4章 死霊所潜入編 煉獄の巻 第1話
4章 死霊所潜入編
煉獄の巻 第1話
お待たせいたしました。
「6」という数は数学の中で最も神秘的な数とされています。
かの有名な数学者ピタゴラスは今から二千六百年前、約数の和がその数自身に等しくなる数(約数にその数自身は含まない)を「完全数」と呼びました。
6の約数は1と2と3でございます。その和は6です。
これはとても珍しいケースであり、「6」の次に現れる完全数は「28」、その次は「496」、その次は「8128」、その次は「33550336」、その次は「8589869056」となります。
宗教色の強かったピタゴラス教団はこの完全数を神として崇めていたそうです。
また、それよりはるか昔、神は6日で天地を創造したとされています。
それは「6」という数が完全であるが故に万物の世界の完成に6日かかったそうです。
月が地球を周回するのに28日かかるのもやはりそれが完全数だからなのでしょう。
日本政府がこの忌まわしい実験の区切りを5日にし、感染を6日経過させずに掃討しようとしたのは、科学者たちの意見を受け入れただけではないはずです。
感染が始まり6日が過ぎ、世界は完全にその様相を変え、新たに創造されたのでございます。
軍の総力を持ってしても食い止められなかった(それとも本気では食い止めようとしていなかったのか……)ゾンビウイルスの感染症。
これが全国(全世界)に広がり「二百日が経過した世界」に、私、山岡朝洋は足を踏み込んでおりました。
道路や駐車場、林の中、建物の中、河の中まで感染し自我を失い彷徨うゾンビに埋め尽くされた世界でございます。
ひとたび生存者を見つけたなら狂ったように歓声をあげ、駆け、噛みつき、食らいつく悪魔のような種。
頭を砕かれようが、身体を貫かれようが、やつらは死ぬことはありません。
指一本、肉片ひとつになっても動き回るのです。
人間は地上の支配権を失ったのでございます。
私と妻は、ウイルスを制圧した高橋守という男の左腕。(正確には四百九十六㎜である肘から中指の先まで)を分け合い食べ尽しました。
F1年四月二十九日のことでございます。
さらに、インターネットの掲示板を通じて知り合った独立組織「マシガニオ」副リーダー、坂本祥子からの要請を受けて、私と妻は自宅を出ました。
目的地は丘の下に広がる国防軍第二師団北鎮司令部跡地。
通常、徒歩だと三十分はかかる距離でございます。
自宅の玄関のドアを開くときの恐怖と言ったら、断崖絶壁から険しい岩だらけの海面に飛び込むような気分がいたしました。
生きている心地などまるでしませんでしたよ。
「マシガニオ」の用意してくれるヘリコプターとの待ち合わせの時間が午後三時でしたから、躊躇している猶予が無かったのが逆に良かったのかもしれません。
自宅前の道路にも、やつらは足を引きずりながら徘徊しております。
私と妻は、その中に入っていくのです。
妻は帽子を深々と被って視界を遮り、自分の口を両手で覆って漏れる嗚咽を必死に堪えておりました。涙を流しながらも声はあげず、私のすぐ後ろをピタリとくっ付き目的地まで歩んだのです。
そう言えば、なぜでしょうか……。
今までは吐き気をもよおすほどのゾンビたちの悪臭がまるで気にならなかったのです。
やつらの目の前を通り過ぎても襲われる恐怖も不安も私は感じませんでした。
むしろ安心感、懐かしさすら感じたほどでございます。
この日はあいにくの天気で、雨に混じって時々雪が降ってきます。
そう言えば、随分着込んで出かけたのですが、暑くも寒くもありませんでした。緊張でそんなことを感じている余裕がなかったからでしょうか。
半年ぶりの散歩です。
そもそも妻と散歩するなどいつ以来だったのでしょうか。
私は妻に話しかけることすらしませんでしたが、仲良く連れ添って目的地に向かいました。
慣れ親しんだ景色はかなり変わっていました。
多くの人家が焼け落ちており、残った家もゾンビたちに踏み込まれて窓ガラスは割れ、黒い血痕の跡が至る所に見られました。
白骨化した遺体などは数えきれないほどでした。
途中にスーパーや自動販売機などがありましたが、なぜか食欲も喉の渇きも無く、特に利用することもありません。
この半年、飢えに苦しんだのがウソのようです。
よく通った中華料理のお店を通り過ぎたときには、思わず妻と中に入ってみたくなりましたが、玄関口で顔を半分白骨化して彷徨う店長を見て諦めました……。
すれ違うゾンビはみんな悲しそうな表情をしておりました。
誰とも話ができず、ただ黙々とひとり、歩みを進める姿は憐れというより他にありません。
背丈が私の腰ほどもない幼子が無残な身体でよちよちと歩いているのです。それを見て私は思わず涙がこぼれました。
まさに地獄図でございます。
一体人間は、人類はどれほどの罪を重ねたと言うのでしょうか。
これが人類に与えられた罰なのでしょうか……。
大好きだった居酒屋の前を曲がり、コンビニの前を通り過ぎ、いよいよ基地跡です。
自衛隊だった頃はフェンスで囲まれていたぐらいなものでしたが、国防軍が組織されてからは分厚く高い壁で周囲を囲っております。
東西南北に出入り口がありました。
私たちは一番近い北口を目指しました。
道路には乗り捨てられた戦車が何台もありました。
その戦車によって路肩に押しやられた自動車の山。
