妻もヒコを抱きかかえてさらに震えておりました。
五人の兵士との距離が二mほどに縮まったところでございました。
その中のひとりが低い声で誰何してきました。
もちろん大久保翁が何か答えてくれると当てにしておりました。が、驚くことにまだ素知らぬ顔を続けているのでございます。
駐車場の街灯の半分は壊れ、残り半分が弱々しく辺りを照らしているほどでしたが、兵士が向けてくる銃口の中身までが見える距離まで迫られ、私は思い切って名前を告げたのでございます。妻も私の後に続きました。
兵士たちはよほど訓練されているのか全くといっていいほど足音をたてません。それが尋常ではないプレッシャーを与えてくるのです。
冷たい汗が頬を伝いました。
兵士が足を止めました。
手を伸ばせば銃身を掴める距離でございました。
私の吐く白い息が黒々とした銃口に吸い込まれていきます。
兵士は、「なぜ貴様たちがここにいる」というような質問をしてきました。
私は喉がカラカラに乾いておりましたが、ここまでの経緯を捲し立てるように話しました。言わねばすぐにでも頭を撃ち抜かれていたと思います。
私が懸命に話をしている横で、大久保翁は時折、失笑なような声をあげていたように覚えております。いえ、恐怖と混乱で定かではありません。
誰かに何かを伝えるため懸命になったのはいつ以来だったでしょうか。
教鞭をとって生徒たちに因数分解を教えていた時分でもここまで熱くはなっていなかったと思います。
とにかく自分たちはあなた方の味方であること、私も妻も危険な存在ではないことを思いを込めて説明いたしました。
多少理不尽な説明でも思いを込めれば相手に届く、これが私の教育理念でもございました。
ですが、兵士たちの反応は夜の冷気よりも冷たく、まるで手ごたえがありません。
昼型、というキーワードを持ちだした時でしょうか、兵士たちが思いもよらずざわめき出しました。
明らかに興奮し、さらに私たちに迫って参ります。
ひとりが荒々しく「この場で撃ち殺す」と言い出し、私の眉間に銃口を突き付けました。
氷を突き付けられてもあんなにも冷たくは感じないでしょう。
ああ、これが死の恐怖なのだと感じました。
大久保翁がようやく重い腰をあげるように口を開いたのがこの時でございます。
もしここで大久保翁が口を開かなければ、私はこの駐車場に脳みそをぶちまけていたことでしょう。
彼は淡々と「特別な昼型だ」ということを皆に伝えました。
「ここで撃ち殺すことは許さない」とも言ってくれました。
……いえ、厳密には「ここで撃ち殺さなくても大丈夫だ」だったと思います。
大久保翁の話を聞いてもしばらくは彼らの興奮は収まらない様子でしたが、やがて渋々銃を下ろしました。
私と妻は一歩間違えれば簡単に射殺されるような環境に身を投じたことになるのです。
まあ、今の世界、どこに居ても似たようなものでございますが……。
大久保翁が今度は兵士たちに説明を求めました。
どうやらこの中に肝心の副リーダーはいないようです。
兵士のひとりが代わりに説明を始めました。
詳細はだいたい次のようなものでございます。
この部隊「イーグル」の十名は、大久保翁と合流すべくこの監獄博物館の敷地内に潜んでおりました。
敷地内のゾンビたちは大方が獣たちに捕食されているようで、まるで気配が無かったそうです。
しばらく潜んでいたところ敷地内の奥から音が聞こえてくることに気が付きました。
二名を偵察に行かせたところ、いくら待っても戻ってきません。
痺れを切らせた指揮官の坂本祥子が二名を連れて奥に向かったそうでございます。
しかし、坂本祥子もその後消息を絶ち、やがて私たちを乗せたヘリがこの駐車場に下り立ちました。
指揮官が不在でどう動いていいか考えあぐねているうちに一時間ほど経過したようです。
その報告を聞き、大久保翁は腕を組んでしばらく思案しておりました。
監獄博物館敷地内への入口はひとつ。
幾分小高いところにあり、館内は実際の網走監獄さながらの広さがございます。以前耳にした話では、確か東京ドーム三.五個分の広大さを謳っていたことを覚えております。
舎房や独居房、浴場や漬物庫、庁舎、裁判所、休泊所などが野外に点々と建てられており、隈なく歩き回るのに随分な時間が必要です。
駐車場から眺めてみる限り館内の照明はほとんど切れているようで、暗くひっそりとたたずんでおりました。
山より深い暗闇に包まれているのです。
不吉な予感とはだいたいがその通りになるものでございますね。
大久保翁はようやく口を開いたと思ったら「手分けして坂本たちを探す」と言い出しました。
目前の脅威に対し、兵士五人に私と妻、そして老人ひとりに猿一匹。
冷たい北の風に晒された灯は実に弱々しいものでございました。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




