4章 出発を前にして
第4章 出発を前にして
お待たせいたしました。
私、山岡朝洋と妻が、感染を克服した高橋守の左腕を食べてから、四十時間が経過しております。
未だ意識もはっきりしており、自我も維持できている状態でございます。
妻は具合が悪いと寝込んだままですが、私の問いには的確に返答できております。
どうやら私たちの命がけの試みは、成功したようでございます。
身体には大きな変調はありません。
気になることと言えば、この四十時間まったく空腹感が無いことと、排泄がまるで無いことぐらいでしょうか。
今更、特に大きな問題ではございません。
痛みも嫌悪感もまったく感じていないのですから。
そうそう、知床の日本国新政府のホームページを覗いてみました。
西暦二千十七年から、世界的に年の数え方が変わったようですね。
知らずに四か月も過ごしておりました。
First Change 1、【最初の変貌 1年】ですか……略してFCとかFと呼んでいるそうです。
BCはキリスト紀元前、ACはキリスト紀元後ですが、FCはさながらFinal Chanceと言ったところでしょうか。
人類にとって最後の節目だと受け止めた方は私だけではないはずです。
ここでは今後、多くの意味を含みながら「F」と記していくことにいたします。
本日はF1年四月二十九日。
天候は雨。
時折雪も混じっております。最低気温は2℃、最高気温は4℃。まるで冬に逆戻りしたような寒さでございます。
午前十時。私の掲示板に一通のメールが届きました。
差出人は、独立組織「マシガニオ」副リーダー、坂本祥子という方でございます。
ネット上の噂では、「マシガニオ」は生存者を集めて新国家建設を目指しているそうです。
本拠地は不明。
ネット上でも噂ばかりが先行しており、眉唾な話だとこれまで気にもしておりませんでしたが、どうやら本当に存在するようでございます。
坂本祥子という方は、もともと東京住在でマスコミに勤めていたようです。
メールでやり取りしてみるとその情報量の豊富さに驚きました。
私の掲示板もかなり以前から注目していただいていたようです。
彼女の話では私たち夫婦を「マシガニオ」に招きたいとのことでございました。
ヘリで迎えにも来てくれると言ってくれました。
願ったり叶ったりでございます。
自宅二階から外の景色を眺めると、周辺にも道路上にもゾンビたちで満ち溢れております。
いくらハイブリットエンジンの車でエンジン音が皆無でも、この中を進みながら知床を目指すことは不可能です。
層雲峡からの帰り道は、掃討に動いた国防軍の戦車隊のお陰で旭川市までの道筋は走りやすかったものですが、あれから半年経過した今ではまるで状況が違います。
ゾンビどもを引き倒していかない限りは前には進めないことでしょう。
車体が破損し、タイヤはゾンビの体液で滑り、やがて前に進めなくなり立ち往生することは明白でございます。
実際ここから脱出するには徒歩以外に選択肢は無かったのです。
「マシガニオ」と交信できるようになったことは、私たち夫婦の未来を明るく照らしました。
早速、喜んで招待を受ける旨を送信いたしました。
それが、そう、ついさっきその返信が届いたばかりでございます。
そこにはこう書かれていましたよ。
『つきましては、本日四月二十九日午後三時、旭川市の北、国防軍第二師団北鎮司令部跡地までヘリでお迎えに伺います。この時刻にお姿が見られない場合は我々マシガニオとの合流の意思無しと見なします。 坂本祥子』
なんとも一方的な物言いではございませんか。
ええ、余裕は無いのはお互い様です。相手を思いやる気持ちなど何の美徳でも無い時代です。わかっております。しかし、それにしてもあんまりな話です。
私の自宅は旭川市の北に位置しています。
国防軍第二師団北鎮司令部跡地は丘を下れば目と鼻の先でございます。だからこそ層雲峡からの帰り道は楽にここまで辿り着けたのです。
平時であれば車で十分とかからぬ距離。
ですが、今はその間にどれほどのゾンビが存在するか見当もつかないほどでございます。
ここまで生き延びてきたみなさんならばこの困難さがわかるはずです。
まず三分と生きてはいられないでしょう。
「マシガニオ」のみなさんだって充分推測できるはずなのでございます。それを承知のうえでのこの要求。
「マシガニオ」とは人でなしの集団なのでしょうか……。
いえ、行きますよ。
もちろん行きます。
もう、準備は整えました。出発の時刻は目前です。
どうやって行くかですか?
徒歩以外に選択肢は無いと言ったはずです。
「高橋守の腕を食った」その効果を信じるしかありません。
変貌した高橋は言っていました。
「誰も襲ってこなくなった」と。
またはこうも言っていました。
「やつらの中でも自由に動き回れるようになった」と。
その効果を証明するためには、実際に私が外に出るより他にないはずです。
そうです。
私たち夫婦はあのゾンビの中を廃墟と化した国防軍基地まで歩むのです。
悪夢のような話ですか?
悪夢はもう見飽きましたよ。
この四か月、悪夢の中を生き抜いてきたのですから。
他に手段があったら教えていただきたいものです。
申し訳ありません。
私も心の余裕が無くなっていて……身勝手な言い分でございました。神経が過敏になっているのです。どうか無礼な発言をお許しください。
さて、それでは妻を起こして参ります。
まだ妻にはこの事を話していません。
驚くでしょうし、怒り出すでしょうし、泣いて嫌がると思います。
何度もお伝えした通り、もうこれしか方法は無いのです。
ゾンビの中をかいくぐるために私たちは高橋の腕を食べたのです。
それでも旭川市から知床までの距離はおそろしくあります。
今回のチャンスはまさに「渡りに船」なのでございます。
ここを逃す手は絶対にありません。
泣いている妻を引きずってでも行きますよ。
どうせ死ぬなら前を向いて死ぬ覚悟でございます。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。




