4章 死霊所潜入編 プロローグ
はじめに
四月も終わりに近づくと、ここ北海道旭川市も春の陽気に包まれ、ぐっと雪解けが早まりました。桜の開花にはまだ幾分の日数が必要でございましょうが、ゴルフであれば充分にプレーすることも可能なほどでございます。
半年に及ぶ雪に閉ざされた冬の時期も、ようやく終わりを告げようとしております。
ご心配をおかけしておりますが、私、山岡朝洋も妻も健やかに過ごしている次第です。
七十kgはあった体重が四十五kgまで減少し、見違えるほどスリムになったこともお伝えしておいたほうがよろしいでしょうか。妻はよく私のことを福山そっくりだと褒めてくれておりますから、この姿を教え子たちに見せられたのならアイドル張りに随分と人気者になれるかもしれません。
まあ、福山もあの当時の生徒たちも誰も生き残ってはいないでしょうが……。
第4章 死霊所潜入編 プロローグ
ネット上に突如出現した坂本陽輔の層雲峡での体験の全貌が動画配信され、真実が瞬く間に日本中の生存者に広がりました。
私たちが恐怖の体験をした同時刻、同じ場所でのことでございます。
私は自分のことのようにこの動画にくぎ付けになりました。
残念ながら、私はニアミスで登場の機会を逃しましたが、妻はちゃっかり登場しておりました。
これを見て妻は勝ち誇ったようにほくそ笑んでいたものでございます。よほど自分だけが登場していたことが嬉しかったのでしょう。
動画については新政府の工作によって三時間で削除されてしまいましたが、生存者の心からは決してこの真実を削除することなどできません。
私たち生存者はこれ以来、国を頼ること、国に期待することをやめました。
当然でございます。これまでの一連の痛ましい出来事がすべからく国の企みによるものだったことを知ったのです。
一部の国、一部の人間の生存・発展のためにすべては行われたのでございます。
私たちはこの怒りをどこにぶつければよろしいのでしょうか。
部屋に籠って虫けらのようにただ死んでいくなど到底受け入れられるものではありません。
安寧のなかで前だけを見て暮らしている連中に一矢報いなくては、死んでも死に切れません。
生存者のみなさまにはこの気持ち充分理解していただけるものだと思います。
食料も尽き、体力も限界に達している中で、おそらくみなさまは同じ事を思い、同じ行動に出たことでしょう。
坂本陽輔の動画で解明された「496の謎」のことでございます。
彼はこの中で、「感染者の肘から先を食べれば自我を維持した感染者になれる」と語っておりました。
そしてその成功する確率が八千百二十八分の一だということも……。
この動画を見て、はたして日本中のどれほどの生存者が、一筋の希望にすがって実行に移したことでしょうか。
ネット上で懇意にさせていただいていた方もも実行に移すことを宣言して後、まったくの音信不通でございます。
感染者を捕まえることができずに命を落とす方も多いと聞きました。
運よく腕を手に入れて、食べたが何の効果もなかったという話もです。
どちらにせよ永延と彷徨う感染者の仲間入りをしたのは間違いありません。
実に嘆かわしいことでございます。
しかし、それ以外に私たちがこの現状を打開できる術は無いのも事実でございました。
私でございますか?
もちろん実行に移しました。
そうですね……あと三時間で二十八時間が経過します。
坂本の動画の中では、二十八時間で結果が出ると言われていました。
もう間もなくでございます。
どうやって感染者を捕獲し、腕を取ったかですか?
そういえば、新政府から今後、感染者たちのことを正式に「ゾンビ」と呼ぶことが決まったそうです。私も今後はそう呼ぶことに致しましょう。
私にはゾンビを捕まえる力も技術もございません。
たまたま保管していたのでございます。
しかし、これは通常のゾンビの腕ではございません。
層雲峡から脱出したあの日、二千十六年九月三十日、私の車にしがみついてきたあの男の忘れ形見なのです。
ええ、高橋守の腕です。
私たち夫婦をそそのかし、決死の冒険へと送り出した男。
逆恨みで私たちを執拗に追い回した男です。
あの日、高橋は私の車にしがみついたまま対向車線から向かってくる戦車に巻き込まれて消えました。
その時、丁度左腕の肘から先が車のガラスで切断されて車内に残ったのでございます。
旭川市の自宅に戻ってからも私はその腕を大切に保管して参りました。
保管をしていた理由ですか?理由はわかりません。
ただひとつ言えることは高橋がいなければ、高橋が私たちをそそのかさねば、私たち夫婦はあのホテルを脱出することはできませんでした。
そう考えるとこの腕がなぜか守り神のように思えたのでございます。
それをまさか食べることになろうとは……。
半年ぶりに冷蔵庫から取り出した高橋の腕は、まだビクビクと動いておりました。
綺麗に切断されている傷口からは、血管がミミズのようにのたうち回っております。まるで数万の虫の集まりのように腕の細胞が脈打っているのです。
焼くか、煮るか、それとも蒸すか……。
どう食べるべきか迷いましたが、効果が無くなるといけないのでそのまま食べました。
レアですね。
日頃であればミディアムなのですが、致し方ありません。
嫌がる妻をなだめながら二人で動き回る腕を完食したのでございます。
腹いっぱい食べたのは何か月ぶりだったでしょうか……。
皿に残ったのは血まみれの腕の骨と爪の破片ぐらいです。
日本でもその昔、飢饉の度に村人は互いに食い合ったそうでございます。生き残った村人の家には必ず人肉を漬けた瓶があったそうです。
生き残るためにはそのぐらいの覚悟が必要なのでございます。
無論、みなさまも御承知でしょうから念を押す必要はありませんが。
胃の中で何かが動き回る感触がありました。
妻が吐き出すのを必死に堪えております。
高橋の腕はゾンビの腕ではございません。
まして正常な人間の腕でもないのです。
この腕は感染を克服した「貴重な種」の腕でございます。
新種の腕。
それを食ったのだから間違いなく効き目はあります。
私はそう確信しております。
そしてこの行為がこれまで試された「効果的なゾンビの対処法」の中で最も有益なものであると信じております。
ああ、そうこうしている間に制限時間に近づいて参りました。
果たして私たち夫婦はどのような末路を遂げるのでございましょうか……。
もし、生き残ることがあれば、私たちは「知床」を目指します。
日本国の政府が移された新首都でございます。
人口は百万人に制限されていると聞きます。
何のためにそこを目指すのか……
今はわかりません。
坂本同様に国に対しての復讐なのかもしれません。
ただ救いを求めたいだけなのかもしれません。
考える必要はあるでしょうか。
運命を変えるのは行動であり、出会いであることを私たちはあの層雲峡で学んだのですから。
ああ、視界が何やらぼやけて参りました。
妻がずっと布団に潜ったままなのですが、気のせいか、低い唸り声が聞こえてきます。
これから後の記述は未来の話でございます。
リアルタイムでスマートフォンに入力し、生存者のみなさまに発信していく所存です。
無謀なりとも希望に向かって前に踏み込んだ私たち夫婦を応援していただければ幸いでございます。
それでは、この続きは私の命が続いた場合に更新させていただきます。
失礼致します。
 




