第3話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第3話
お待たせいたしました。
F1年四月三十日、午後七時。
私、山岡朝洋と妻は北海道旭川市の自宅を離れ、独立組織「マシガニオ」の一向と合流し、ヘリで網走を目指しておりました。
真っ暗な夜の闇の中をメインローターの回転音だけが響いております。
「昼型?何のことですか?」
私は目の前に座る大久保崇広の発した言葉の意味が分からず、そう尋ねたのでございます。
大久保翁はそのボサボサの頭を掻きながら外の夜景に顔を向き、
「簡単な話じゃよ。昼はゾンビ、日が沈んだら人間に戻る輩のことじゃ。ようは中途半端なニオで使い物にならん。無駄骨じゃったわ」
なんとも他人の自尊心を傷つける物言いでございます。
おそらく彼には恋人などの連れ添う人はおろか、親しい友人すらいないはずです。彼と一緒に居るぐらいならゾンビに怯えて部屋に籠っていたほうがましでしょう。
運転席の工藤洋平が困り果てた表情でこちらに振り向きました。
「大久保様、それはあんまりな話ですよ。山岡様も必死の思いで我々と合流されたのですから」
「フン。工藤、お前は二週間前の惨劇を知らぬからそんなことが言えるんじゃ」
「そ、それは……」
それっきり工藤は進路方向を向き直り沈黙してしまいました。
「私たちは、今は人間ってことですか?」
私は念のためにそう聞きました。
そんな器用に自分の身体が切り替わるとは到底信じられません。
「詳しくは知らん。太陽に関係がありそうじゃと話しておる科学者もいた。植物も太陽が沈むと光合成ができずに酸素呼吸だけになるしの……エネルギーの分解の仕方が大きく変わってくるのじゃろう。まあ、わしは科学者じゃないからよくは分らんよ」
「そ、そうなんですか……」
私と妻は互いに顔を見合わせました。
今更ながら、よく理解できてもいない行動をしたことにゾッといたしました。
大久保翁は尚も話を続け、
「ようは昼はゾンビのお仲間で熊どもに怯え、夜は人間のお仲間でゾンビに怯えるわけじゃ。忙しそうじゃの」
そう言ってまた高笑いするのでございます。
大久保翁の腕の中にいた猿が、妻の膝下にまとわり始めました。
先ほどの牙剥き出しの獰猛な表情はまるで無く、随分と人懐っこい顔つきで妻を見上げます。
妻は困った顔で私を見つめましたが、猿は気にもせずに私と妻の席の間に座りました。そして妻のカーキ色のズボンに付いたポケットやファスナーを面白そうにいじっております。
大久保がそれを見て、
「アハハハハ、さながら新人類の親子じゃ!」
それを聞いて妻の眉間には眼下の山々よりも険しい皺がよっておりました。
「さて、それではそろそろ目的地に到着します」
いつの間にか月が出ていて、おぼろげですが辺りの景観が見て取れるようになっていました。
「海だよ、トモ……」
妻が私の袖を引っ張ります。
私はさらに眼下を隅々まで眺めました。
「いや……湖だ……」
「湖……」
ドス暗い湖面にわずかな月の光が差し込んでいます。
「網走湖です。あと僅かで網走監獄です。そこで皆さんには下りていただきます」
工藤の説明を聞いて妻が不審がり、
「監獄?なんでそんな所に行くの?」
「いやいや、旧網走監獄を移転させて建てられた博物館ですよ。そこで坂本祥子副リーダーと合流することになっています」
妻は博物館と聞いてほっとした様子で、すっかり仲良くなった猿の頭をなでて笑顔を取り戻しました。
「知床潜入の作戦に従事している部隊は十ありますが、その中心となる主力部隊です。副リーダーを含めて十名ですね。そこに大久保様、山岡夫妻が加わることになります。あ、そうだ、ヒコも同行します」
「ヒコ?」
私と妻が同時に聞き返しました。
「その猿の名前です。非常に鼻が効きます。レインボーの作戦中も私は何度もヒコに命を助けられました。ゾンビの一、二体程度ならあっという間に戦闘不能まで傷つけることができますよ」
「まあ、夜が明ければ狙われる獲物はお前たち夫婦になるがの」
