第12話 カラー・ブルー
第12話 カラー・ブルー
「どうして俺まで行かなければならないんだ」
後に続く高橋守が不平不満をずっと漏らしております。
(偉そうなことを言っていたが、要は自分で助けに行く勇気が無かったってことか)
そんな高橋をチラリと見ながら坂本は歩みを進めます。
目的地が五階の露天風呂であることを告げると最初は歓声をあげていたが、しばらく進むと愚痴が多くなってきました。
どうも情緒不安定な男です。
部屋で死んでいた女についてもまるで罪悪感を感じている様子がありませんでしたが、こうなるとこの男の話を鵜呑みにもできなくなりました。
救出先の麻由希という女にしても本当に恋人同士なのか怪しいものです。
通路にはやつらが彷徨っていましたが、それぞれが一定の距離を保っており、まるで密集していなかったので蹴り倒して駆け抜けるのは難しいことではありませんでした。
坂本の強烈な蹴りをくらって壁に叩きつけられ倒れる感染者を見るたびに、高橋は怯えた顔をしてそこを通り抜けます。
起き上がった後には坂本たちの姿は無く、追う対象が見つけられないので感染者はまたその辺りを彷徨うことになるのでした。
したがって坂本たちが追いすがれることはありませんでした。
坂本の巧みな戦闘術があればこそ可能な進軍です。
五階にある露天風呂の脱衣室に到着したのは九月二十九日正午ぐらいでした。
やつらの異臭にもかなり慣れてきたと思っていましたが、ドアを開いて押し入ると凄まじい臭気で呼吸が出来なくなりました。
辺りには食い散らかされた人間の破片が至る所に散らばっています。
驚いたのはその破片がよく見るとまだビクビクと動いていることでした。
(こんな状態でも生きているということか……これはいよいよもって殺すことは難しそうだな)
坂本は近くで倒れている少女を発見しました。
久門翔子です。
どこから見つけ出してきたのかノート型のPCを抱きしめて横たわっておりました。息はあります。どうやら坂本と同様に抗ウイルス薬の副作用で意識を失っているようです。
「麻由希! ああ、 ま ゆ きー ! ! ! ! 」
高橋守の絶叫が室内にこだましました。
坂本が振り返って見ると、高橋が両膝を床につけ、その破片を手に取って泣いておりました。
髪の毛や顔の一部だったところを必死に掻き集めています。
露天風呂の方角から一斉にやつらの唸り声が聞こえてきました。
間違いなく高橋の声に反応したのです。
(時間が無いな……やむを得ない。ここで任務遂行といくしかない)
坂本は椅子に翔子を運ぶと、泣きわめく高橋にこう声をかけました。
もし誰か正常な精神の人間がこの場に居て、この話を聞いていたら、自分が聞き間違えていると思うに違いない言葉でございます。
それほどに坂本の言葉は異質でした。
「高橋。その肉を食え!!」
高橋はビクリと身体を痙攣させて坂本を見ました。
坂本は血の涙というものを初めて見ました。
高橋は瞬きをすることも無く、両目から血を流しながら坂本を見つめているのです。
それでも坂本は言葉を続けました。
(狂うのならとことん狂え!!)