投げ捨てられた銃、黒焦げの炭になっている遺体、毛虫のようにアスファルトの上を這いまわる肉片……凄まじい激戦の跡でございました。
北口の門は一度破られた後、簡単な補修作業があったようで、外のゾンビが入ってこられなくなっています。
私と妻は台になるものを探してその簡易門を乗り越えて中へ入りました。
門の効果がどれほどあったのか……敷地内もやつらで溢れかえっております。
私と妻はヘリを探して彷徨いました。
そもそもこのゾンビの中にヘリを下ろすことなどできるのでしょうか。
よく考えてみると不可能な話でございます。
三十分は彷徨ったでしょうか。
予定の午後三時を十五分ほど過ぎた頃に、頭上でバラバラという音がしました。
見上げてみると確かにヘリが飛んでいるのです。
私は思わず声をあげそうになりました。
妻が喜びの涙を流しているのがわかりました。
もちろん他のゾンビたちも見上げていましたよ。
そのまま下りてきていたら数百のゾンビの群れに襲われていたことでしょう。
ヘリから私たちの目前に紐が投げ下ろされました。
その先には救命胴衣のようなものがふたつ付いています。
私はそのひとつを妻に装着させ、自らもそれを着ました。
ヘリから声援などありませんでした。
ただ、私のスマートフォンにLINEが来ていました。
「その胴衣を着て待機。二分後、ヘリに引き上げる」とね。
二分後、私の返信など待たずにヘリは動き出しました。
それに合わせて、私たちはゆっくりと空中に浮かび上がったのです。
十分ほど飛んで、ヘリと私たちは大型ショッピングモールの屋上に到着しました。
それまで私と妻は紐にぶら下がったままですよ。
よく落ちずにいられたものです。
先に私たちが屋上に下り、すぐさま胴衣を脱いでその場を離れます。
やがてヘリがそこに下りたちました。
凄まじい風圧で吹っ飛びそうでございました。
メインローターの回転が収まり、ヘリから二人の男が下りてきました。
遠目からでも若い男とそうじゃない男のふたりであることは見て取れました。
私たちに声をかけてきたのはその若くない男のほうです。
挨拶もなく、いきなり切り出してきました。
「本当に感染を克服したというのか……にわかには信じられない。しかし、ゾンビどもの中をあの基地まで歩んできたのだから本物か……メールの内容を認識できたということは知識も記憶もあるということじゃな」
ボサボサの頭に冴えない眼鏡。
歳はそう、七十くらいでしょうか。
身長は百六十cmほどの小柄ながら、なぜかそれ以上の存在感を見る者に与えるインパクトがありました。
服装は白衣。医者にも見えますが、どちらかと言うとヤブ医者の類です。
これが大久保崇広との最初の出会いでございました。
呆気にとられて絶句している私たちなどお構い無しで大久保は話を続けます。
「あの男のニュースが流れて、ゾンビの腕を食うという暴挙を実行に移した者が後を絶たなかった。あるものはそのまま感染し、あるものは精神が崩壊し、まともな者などいやしんかったが……ウーン……本物のニオは初めて見るわ」
「ニオ?」
「フン、組織の上層部だけに通じる隠し言葉じゃわ。ゾンビの腕を食って感染を超越した者をそう呼んどるんじゃ。ニオを集めるのが我々の急務じゃ」
「私たちが初めてなんですか?」
「そうじゃ。わしはそんな話、信じちゃいなかったがの」
それを聞いて私と妻は顔を見合わせました。
「もしかして、私たちを試したんですか?それであのゾンビの中を歩かせて」
「そうでもしなきゃ確かめようもあるまい。安心せ。無事、ニオであることは証明できたんだからの」
「ひどい……」
妻の言葉など大久保の耳には届きません。
私は辺りを見渡しながら、
「そう言えば坂本さんはどこです?私は彼女から誘いを受けて来たんです」
「坂本?ああ、あの鼻っ柱が強い小娘のことか。残念だがここにはいない」
「いない?本拠地ですか?」
そんな私の問いを鼻で笑って、大久保はひとりそそくさとヘリに乗り込んでしまいました。
残った若い男が苦笑いを浮かべながら私に握手を求めてきます。
「私は工藤洋平このヘリのパイロットです。ようこそマシガニオへ。歓迎いたします」
こちらは大久保とは打って変っての好青年。
歳は二十五くらいです。短髪で眉が濃く、筋肉質。身長は百八十cmはありそうです。いかにも体育会系の若者でございました。
私は少し緊張しながら自分と妻の自己紹介をして、握手を交わしました。
大久保の名前を知ったのはこの時です。自分勝手に場を去った大久保の紹介をする時の工藤の表情からは、自分でも彼を持て余しています……と言いたげでござました。
「自己紹介もほどほどにせんと、やつらが音を聞きつけて下の階に雪崩をうって入ってきているぞ」
大久保の声を聞いて私たちは慌てて屋上から眼下の地面を眺めました。
いつの間に集まったのか三百を超す数のゾンビがどんどん店内に侵入してきています。
工藤は無言でこちらを見て頷きヘリへと走りました。
私たちも後を追います。
「なんじゃ、わしの席の隣に座るんかい。お前たちは臭くてかなわん。やつらの悪臭がプンプンするんじゃ。できればロープにぶら下がって付いて来てくれんかの」
そんな大久保のつぶやきに対し、妻は目を見開いて睨みつけておりました。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