大久保翁が楽しそうに横やりを入れてきました。
私はそんな言葉を無視し、楽しそうに妻の腕にじゃれている猿を見て、出会ったあの瞬間が無ければ信じられない話だと思いました。
布袋は必需品になりそうだと大久保翁の横からひったくります。
「合流してからはどうするんです?」
この質問にだけは工藤も大久保もそろって沈黙します。
知床に潜入することは分っていましたが、ここから知床の玄関口であるウトロまで相当な距離がありました。まさか徒歩ではないでしょうね、という含みを持った質問でございました。
「先遣している偵察部隊の報告次第じゃろ。しばらくは網走に滞在することになるかもしれん」
大久保翁の言葉に私はあまり腑に落ちないながらも頷きました。
大久保翁は敏感にそれを感じ取って、言葉を続けます。
「知床にはもともと二百七十五種の鳥類と三十六種の哺乳類が生息しておったが、現在はその種類を増やしておる。この猿同様、対ゾンビ用に遺伝子改良された動物たちがゾンビ侵入を防ぐために大量に放たれておるからじゃ。放たれた新種は獲物がゾンビだけという以外はすべて野生の動物と同じ営みをしておる。交配もあり、子孫も残す。生まれてくる子は生まれながらに対ゾンビ用の本能を有していることになる。まさにゾンビの天敵が自然に増えていくというわけじゃな。だから知床に近づくほどゾンビの数は減り、襲われる危険性は薄まる。しかしお前たちは違うぞ。日中に山を彷徨えば目の色変えた動物たちの餌食にされて終わりじゃ」
「その動物たちは人間を襲うことは無いんですか?」
私にその問いに対し、工藤が答え、
「コンピューター制御されていて、基地の人間によるコントロールは可能です。しかし放たれている動物の数が多すぎて把握できていないのが現状でしょう。むしろ潜入してくる対人間用に無制御になっている可能性もあります」
「要するにゾンビだろうが人間だろうが全て襲い掛かるってわけじゃな。これは侵入口を探し出しても行き着くまでが大変じゃ」
大久保翁のぼやきに対しは誰も応えませんでした。
やがて、ヘリは博物館前の大型駐車場に下り立ったのでございます。
「信じられないねトモ……やつらの姿が無い……」
ヘリから駐車場に下り立つと、そこはひっそりと静まり返っておりました。
見渡す限りの視界の中にやつらゾンビの姿がありません。
ヘリの音を聞きつけて集まってくるかと思われましたが、十分経過しても何の変化もありませんでした。
「では、まだいずれ会いましょう。それまでお元気で」
工藤はそう言い残し、再び回り出したヘリのメインローターの爆音と共に夜空に消えていきました。
残されたのは私と妻、意地悪じじいの大久保翁と猿のヒコの三人と一匹でございます。
途端に心細くなって参りました。
ヘリの音を聞きつけてすぐに合流してくると思われていた坂本祥子の部隊がまるで現れません。
山から吹き付けてくる風は、まだまだ冬のものでございました。
「寒いね、トモ」
妻のその一言で気が付きました。
日中は寒暖をまったく感じなかったのですが、夜になってその感覚を取り戻しておりました。
心なしかお腹も減ったような気がします。
昼型という話は真実なのかもしれません。
「ウウォー!!!!」
どこか遠くの山奥から獣の遠吠えが聞こえてきて、私はビクリと身体を震わせました。
ゾンビの対処法はこれまでの半年間で培って参りましたが、野生の動物の知識は皆無でございました。熊に出会えば逃げるべきか、死んだふりをすべきかもよく分っておりません。
「大久保さん、熊が出てきたらどうすればいいでしょうか?」
私は恐る恐る大久保にそう尋ねました。
大久保は手元の資料にライトを当てて辺りと見比べておりました。チラリとこちらを見て、
「潔く食われてしまえばいいじゃろ」
と、つまらなそうにそう一言だけ。
私は金輪際、この男に質問をすることを止めようと心に誓いました。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