「その女のことを本当に愛しているのならその肉を食え。そうすればお前たちは永遠にひとつになれる」
「永遠にひとつ……俺と麻由希が……ひとつになる」
高橋は悦に入った表情で、その言葉を繰り返しました。自分の言葉に酔っている様子でもありました。
やがて、それをゆっくりと口に入れ始めたのです。
最初は味わうようにひと噛み、ふた噛みしていましたが、だんだんと狂ったように早くなり、掻き込むように血だらけの破片を口にし始めました。
そう、これが軍事作戦「レインボー」の最大の使命。
リーダーたる「カラー・レッド」の任務でございました。
感染者の肉を食うことで免疫力をつけられるはず、という型破りな構想でございます。
まさに虹の橋を渡って神の国を目指すような希望に満ち、それでいて空虚な妄想です。
カラーレッドの任務は、ひとりの生存者にこれを課すこと。
この試みで免疫力が付くのは科学者の総意によると八千百二十八分の一の確率だということでした。
つまり日本中の二千八百二十八の実験場で試して、成功するのはその中のたったひとつだけということになる計算です。
坂本は剥がれ落ちていく自らの皮膚を見やって勘付いておりました。
抗ウイルス薬など気休めに過ぎないことを。
例え効果があったところで症状を引き延ばすだけの代物だということを。
このウイルスを撃退するためには相応の生贄が必要だということを。
かつて神が世界を滅ぼしたとき、ノアは生贄を捧げて生き残った。神は契約の証として虹をかけたといいます。
坂本は翔子の隣の席に力なく腰を下ろしました。
このどうしようもなく馬鹿げた、それでいて誰かが必ずやらなければならない任務を坂本はついに果たしたのです。
「お兄ちゃん、任務遂行おめでとう」
気が付くと隣で寝ていたはずの翔子が、きっちり目を覚まして坂本を見つめていました。
坂本は首を振って、正気を保ってから翔子の頭を優しく撫でました。
「やはりお前も任務遂行者だったのか」
「私はカラーブルー。お兄ちゃんの任務を臨機応変に誘導しながらいろいろな可能性を模索するのが私の任務よ。大事なところでアドバイスはできなかったけど……」
「いや、いいさ。ここまで導いてもらった。ここで意識を失っていたのは計算づくだろ?」
翔子は大きな目を本当に猫のように見開いて、
「これでも飛び級で二年前に東京大学理Ⅱに合格してるのよ。この一年間はこのウイルスのことばかり研究してきた。けど駄目だわ。肝心なところでケアレスミスしちゃって……聞いているでしょ?私も感染しちゃったの」
坂本は聞いているとも聞いていないとも答えませんでした。
ただじっと翔子を見つめております。
「あーあ。これでこのウイルスの基礎理論完成させられたら五億だったのになあ」
「たかが五億円と命を引き換えか?」
「違うわよ。五億ドル!まあ円安が加速しているけどね、四百億円くらいかな」
「そんなに儲けてどうする気だったんだ。北海道でも丸ごと買う気か?」
「いいかもねー。私さ、小さな頃からそりゃ厳しく勉強させられたんだ。物心ついてから勉強しかさせてもらえなかった。一日十五時間は机に向かってた。母親と一緒にね」
「随分な教育ママだな」
「試験管ベイビーなのよ私って。かなり頭のいい人の精子だったみたい。それもあって母親は張り切っちゃってさ。凄いの。問題を解き間違えようものなら殴られ蹴られ、身体にタバコの火を押し付けられるのよ。生爪剥がされたこともあったっけ」
そう言えば、腕に火傷の跡があったことを坂本は思い出していました。
「飛び級、飛び級で順調にきたけど、プレッシャーは凄かったな。東大落ちたら殺されていたかもね。やっぱりやらされてる勉強じゃダメ。土壇場でこうやってボロが出るから。お金を貰って自由を買いたかったんだけど……夢は夢か……机に向かってて一生が終わっちゃったって感じ。笑えるよね。私まだ十四年しか生きていないのに……」
翔子の頬を涙が伝って落ちていきました。
坂本はそれを優しく手でふき取り、
「ここを脱出したら好きな所に連れて行ってやる」
「そう言ってまた置いてけぼりにする気でしょ?」
「約束は守るよ」
「じゃあ期待しちゃおうかなあ」
涙は止まらなかったが翔子は微笑んみました。
おそらくそんな日を迎えることなど決して無いことを彼女は自覚していたのでしょう。
