第6話
お待たせいたしました。
先日、掲示板にご質問をいただきました。
他人との交流はそれだけで勇気を与えてくれます。
ありがとうございます。
津市の男性の方からでございました。
私の記憶では津は、ウナギで有名な地域だったではないでしょうか。ウナギなどもう随分と口にしてはおりません。
質問の内容は、日頃何をして過ごしているのか、ということでございました。
当然ながら外出は控えさせていただいております。
冗談はさておき、本日の我が家の過ごし方をお伝えしましょう。
妻は完成し額に飾ってあったジグゾーパズルを崩して、最初から作り始めておりました。千ピースのパズルが我が家にはたくさんあるのでございます。妻の誕生日やクリスマス、ホワイトデーなどにプレゼントしてきたものでございます。随分と楽しそうに取り組んでおりました。
私は……たいへんつまらない話ではございますが、本日は「円周率」を覚えておりました。円周の長さをその直径で割った数値でございますが、3.1415926535……と無限に続く無理数でございます。
円周率は実に不思議でございます。一定のパターンといえる規則性が全く無いのです。
一説にはこの無限に続く数字の中には、地球上に住むす全ての人間のパーソナルデータが数値化され存在するそうでございます。
私の誕生日からその歳の身長や体重、髪の毛の本数まで掲載されているのでございます。おそらくいつ結婚し、いつ死ぬのか、その人間の全てがそこに反映されているのです。
この地球の誕生から、滅亡までも……。
円周率には宇宙の全てが、もしくは運命の全てが詰まっているのかもしれません。
私はそんな不思議な感慨に浸りながら、今日を過ごして参りました。もちろん飲まず食わずでございます。
みなさまはどのような一日を過ごしていらっしゃるのでございましょうか。
さて、九月二十六日未明の話に戻しましょう。
私と妻は層雲峡のホテルに宿泊している最中に事件に巻き込まれました。
その中で二階に宿泊している高橋守という学生から恋人の捜索を依頼され、五階の露天風呂へと向かっていたのでございました。
予想に反し、私たちは危険な場面に遭遇することも無く無事に浴場入口に到達いたしました。
さらに私たちを驚かせたことは、浴場入口のドアに鍵がかかっていなかったことでございます。
バリケードなどで妨害され、室内に入ることは難しいのでは、と危惧していただけに、なんとも肩透かしを食った感じでございました。
私たちは恐る恐るドアを開き、中へと進みました。
甘い匂いが鼻孔をくすぐります。
生まれて初めての女湯に私は足を踏み入れたのでございます。
状況が状況ですが、妙に胸が高鳴りました。
脱衣室には誰もおりませんでした。
棚には浴衣を収める籠がいくつもございましたが、全て空でございました。
非常ベルが消えてから時が経過しておりまして、辺りは静寂に包まれております。
私たちが探している石和麻由希の姿はそこにありませんでした。
私はさらに奥へと進み、探索しようとした矢先、妻がトイレのドアの前に立ったのでございます。
そして優しい声で囁やいたのでございます。
「……大丈夫ですか?そこに居たら駄目ですよ。出て来て私たちとここを逃げましょう。今なら外は安全です」
トイレの中で人の気配がいたしました。
「誰、ですか。従業員の方ですか。警察の方ですか」
中からか細い声が聞こえて参りました。
若い女性の声でございます。少女と呼ぶにはしっかりした声でございました。
「私たちもここの宿泊客です」
妻は落ち着いた口調でそう返しました。
中の女性も様々な葛藤をされていたのでしょうが、やがてドアを開き、私たちの前に姿を現しました。
おそらく妻がここにいなければ彼女が出てくることはなかったでしょう。
「私は山岡朝洋といいます。こちらは私の妻です。あなたは石和さんですか?」
男の私がそこにいたことに幾分驚いた様子ではありましたが、夫婦だということを知り、警戒する気持ちは和らいだようでございます。
「そうですが……どうして私の名前を知っているんですか?」
その言葉を聞き、私は思わずガッツポーズをしてしまうところでした。
このような非常事態で、こうも安易にミッションをやり遂げられたことに満足いたしました。
「よかった。あなたが石和麻由希さんなんだ。よかった」
妻は目尻に涙を潤ませながら何度もそうつぶやきました。
石和さんは不思議そうに妻を見ております。
「石和さんはひとりですか?」
そんな彼女に私は話かけました。
「はい……私ひとりで部屋を出て露天風呂に来たんです。そしたら非常ベルとアナウンスが流れてきて……怖くてここに逃げ込んだんです」
「そうですか。でもよかったですよ。ここに隠れていて正解です」
「いったい何が起こっているんですか?部屋に残してきた友達は大丈夫でしょうか?」
青ざめた表情で彼女は私に詰め寄って参ります。
私は「友達」という言葉に少しばかり引っ掛かりを覚えましたが、この歳で「恋人が」だとか「彼氏が」とはなかなか人前では口にできないのでしょう。私は彼女から清々(すがすが)しい奥ゆかさを感じました。
「大丈夫です。私たちはその友達に頼まれてここに来たんです」
「そうなんですか」
「それはもう熱く説得されましたよ」
私は少しからかい気味にそう答えました。
ようやく私も彼女をまじまじと見る余裕ができておりました。
彼女はスラリとした体形で、色は白く、唇はとても厚い美人でございました。 動くたびにその腰まである黒い長髪から良い香りがいたします。
「奈々子が……男の人に話をするなんて……」
私は彼女に見とれてその言葉を聞き流しておりましたが、妻は驚いて聞き返しました。
「奈々子さん?あなた、何人で宿泊してるの?」
「何人ですか?二人ですけど。私と幼馴染の奈々子の二人で北海道旅行に来ているんです」
私と妻は同時に唖然として声を失いました。
では、私たちに依頼をしたあの高橋守は供に宿泊しているわけでは無いことになります。
あんなにも情熱に満ちた語りをしていたあの男性は何者なのでございましょうか。
その時、私の携帯電話が振動しました。
LINEを通して高橋守から通信が来たのでございます。
そして、まったく同じタイミングで浴場の入口のドアが激しく開きました。
止まった刻がまたあわただしく動き始めました。
運命とはまったくもってわからぬものでございます。
そして衝撃的な惨状を私たちは目の当たりにするのです。
さて、本日はここまでとさせていただきます。
はたしてこの空腹で眠りにつけるのか自信はございません。
もう三日、まともな物を口にしてはおりません。執筆を続ける力も無いのでございます。
続きはまた体力の回復を待ってさせていただきます。
それでは一度、失礼させていただきます。