翔子がおもむろに懐のPCを開きます。
「これでもいろいろやってみたのよ。成功の確率の八千百二十八分の一っていうのも、元はと言えば私が最初に提唱したんだから」
「他にも数字があるな……6、28、496、8128……なんだこれは?」
「お兄ちゃんの任務遂行にまつわる数値ばかりよ。よく覚えておいて、っていうかこれ全部が完全数なんだけど」
「完全数?」
「やっぱり知らないか……まあいいや。どうせ偶然だろうし。いろいろやってみて導いたんだけど……感染者の肉を食べて二十八時間後には正確な判断ができるわ。それ以降も自我が崩壊していないようだと成功ね。きっと免疫も完成しているはず。自我を失っているようだと失敗。感染者の仲間入りよ」
(28時間……作戦強制終了の時刻までには決着がつくな)
「この496は?」
「これは、国の諜報員の皆さんが多大な犠牲を払って入手した数値よ。まだよくわかっていないんだけど、おそらく感染者のどの部位を食べると効果があるのかを示しているはず」
「部位?食べる部位で変わるのか?」
「そうみたい。私は496㎜が古代メソポタミアの1キュビットに相当することから予想を立ててみたんだけど……」
「どこだ?」
「キュビットはラテン語で肘を指しているの。1キュビットは人間の肘から中指までの長さを表しているわ」
「肘から指の先まで食べるってことか……たぶんあいつは食べているぞ」
「そうね……手あたり次第ね……他の部位は有毒なのよ。正確に必要な部分だけを食べない限り効果は無いと思う。残念だけど……。先に伝えられたら良かったんだろうけどお兄ちゃんに連絡の取りようがなかったから」
「なんで正体を隠していた?」
「正直に言ったら相手にされないぞって。妹のように近づけばきっと取り入ることができるって軍のおじさんに忠告されたのよ」
(おそらく沖田将補だろう)
「なるほど。それであの名演技が生まれたわけか。ここを出たらアカデミー賞でも狙って女優にでもなったらどうだ?四百億円以上の稼ぎになるかもしれんぞ」
翔子は苦笑いして手を振りました。
顔の肌がボロボロになり剥がれ落ちてきているのが憐れで、思わず坂本はそっぽを向きました。ウイルスの進行は坂本よりずっと早そうです。
内線の電話が鳴りました。
一端は食事に集中して静かになった高橋に比例して収まっていたやつらの唸り声がまた高まります。
唸り声は、さっきまでより近い場所から聞こえてきました。
坂本が受話器を取りました。
「沖田か?」
「ええ。お探しの子猫ちゃんは見つかったようですね」
「ああ。ついでに俺の任務も終了した。そう桂に伝えてくれ」
「わかりました。伝えておきます。それはそうと、その子猫ちゃんの容態なんですが……どうも良くないようです。こっちのモニタリングではもう末期症状が出る寸前です」
「免疫を付けるためには感染者の肘から下を食べればいいそうだ。その辺のやつらの腕を引きちぎって食べさせる」
「いや……ここまで感染が進んでしまっては無意味ですよ。仮に間に合ったとしてもそれで免疫力が付くのは八千百二十八人に一人の確率です」
「だったらお前の持つ抗ウイルス薬をさらに投与して症状の進行を遅らせられないか?」
「まあ、それなら可能性はありますが」
「たしか九階だったな。すぐに向かう」
「でも、坂本さんの任務遂行が成功したということは、連動して他の任務遂行者も動き出します。特にカラーインディゴ(藍色)の任務はかなり厄介なんです。坂本さんも北海道の知床に首都を移す計画は聞いているでしょ?絶対に感染者が立ち入れないように感染者の天敵を知床周辺に大量に放すらしいんです」
「天敵?そんなものがいるのか。」
「ええ、この一年そのために開発された新種です。コンピューターから発せられる信号を受信して動き回ります。つまりいかようにもコントロールできる動物なんです。どこまでやつらに効果があるのかを試すのがカラーインディゴの任務になっています」
「つまりこれからその動物を使ってやつらの虐殺ショーが始まるってことか?」
「坂本さんの任務が遂行された以上、感染者たちに用は無いですからね。一網打尽です」
「そんなに簡単にいくのか?」
「さあ。軍の関係者の方々はその気満々でしたが」
「で?何の動物だ?」
間をおいてから沖田が、
「熊です。六頭の羆です。」
そう答えました。




